Observer
「監視者……ですか? 僕が?」
甘く、佳き声が静寂を揺らした。
もう青年といっても良いほどに熟し始めてはいるが、戸惑いや驚きを隠さないその響きにはまだまだ蒼さが感じられる、年若い少年の声だ。
「僕が……あのふたりの監視役を?」
少年は、先刻と同じ内容のことばを再度繰り返した。
そうしたのは、信じられないからであろう。
いま自分と対峙している相手から申しつけられた頼み、それが信じられず、また受け入れることが余りにも難しく、彼は途方に暮れているのであった。
「そうじゃ、遙。……許しておくれ。お前にしか頼めんのだ」
膝を合わせて正面に座している老婆からそう言葉を返されて、彼──伊勢遙という──はさらに困惑する様子を濃くした。
遙は、端麗な少年であった。
異国の血が混じっているのだと一目でわかる彫りの深い眼鼻立ちをして、淡雪のように白い肌は内側からほんのりと薔薇色を透かしている。
通う高校の制服を着た体は、すらりと長い手足を持ち、彫刻のように均整がとれている。
それだけでも十分に見る者の心を奪う遙の容姿であったが、彼には更に、特殊にして優美このうえない美点があった。
それが──今しも老婆に向けて開かれた、二つの碧の瞳であった。
「喜代様、恐れながら……僕は」
遙の瞳は遙の心を精緻に微細に、水鏡のように映し出した。
それは先刻までの戸惑いを受け入れた上で、今ははっきりとした拒絶の色を浮かべていた。
だがその拒絶の奥に垣間見える、申し訳なさと、切なさ、悔しさの入り混じったような感情がある。
彼の正面に座している老婆、喜代は、その瞳をじっと見据えてただ瞬いた。
「やりたくないか?」
「……」
師匠である喜代の言葉に遙は懊悩していたが、それでも、例え恩師の頼みであっても、それに勝る、それよりも大事なことがこの世にはあるのだと、彼は考える少年であった。
碧の瞳、まるで夏の森のように輝く美しい相貌で今一度、申し訳なさそうに師匠を見つめて、彼はひとつ顎を引いた。
短いが、厳然たる肯定であった。
それだけで十分である。
喜代はそうか、とくぐもった声で呟いて、何か考え込むように、皺の寄った両の手を膝の上で組み合わせた。
「……そうか。わかった」
彼女は再度繰り返すと、今度は小さな瞳にまぶたを下ろした。
遙も答えるように頭を下げる。
申し訳ありませんと、彼が謝罪する言葉が辺りに響き渡った。
「謝ることはない。これは、命令ではない。……わしの、個人的な頼みであったのだからな」
「なればこそ、聞き届ければ、あなた様の手助けができたということでしょうに。……本当に申し訳もございません。けれど、僕にはできないのです」
遙は繰り返した。
さきほどから、二人が何について話し合っているのか──それは、喜代の言った通り、喜代の希望しているあることについてであった。
「……僕は彼らに救われました。だから、ふたりに恩返しをしたいのです。この命を懸けて」
遙の言う、”ふたり”。
そう、ここにふたりの男女がいる。
ひとりは遙の兄弟子であり、だが年齢は彼よりもふたつ年下の、まっすぐな心根をした少年だ。
名を、蒼路という。
遙が年齢よりも少し大人びた印象を周囲に与えるのとは対照的に、蒼路はその素直さと、心のままにふるまう奔放さのためか、年よりも少し幼く見える。
眼が大きく、小作りの顔立ちをしているので、笑うと更にあどけない印象を受ける。
そしてその蒼路が、常に身を呈して守護している一人の娘があり、彼女は名を深紅と言った。
美しい娘だ。歳は十六、遙のひとつ下で、蒼路のひとつ上。
不屈の心と苛烈な力をその華奢な体の内に抱いて、彼女は、遙を始めとして、蒼路、喜代の上に立つ身分の者として生まれた。
一同を繋ぐのは、彼らが異能者であるという事実。
それも、不思議な「星」という刻印を持って生まれた、「星師」という異能者であるということだった。
深紅は、その星師の開祖である一族の娘、すなわち、一同にとっての姫にあたる娘なのであった。
