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コバルト短編小説新人賞への投稿作

あなたと結ぶ白い蝶

作者: 日咲ナオ

コバルト短編小説新人賞に投稿し、選外だったものです。

 真っ白なロープをひょいと操る幼い彼は、まるで魔法使いのようだ。いつもいろいろな形を作って、どんどん命を吹き込んでいく。それが楽しくてたまらない。

 クルッ、とねじって大きめの輪を作る。次にその輪の真ん中辺りでもう一度クルッとねじって、つながったふたつの輪を作り上げた。余った紐から遠い方の輪を、根元の交差している場所の下を通して、さらに残った輪へくぐらせる。

 キュッと結んだ結び目はゆるりと揺れて、ヒラヒラと空を舞う蝶のようだ。

「うわぁ、チョウチョみたい!」

 あっという間のできごとに、少女は薄茶色の瞳をキラキラと輝かせた。グッと身を乗り出した拍子に、薄茶色のやわらかな髪がふわりと動く。

 彼の手がロープを揺らすと、白い蝶はユラユラ揺れて舞い踊る。少女はすぐに、ほうっと感嘆の息を吐く。

「ラインズマン・ループって縛り方だよ。でも僕は、バタフライ・ノットって呼んでる。結び目が蝶の形に見えるでしょ?」

 いたずらが成功した子供のように、彼はニコッと笑う。細められた緑色の瞳も、首を傾けた際に滑った金茶色の髪も、無性に楽しそうだ。

 差し出された結び目は、揺れていた時と違って、蝶とは似ても似つかなかった。ただの結び目だ。

 やはり、彼は魔法使いなのだ。だから、ねじったり結んだりしただけのロープが、生き物のように見えるに違いない。

「ねえ、このチョウチョって、もっとたくさん作れるの?」

「うん。ロープがあれば、いくらでも作るよ」

 ニッコリ笑ったあどけない彼は、同じロープにもうひとつ、瞬く間に蝶を形作る。さらにひとつ、またひとつ。次から次へと、ロープがなくなるまで、彼はひたすらに蝶を作り続ける。

「僕が死ぬ時は、こんなふうに、たくさんの蝶に囲まれて死にたいな。蝶がヒラヒラ舞ってる、いい匂いの花畑の中なんて、最高かもしれない。それで、死んだら、蝶になりたいって思ってるんだ」

 にこやかに笑う彼は、なぜかそんな寂しい言葉を口にした。


         § 


 二人はずっと、一緒に時を過ごした。互いの誕生日を祝いあい、楽しく穏やかな時間を重ねている。

 思春期に入った後は、どちらからともなく、恋人と呼べる関係へと変わった。

 そっと手をつなぎ、触れるだけの口づけを交わす。ただそれだけで、なぜか満足していられる日々は、ゆったりと過ぎていく。

 特に隠し立てしていなかったため、街中で二人のことを知らない者はいない。それほど、彼らはどこでも幸せそうに寄り添っていた。

 それが一変したのは、ほんの些細な偶然からだ。

「……え?」

「メイジー、すまない……許してくれ」

 深々と頭を下げる両親に、少女は大きく目を見開いた。

(……私が、領主のご子息に……?)

 街を彼と歩いている時に、たまたま訪れていた領主の子息が見初めたそうだ。

 たった今、両親からそう聞かされた、あまりに現実離れした話。それがどうしても、信じられずにいる。

 領主の館がある街は、馬車でも半日ほどかかるのだ。領地の端にあるこの街に、領主の子息がいったいどんな用事で立ち寄ったというのか。

 この期に及んで、どんな運命のいたずらが働いたというのだろう。

(……オスカー以外には、嫁ぎたくない……でも……)

 幼い頃からずっと一緒にいて、彼以外の誰かと寄り添う自分など想像もできない。

 けれど、この縁談を断れば、この街すべてが巻き込まれるだろう。たとえ、表向きは破談が受け入れられたとしても、だ。

 家族だけでなく、無関係な街の住人まで苦境に立たせて、それでいいのか。

 わかりきった答えを口にできない、出口のない自問が繰り返される。

「今すぐとは、さすがに言わない。無理だとわかっている。だが、ひと月の間には、覚悟を決めておくれ……」

 拒否権は、誰にもないのだ。

 メイジーはただただ力なく、かすかに頷く以外になかった。


 こんなことになってしまったと、オスカーに伝えなければいけない。家族どころか街中の公認だったが、これからは一緒にいられないだろう。

 それでも、なかなか赴くことができないうちに、数日が過ぎていた。

 当たり前に描いていた明るい未来が、あっという間に黒色で塗りつぶされていく。ただひたすら、絶望が広がるだけだ。

 重い足をズルズル引きずって、メイジーは彼の家へと向かった。

 大通りは賑やかで、いつも活気にあふれている。道に面してズラッと並ぶレンガ造りの赤茶けた家々も、やわらかな日差しを浴びて明るく綺麗だ。

 普段であれば、心を軽やかにしてくれる風景だというのに。今は、メイジーの気分をとことん沈ませてくれるものでしかない。

(……どうやって、伝えたら……)

