由奈と凪子の平穏な日常
振り上げられたナイフ。
それを見つめる、見開かれた眼。
鋼がわずかな光を反射させて、きらめきながら振り下ろされる。
見つめる目はさらに見開かれ、その口が悲鳴の形を作る。
そして、
汗が、散った。抜けるような青空。
「ファイトぉーーーっ!!」
筋肉質の男が叫ぶ。
「いっぱーーーーつ!!」
筋肉質の男がもう一人、叫び返す。 二人の手が、固く結ばれる。(※1)
──このCM、何年経ったら違うことするんだろう。
由奈はテレビの画面を見ながら、そんなことをちらりと思った。
そして、振り向きもせずに言った。人が見ている録画番組を勝手に止める人間は、ここには一人しかいない。
「ちょっと、凪子、止めてよね」
凪子はコートを着たまま、リモコンを握りしめていた。
「だって、そーゆーのきらいなんだもん」
「私は好きなの。続き、見させてよ」
リモコンをめぐって、ひと悶着。
「やだもんやだもんやだもん、絶対やだもん!」
勝者は、凪子だった。
泣く子と凪子には勝てない。
……ここは、誰の家だっけ?由奈は心の中で深くため息をつく。家といっても、アパートの一室だが。
凪子とは、高校で知り合った。何となく気があって、三年間たわいもないおしゃべりをして過ごした。卒業して由奈は就職し、会社にほど近い街の中心部で一人暮らしを始めた。凪子は大学へ通っている。凪子の親が不規則勤務かつ放任主義なこともあって、凪子は由奈のアパートへ入り浸っていた。
だいたい何で、断りもなしに人の家に入ってくるんだ。鍵をかけ忘れている自分もどうかとは思うが。
「どうしたのさ、きょうは?」
「お腹すいた」
「は?」
「ご飯食べよう」
凪子が言う『食べよう』は、『ご飯を作れ』という意味だ。
「いや、あのね」
こちらにも都合というものはあるし、いつでも材料や時間に余裕があるわけでもない。由奈がそんなことを言うより先に凪子が口を開いた。
「お腹すいた、お腹すいたってば」
「……座ってな。コート、脱ぎなよ。」
とりあえずあり合わせのおかずと残りご飯で雑炊。ご飯の量を、出汁で水増しする。
「ほれ、ご飯」
「うわぁい」
平和に食事して、今日の出来事やばかばかしいことを話す。たいていは、話しながら凪子が食器を洗う。今日もそうだった。作るのと後始末は分業。片付け物が苦手な由奈には、これはありがたかった。洗い物をしながら、凪子が言いだした。
「だいたいさ、由奈は趣味悪いよ」
由奈が流血モノ映画が好きなことをさしている。流血モノと言っても、スプラッタホラーではなくサスペンス系が好みなのだが、凪子にとっては同じことらしい。
「いいじゃん、別に。本物の流血を愛してるわけじゃなし」
もしそうなら、猟奇殺人犯になってるだろうか?いや、未遂で捕まるだろう。
自分がいかにトロいか知っている由奈は、リアルな流血を愛していないことを神に感謝した。どんな神かは、彼女自身も知らない。
バカ話の続きをして、深夜近くに凪子は帰って行った。凪子の家は割と近くなので、深夜の行き来もお互い特に危険を感じたことはない。
凪子を見送って、寝る体制に入る。
真っ白なテーブルクロスの上に、真っ白なタキシードを着た男が横たえたれている。切り裂かれたのど元が、彼自身の血の鮮やかな赤で飾られていた。
男ののどを切り裂いた老メイドが、異物をのどに詰めたための窒息死だ、と宣言した。(※2)
いやー、年寄りは頑固でいかんなー。由奈は画面を見ながらのんきに思った。麻酔もなく、食事用のナイフとフォークで手術されたのだ。ショック死とか失血死とか、考えられるんじゃないか?
生ハムを食べていた男ののどから鶏の骨が出てきたのは予想外だが。
オカルト?ゴシックホラー?映画の細かいジャンル分けに由奈は疎い。どちらにしても、けっこうおもしろい。少しずつ画面に引きつけられていく。
古い映画に夢中になっていた由奈は、例によって鍵をかけ忘れた玄関から人が入ってきたことに気づきもしなかった。
流しで物音がして、由奈は初めて自分以外の誰かが部屋にいると気づいた。おそるおそる振り返ると、流しには凪子がいた。
「驚かさないでよ」
由奈は笑い、笑顔のまま凍り付いた。凪子の手には、赤黒い何かがべったりついた包丁が握られていたのだ。映画の男の、赤く染まったのどが頭をよぎる。
「あ…あのさ、凪子、それ…」
由奈は、凍った笑顔のまま何とか凪子に声をかけた。凪子は真っ白い顔で、無言で、包丁を持ったまま近づいてきた。由奈は思わず後ずさる。
「由奈、なんで逃げるの?」
そりゃ逃げるだろ、と思いつつ、
「いや、まあ、ほら」
意味のない言葉を返す。
凪子が一歩近づく。由奈は一歩後ずさる。また凪子が一歩近づく。由奈もまた後ずさる。勝手知ったる自分の部屋で、由奈は壁に追い詰められないよう、ゆっくりと方向を変える。部屋の中を二人はゆっくりと回るように移動していく。凪子は包丁の切っ先を由奈に向けたままだった。
じりじりと移動を続けて、二人は台所の横へ来た。由奈はシンクの中に赤黒い広がりを見た。かつて生きていた何かの破片も。
「……凪子、包丁。続きは、私がやるから」
「……うん」
凪子は切っ先を由奈に向けたまま、包丁を差し出した。
「こっちに刃先を向けるな!柄を向けるの!」
「え?」
二人は食卓についていた。
「だいたいさ、何で頭もワタもあるやつ買ってくるの?」
「その方がなんかかっこいいじゃない」
いや、それで捌けなきゃ、むしろかっこ悪いから。その言葉を、由奈はおかずと一緒に飲み込んだ。
テーブルには、ご飯と味噌汁と、形の崩れた鯖の味噌煮。
※1 解説不要と思いますが、鷲のマークの大正のリ○ビタンDのCMから。
※2 映画「レガシー」(1978/リチャード・マーカンド監督)のイメージ。遠い昔の記憶に頼っているので、それさえも怪しいです。