話題の中心は、その蒼路と深紅の関係についてであった。
幼馴染で在り、同じ「星師」という異能者として、時には同胞として任務を行うこともあるふたりだが、彼らはつい先日、六年という歳月を飛び越えて再会を果たしたばかりなのだった。
彼らの年齢を考えれば、その再会は当然、様々な驚きを双方にもたらしたと考えられる。
特に、蒼路は傍目にも分かりやすく、美しく成長した深紅の美貌とたたずまいに驚愕を露にし、心を奪われてしまったようであった。
深紅は、さすがに姫として、感情を表ざたにすることはない。
それでも喜代が遙から聞いた話のなかには、戦いの最中、いかに深紅が蒼路を信頼し、また心配しているかということが如実に伝わってくるエピソードもたくさんあった。
「……わたしは怖い。遙」
ふいに喜代はそう呟いた。
剛健な師匠の口から発されたその弱気な言葉に、弟子である遙は心底おどろいて碧の眼を見開いた。
「怖い……のですか? 喜代さまが、一体何を……」
「蒼路じゃ」
喜代ははっきりと、だが静かにその弟子の名を呟いた。
喜代は蒼路が九歳の時から異能者としての指導を行っている。
蒼路は口が悪く、生意気だが、素直で純粋で、どうしても憎むことのできない、つまりは喜代にとって可愛くてしょうがない弟子なのであった。
「蒼路は、危険じゃ。……あまりに純粋で、怖れを知らぬ。深紅のために、奴は何でもするじゃろう」
蒼路を大事に想うと同時に、しかし喜代は、姫である深紅の身を案じてもいた。
当然である。
ゆくゆくは主となる娘の身を案じない臣下など、居る筈もない。
「……喜代さまのお言葉の意味は……恋、でしょうか」
ふいに遙がそう問うた。
彼は賢い。
喜代が何を想い、何を案じているかということを、遙は正確に汲み取っていた。
喜代は頷く。
「……そうじゃ。畏れ多くもな……臣下と、主の間には、恋はあってはならぬのじゃ」
──それこそが、喜代の恐れていることだった。
蒼路は、深紅に見境が無い。
そして深紅もまた然りなのだ。
喜代の見る限りでは、姫は恋心を自覚しているが、抑制している。彼女は聡明で分別があるからだ。
しかし問題は、蒼路だ。
彼は恋を、自覚していない。
「蒼路は……無邪気で、無自覚で。とにかく心のままに動く子供じゃ。それがあの子の強さでもあるが、私はそれこそが恐ろしい」
だから、喜代は。
遙にあの二人を見ていてくれと、頼んだのだ。
蒼路が暴走し、姫にために命を落とすことが無いように。
そして何よりも二人が恋を認めてしまい、一線を超えることのないようにと。
──けれど遙はそれを嫌だと言った。
「……蒼路は」
彼は口を開いた。
「蒼路は僕に、言いました。自分は、姫が幸せになるためにだけ生きたいのだと。そのためには何でもすると。……僕には意味がわかりませんでしたが──俺には責任があるんだ、とも」
「……優しいのよ」
喜代はわずかに瞬いた。
黒くちいさな瞳がきらりと輝いたのを、遙は見た。
「蒼路はとても、優しい男じゃ。お父上によう似てのう……今はまだ粗削りじゃが、潜在能力は当代一。生意気な口を叩くとしばき倒してやりたくなるが、かと思えばこちらの言葉は実に素直に聞き届ける。不思議な子じゃ。不思議で、そして可愛くてたまらん、わしの愛弟子じゃというのに、あやつはそんなことはちいとも考えはせんのじゃろうな」
「……喜代さま」
遙は再び、困惑の色をその瞳に浮かべた。
だが師匠は、彼が何を言わんとしたのかをわかった上で、小さな手を良いのじゃ、というふうに振って見せる。
言葉を制されて遙は黙ってしまった。
喉に何かがつかえているように、苦しかった。
いや、苦しいのは心かもしれぬ。
これほど師匠が辛そうな顔をしているのに、手助けをしてやれぬことが、悔しい。
彼女よりも、友を取ると、迷わずに断言できる自分自身が、とても憎い。
「……良いのじゃよ。遙。お前の気持ちはようわかった」