 オスカーとは、いずれ結婚するつもりだった。もちろんそれは、オスカーとて変わりないはずだ。

 それが、こんなにも呆気なく崩壊してしまうなんて。

 トボトボと裏通りへ入り、街の外れへ歩く。他の家から離れたところに、ぽつんと居を構えているのが、オスカーの家になる。

 かつては親子で、相次いで両親を亡くした今はオスカーが一人で、気ままに暮らしている。木板を打ちつけた外壁と屋根は、パッと見には、こぢんまりとした山小屋のような印象だ。

 コツコツとオスカーが手入れをしている。メイジーも、何度か手伝った。それでも、風雨にさらされるこの家は、あちこちのレンガがポロポロと欠け始めていた。

 大きく数回深呼吸して、何度も逡巡してから、玄関のドアをそっと叩く。

 息を吐き出すたびに、伝えなければいけない言葉が重くのしかかってくる。

「オスカー?」

 ノックにも声かけにも返事がない。

 留守だろうか。そう考えてから、この時間はたいてい家にいると思い至る。だからこそ、こうして訪ねてきたのだ。

「オスカー? いないの?」

 声をかけながら、ドアノブに手をかける。軽い気持ちでひねると、キィ、と耳障りな音を鳴らしてドアが開く。

 ドアの隙間から見える室内は、やけに薄暗かった。

 息を飲み込んだ喉が、ゴクリと鳴る。

「……オスカー?」

 彼は、鍵もかけずに留守にするような、不用心な性格ではない。

 ひょっとしたら、急な病気で倒れているのでは。

 新しい可能性に気づき、メイジーは急いで中へ滑り込む。後ろ手に閉めたドアの音が、妙に耳につく。

「ねえ、オスカー……いるんでしょ?」

 緊張して速まった呼吸の音が、懸命に澄まそうとする耳の邪魔をする。じんとする耳鳴りで、他の音がどんどんと聞こえなくなっていく。

 いつもは綺麗に片づけられていて、床に何か落ちていることはない。机の上も、潔癖なまでに片づいている。あまりにきちんとしすぎていて、時々生活感を感じられないこともあった。

 だが今日は、床にいろいろなものが雑然と散らかっている。低いテーブルの一輪挿しに刺さった花はしおれて、くったりと下を向いていた。見回してみれば、他の花瓶に生けてある花も、ほとんどがクタクタしている。

 屋内の仕切りはない。玄関から、何もかもを見渡すことができた。

 右手側の本棚には、ぎっしりと本が並んでいる。オスカーが集めただけでなく、彼の両親もコツコツと収集した本だと聞いた。左手には小さな台所と、食事のためのテーブル。部屋の中心あたりには、ソファと低いテーブルが用意されている。そして、玄関の真向かいの壁際には、ベッドがひとつ、ぽつんと置かれていた。

 そのベッドに、ぐったりと横たわっている人影が見える。

「オスカー!」

 慌てて駆け寄ったメイジーは、ホッと息を吐き出す。オスカーは苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、頬を真っ赤に染めていた。

(そういえば、ここ数日、オスカーと会っていなかったわ)

 暇さえあれば、オスカーは会いに来てくれる。メイジーも彼の家に出向くことはあるが、留守の時はそのまま帰ってしまう。

 縁談を知らされた前日に一度来ているが、その時はドアを叩いても返事はなかった。留守だと思い込んで帰ったのだが、その日にはもう、彼は寝込んでいたに違いない。

 きちんと触って確かめる必要があるが、どうやら彼は、ずいぶんと高い熱を出しているようだ。

(きっと、風邪でも引いたのね)

 思い返せば、このところ、昼間の暑さと夜の寒さに大きな差があった。幼い子供や老人の中には、熱を出して寝込んでいる者も多いらしい。

 オスカーも、そうして体調を崩した者の一人なのだろう。

 合点がいって、メイジーはそろりとオスカーの額に触れる。

「え……?」

 ひんやりしていた。

 思わず、彼の額に触れた手を引っ込める。

 苦しそうな息と、真っ赤な顔。どう見ても、高熱を出している者の様子だ。それなのに、触れた額はまったく熱くない。せいぜい平熱か、下手をすると少し低いくらいだ。

(……どういう、こと?)

 体調を崩した者たちが、オスカーと同じ症状ならば話題になる。そういった話は聞かれないのだから、彼だけがこうなっているとしか考えられない。

 他の人とはまったく違う病気なのか。

 立ちすくんだまま、メイジーはオスカーをジッと見下ろす。

 こうして寝込んだきりなのか、少しやつれている。全体的に何となく、生気がなくなっているようだ。

(……このまま、よくならなかったら……)

 わざわざ非情な宣告をすることなく、彼は旅立つのでは。

 自分の考えが恐ろしくなって、メイジーはブルッと身震いする。

 思考を振り払うように、メイジーは本棚へ近寄った。一縷の望みをかけて、病に関して書かれた書物を探す。それらしいものを片っ端から開いては目を通し、がっくりと肩を落として閉じる。その繰り返しだ。

 日暮れが近づいた頃、それが見つかった。

 表題はない。しかし、何度も読み返したようで、あちこちがすり切れている。

 中身は、手記に近い日記だった。出てくる名前からすると、オスカーの両親が書き残したもののようだ。

 すっかり暗くなった部屋の中で、それは非常に読みにくい。持ち帰って読むか、明日出直すか。しばらく迷って、メイジーは出直すことにした。

 元の場所に日記をしまい、もう一度オスカーの様子を眺める。

 熱があるような、真っ赤な顔。ハアハアと荒い呼吸。ぐったりして、元気もない。最初に見た時と、何ら変わりなかった。

 身動きひとつ、した様子はない。

「オスカー、明日もまた来るわ」

 そう声をかけて、そっと家を出る。

 夕焼けに赤く染まった何もかもが、不吉な気分をことさら煽った。


 翌日、昼食を済ませてからオスカーの家へ向かった。

 街外れに家があるせいか、街の誰も、オスカーの異変には気づいていないようだ。

 すでに領主子息との話が出回っているのか。街外れへ向かうメイジーを見かけても、誰も何も言わなかった。

「オスカー?」

 声をかけるが、やはり返事はない。そっとドアを開けて滑り込み、ベッドに寝ているオスカーを覗き込む。

 昨日と変化はないようだ。

 念のため、額に触れてみるが、相変わらずひんやりと冷たかった。

 クルリと踵を返し、メイジーは本棚から昨日の日記を取り出す。最初からじっくりと読むつもりで、手近な椅子に腰かける。

 膝に乗せた本を、パラリとめくった。並ぶ文字は、どこか几帳面さがにじみ出ている。恐らく、オスカーの父親が書いたのだろう。

(そういえば、出したものは片づけなさい、と言うのは、いつもオスカーのお父様だったわね)

 その片づけも、綺麗にきちんとしまわないと、何度もやり直しをさせられたものだ。

 無邪気に笑っていられた幼い頃が、ほんの少し懐かしく思い出された。

 口元をわずかにゆるめて、メイジーはどんどん読み進めていく。

 途中から、書き手が変わった。内容から、オスカーの母親だろうと推測できる。


『とうとう、あの人が倒れてしまった。私もきっと近いうちに……。オスカーも、逃れることはできないでしょう。できれば、メイジーちゃんと結婚してしまう前に、倒れてくれたら……ああ、こんなことを望むなんて、私は母親失格だわ』


 メイジーは大きく目を見開き、ヒュッと息を吸い込む。

 オスカーの母親は、笑顔の絶えない人だった。いつ見てもニコニコしていて、悩みとは無縁な、朗らかな人だったのに。

(……こんなことを、言うような人じゃなかったわ)

 いったい何がそうさせたのか。

 さらに読み進めると、オスカーが寝込んでいるのは、彼の両親の一族だけが発症する謎の病のせいだとわかった。意識もほとんどなく、起き上がることもできず衰弱し、ただひたすら死を待つだけという、ひどく残酷な病だ。しかも、発病した場合、絶対に助からない。運よく免れた者がいたとしても、子孫が発症してしまう可能性が残されるそうだ。

 血縁以外の者と結ばれ、難を逃れ続けるしか、生き残る手段はない。そう、オスカーの母親は推論を書き残していた。同時に、それがいかに難しいことかも。

(……じゃあ、オスカーは……)

 とうに発症したと思しき彼の両親は、すでにいない。オスカーが十歳になるかならないかの頃に、急にそろっていなくなってしまったのだ。恐らく、知らされていないだけで、その頃に亡くなったのだろう。