「申し訳、ありません」
「謝るな。お前は聡明で、正確な判断ができる弟子。お前が決めたことならば、わたしがどうして口をはさむことが出来よう」
喜代の言葉に、遙はついと眼を細めて、静かに首を横に振った。
小さな声で「僕は」と呟く。
喜代は顔をあげて彼を見つめた。
「なんじゃ? 遙」
「……僕は聡明なんかじゃない」
遙は言った。それは謙遜でも奢りでもなく、本当の気持だった。
麗しい口元に自嘲が浮かぶ。
彼が軽く俯くと、渦を巻く金の髪が額に柔らかく垂れかかった。
「むしろ愚かだ。酷く愚かで、自分で自分を許せない。僕は彼らを殺そうとした男です。いわれのない憎悪と嫌悪をふりかざして、罪のない彼らを何度も傷つけた」
遙のこの述懐に対して、喜代は否定も肯定も、しなかった。
思うところは、もちろんある。
遙が蒼路と深紅を傷つけたのは、彼が双子の妹を星の戦いによって失い、その悲しみのあまりに星師を憎むようになってしまったからであるし、あまつさえ遙はその双子の妹の霊に憑依されてしまったのだ。
遙の行った全ての事が悪事であるとは、誰も言えまい。
だがそれを口にしたとしても、慰めにはならないのだ。
遙は己の罪を認めているし、強く悔やんでいるが故、むしろ浅慮な言葉は彼の心の傷を抉る行為となるだろう。
それをわかっているから喜代は何も言わずに、ただ遙の言わせたいようにさせた。
遙は言葉を選びながら訥々と喋り続ける。
「聡明なのは、僕じゃないでしょう。蒼路だ。むろん姫も大変賢しくていらっしゃるけれど、僕は彼女以上に蒼路を、彼のまっすぐな心をまぶしく思う。──蒼路が触れ合う魂すべてを虜にするのは、彼の在り方が、僕たちが本来そう在りたいと願う姿であるからなのだと思うのです」
喜代は黙然と頷いた。遙の言いたいことは、とてもよくわかる。
──蒼路。
その名にふさわしい、蒼穹のように澄み切った心で、ひたすらに真っ直ぐに路を駆けてゆく魂。
蒼路は特別強いわけではない。時おりはっとするような力を見せることもあるが、その実力はまだまだ伸びしろをたっぷりと残した、成長過程のものでしかない。
けれど彼は、「心」を動かす力を持つ。
人も獣も、星師が相反する存在である筈の魔物ですら、彼から見れば全て同じ「魂」であり、尊ぶべきかけがえのない存在なのだ。
蒼路はいつも口癖のようにこう言っている。
”全ての魂は、傷つくために生まれてきたわけじゃない”と。
自分はそう、信じているのだと。
「……あやつの考えは掟破りで、我ら星師の存在そのものすらを否定するものでもある」
喜代は言った。
遙も頷く。
「はい。でも、蒼路はその心は曲げられないと言う。その時僕は、彼は実はとても孤高なのだと思った。いつも笑顔で、人懐っこい蒼路だけれど、根底にある信念は誰にも触らせない。彼は人を受け入れることはしても、自分を人に開くことはしません」
遙の言葉に、喜代はゆるやかな驚愕が胸に押し寄せてくるのを感じた。瞠目する。
彼が蒼路と共に修行を始めたのは、ほんの二月ほど前だ。にもかかわらず、既にここまで蒼路という少年を理解するとは、やはり遙は並々ならぬ賢い男だ。
喜代はそこまで考えて、ふいに息を吐いた。唐突に、嬉しいと思った。
遙がここに居てくれることが。自分の弟子と成り、蒼路の傍にいてくれることが、こんなにも心強い。
蒼路には今まで、同年代の星師の友人はいなかった。
「……良かったのう」
思わず漏らすと、遙が碧の眼を瞬いてこちらを見つめた。
「何が……ですか?」
「いや、そなたが、ここにいてくれることが、わしは真に嬉しいのじゃ。遙よ」
「──」
今度は遙が瞠目する番だった。
エメラルドの瞳がこぼれ落ちそうに見開かれる。
その瞳の奥に宿る心を、喜代はわかっていた。
だからふいに手を伸ばして、さっきから遙がきつく握りしめていた彼の掌を、取った。
「のう、遙。己を責めるのはもうやめにせぬか」
「喜……」