 夢中になってページを繰ると、オスカーの字に変わった。単なる覚え書きのようだ。

 それによると、彼の母親の場合、発症してから半月しか持たなかったらしい。父親より短かった、とあるが、それでもひと月近く生き延びるのは可能なのだろうか。

(……多分、あの前から……でも、それなら)

 伝えることなく看取って、嫁げるかもしれない。

 他に選択の余地はないのだ。どうせなら、何も言わず、何も知らせず、幸せなままで。

 あまりにも利己的だと、自覚はしている。それでも出来ることなら、静かにひっそりと、見送ってあげたかった。


「私、ご子息様に嫁ぎます」

 その夜メイジーは改めて、両親にはっきりと告げた。


         § 


 それからは、朝のうちにオスカーの様子を見に行った。午後一番には、領主の子息がたった一人で、馬で駆けてやってくる。彼とほんの一時を過ごし、見送った後はまたオスカーに会いに行く。

 オスカーと、領主の子息、どちらも裏切っている。そんな気分になりながら、メイジーは日々を過ごしていた。

 子息は、いい人だ。何度か会ううちに、メイジーはそう思うようになった。それでもまだ、心はオスカーにある。一向に、彼から離れようとしないのだ。

 十日もすると、オスカーのところに足を運ぶこと自体を、問題視する声がちらほらと聞こえるようになった。それらの声を無視して、メイジーは毎日オスカーに会いに行く。

 会うと言っても、あれからオスカーが目を開けたことはない。日増しにやつれて、生気がなくなっていく。心なしか、呼吸も徐々に弱くなっているようだ。

 もう、それほど長くはないのだろう。

 けれどメイジーは、そのことを誰かに話したいとは思わない。両親にすら、オスカーに異変が起きていることを伝えていないのだ。

「……ねえ、オスカー」

 呼びかけても、反応を示すことはない。

 現実を突きつけられながら、メイジーはもう一度呼びかける。冷え切った手に触れて、かさついた指先に口づけを落とす。

 この手が、単なるロープの中に、あれほどたくさんの蝶を生み出したのだ。あの幼い日の興奮は、今も、メイジーの記憶に鮮やかに焼きついている。

「あなたが好き。あなただけ、愛しているわ」

 ひっそりと囁き、オスカーの手の甲に頬をすり寄せた。


         § 


 領主の子息との婚礼に向け、三日後には街を発つと決まった。

 メイジーはヨロヨロと、街の裏通りを歩いている。その腕には、真っ白な細いロープをたっぷりと抱えていた。

 ずっしりと重いロープを、やや陰のある表情で、自分の部屋まで何とか運び入れる。ドサッと足元に落とすと、その場にサッと座り込んで、早速ロープを結び始めた。

 ロープをねじって大きめの輪を作る。輪の端を持ち、中央辺りでクルリとねじった。つまんだままの輪を動かし、キュッと結ぶ。

 幼い頃に夢中になって覚えた、蝶に見える結び方だ。

 慣れた手つきで、メイジーは次々に結び目を作る。ロープが終わりそうになると、次をつなげて、再び蝶を作っていく。

 そうして一本にしたロープに、たくさんの蝶に似た結び目を作った。さらに、ロープのところどころに、花の香りのする香水を薄めてつける。

「これだけあれば……」

 両腕にかろうじて抱えられる量のロープを、メイジーはギュッと抱き締めた。

 胸の内にある強い願いが、ロープに伝わるように。

 この胸に宿る思いが、残らず移ってしまうように。

(どうか、どうか……)

 真剣に、ひたすらに思いながら、それを抱えて家を出た。裏道を歩き、だんだん街中から外れていく。

 着いた先はいつもどおり、オスカーの家だった。相変わらず、人のいる気配は感じられない。

 メイジーはロープを一旦地面に下ろし、そっとドアを開ける。蝶番がキイキイと耳障りに鳴った。

 ロープを抱えて中へ滑り込む。いつもは閉めるドアを、今日は開けたままにする。

「オスカー」

 ニッコリ微笑んで呼びかける。もちろん、返事はなかった。

 布団の上に無造作に投げ出された手は、すっかりやせ細っている。手だけでなく、首や足も、骨がくっきりと浮き出ていた。肌や髪はかさついていて、艶が一切ない。

 胸部がかすかに上下していなければ、確実に死人と間違えられる姿だ。

 メイジーが覚えている彼は、いつもニコニコ笑っている。普通に生きて死んでいくだけであれば、必要としないこともいろいろと知っていた。

 一緒にいるだけで、楽しくて幸せな気分になれる。そういう人だ。

(……オスカーが、バタフライ・ノットを教えてくれたのよね)

 覚えるまで、何度も何度も手本を見せてもらった。やっと出来るようになった時、彼は全力で目いっぱい褒めてくれた。

 そのオスカーは、明日ともしれない命だ。じわじわと押し寄せる死と、今もひっそりと戦っているのだろう。

『僕が死ぬ時は、こんなふうに、たくさんの蝶に囲まれて死にたいな。蝶がヒラヒラ舞ってる、いい匂いの花畑の中なんて、最高かもしれない』

 彼がもう長くないと察した時、ふとその言葉を思い出した。

 これからどんどん寒くなっていく。蝶はもう飛んでいない。だからせめて、蝶に見えるもので彼を包んで、花の香りの中で、見送りたいと思ったのだ。

 メイジーはロープの束を持ち上げ、ベッドに向かって放り投げた。彼に当たらないよう、距離は十分に取ってある。

 ふわりと、甘やかな花の香りがただよう。

 それほど広がらず、ポトリと落ちてしまったそれらは、やはり本物にはほど遠い。鼻に感じた香りも、しょせん偽物だ。

 それでも、少しでいいから、彼の理想に近づけたかった。

 落ちているロープを、スッと拾い上げる。それを、オスカーのそばでユラユラと揺らしてみせた。

 あの日の彼がしたように。

「あなたが教えてくれた、バタフライ・ノットよ。上手でしょ?」

 目を開けることすらしないオスカーに、静かに囁きかける。

「ひとつひとつの蝶に、あなたを守ってくれますように、って願いを込めたの」

 足の先からゆっくりと、左右に振りながらロープをかけていく。

 十分な量を作ったつもりでいたが、オスカーの胸の辺りでなくなってしまった。

 すっかり衰弱しきっている彼の体に、これだけのロープの重みは苦しいだろう。命を縮めてしまうかもしれない。

 それがわかっていながら、メイジーはこうすると決めたのだ。

「ねえ、オスカー。私、あなたじゃない人に嫁ぐことになったの」

 なぜ今になって伝えようと思ったのか。メイジーにも、定かではない。

「あなただけを愛しているわ。それだけは、変わらない……変わらないの……」

 枯れ枝のようになったオスカーの指に、自身の指をスルリと絡める。

 今のオスカーはひどく痛ましくて、ジッと見つめていられない。けれど、最期の瞬間は絶対に見届けたい。

 相反する思いが激しくぶつかり、せめぎ合っている。

 元から弱々しかった呼吸は、いつの間にか止まりかけているようだ。口の近くに手のひらを寄せると、本当にかすかに空気の動きを感じられる。しかし、見ただけではもう、生死は判断できなかった。

 口づけをするように、メイジーはオスカーへ近づく。唇にほんのりと風を感じる。

 触れる寸前の姿勢のまま、空気が動かなくなるのを待った。

 かさつく唇に、そっと唇を重ねる。

 ひんやりと冷たかった。

 幾度となく口づけは交わしてきた。これが最後だ。

「……ありがとう、オスカー」

 しっとりとした声は、ふわりと空に溶けて消えた。

(これでもう、思い残すことはないわ……)

 想いを残すことなく、行ける。

 メイジーはゆっくりと外へ出た。空はいつの間にか、濃い紫色に染まっている。山の合間に、ほのかに赤みを残す程度だ。

 自宅へ向かって歩き出したとたん、目の前をふわりと白い蝶が横切った。

「あ……」

『死んだら蝶になりたいって思ってるんだ』

 あれはきっと、彼だ。

 闇をただよう白い蝶は、左右に揺れながら飛んでいく。

 思わず右手を伸ばし、けれどメイジーは、その手をサッと胸元へ引き寄せる。二度と同じ行動を起こさぬよう、左手でギュッときつく右手を押さえ込む。

 ここに想いは残さないと、つい先ほど決めたばかりではないか。

 自嘲の強い笑みを浮かべたメイジーは、ゆるゆると目を閉じた。その目を開くと、妙にスッキリした表情で、白い蝶がフワフワと消えた方角を眺める。

 三日後に、旅立つ方角だ。

(いつまでも忘れないでいて欲しい、なんて……私はわがままね)

 優しく包み込んでくれた、温かな愛情でなくていい。深く暗く、ねっとりと絡みつく憎しみがいい。

 死してなお、彼の魂に、存在をしっかりと刻み込んでいて欲しいのだ。


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