師匠の手のぬくもりと、穏やかな言葉が心底思いがけないものであったらしく、遙は絶句した。
碧の瞳にふたたび、繊細で細やかな感情が揺れる。
喜代はそれをじっと観察した。──未だ消えぬ悲しみと、犯した罪への後悔。
そしてそのために掛値なしの好意を友にぶつけることができないという寂寞。
優しい子じゃ、と喜代は心の底から遙の存在を愛しく想った。
やさしくて、本当は、戦いが大嫌いで。
だから星を持って生まれたことを疎んでいた遙。
あまつさえ、愛する双子の妹を星のために失って……けれどその悲しみすらも、星師は運命として受け入れなければならない。
だから。
だから彼はここに居る。
自分が一度殺そうとした人間のそばにいることなど、苦痛以外のなにものでもないだろう。
星を受け止めて生きて行くということは、彼にとっては茨の道、否、無間地獄を往くに等しいというのに、それでも遙は、こうして蒼路と深紅のそばにいることを選んでくれた。
それで十分だと、喜代は思う。
遙が己を責める必要はもう、本当にないのだと。
「……そなたは優しい。だから、己を果てなく責め続けるのじゃ。アンナの死を、そのために負った自分の消えぬ傷を、それゆえ蒼路と深紅を傷つけたという事実を、忘れることができないゆえに」
アンナとは遙の妹の名であった。
彼と同じ、輝く碧の瞳をして、けれど遙よりずっと快活でエネルギーに満ち溢れた、太陽のような娘だった。
彼女の名が喜代の口から紡がれるのを聞いて、遙はさっと顔をゆがめた。
「喜代さま、僕は」
「わかっておる。何も言うな、遙」
遙がなおも何か言おうとするのを喜代は首を振って押しとどめた。
いまの彼はきっと己を責めることしかできないであろう。
こちらがどんな言葉をかけようとも、それと真逆のことを考えるだろう。
アンナがいれば──、と喜代は想う。
あの、人の愚かさを、豪快に笑い飛ばすことのできる娘がここにおれば、あるいは遙は笑うのかもしれないが。
だがどうしようもできぬ。
喪失は既に起きてしまった。
生きている我々がどれほど彼女を求めようとも、アンナはもうこの世にいないのだ。
「……今の、そなたには。あるいはどんな言葉も、感情も届くまい。それが悪いと言っているわけではないぞ。この世で最も悲しいことは、愛するものを失ってしまうことなのだからな」
喜代は、手の中に遙の手のひらをしっかと握りしめながらそう穏やかに言葉を続けた。
届かないかもしれないことば。
でも、もしかしたら、一欠けらならば届くかもしれないことば。
すべすべと白い、女性のような手をゆっくりと両の手で撫でさすりながら、喜代は言った。
「だが、わしはここで蒼路を見習おうと思うぞ」
「……?」
怪訝そうに碧の眼を細めた遙に対して、喜代はうすくほほ笑んだ。
「あやつは、諦めることを知らない。心は絶対に心に届くと、信じて疑っておらぬ。それは誰かから見れば取るに足らない感情で、だが我々にとっては尊く気高い感情なのだ」
「あの……喜代さま?」
喜代が何を言わんとしているか、予測できないらしく、遙はますます眼を細めた。
それに対して喜代は答えた。
「──遙よ。もう傷つくな」
届けば、良いと思う。
この、傷だらけの少年に、自分の言葉が。
深紅の慈愛が。蒼路のひたむきな友情が。
「遠慮を、するな。深紅に対して、蒼路に対して。ふたりはそなたの、友人なのじゃぞ」
一言一言、訴えるように語りかけると、遙の碧の瞳の上に、あふれて寄せる波があった。
それはみるみる内に盛り上がり、あっという間もなく、彼のきめの細かい白肌の上をこぼれ落ちてゆく。
「……怖がらずに、手を伸ばせばよい。あやつらと触れ合って、思い切りはしゃぎ、時には喧嘩をして、かけがえのない友となれば良い。そなたはそれを望んでおるのであろう? ……なればこそ、監視役は嫌だと、申したのであろう?」
──遙?
ふいに、喜代の脳裏に、蒼路のまっすぐな瞳がよみがえった。
光の奔るような、怖いほどに澄み切って混じりけのない、純粋な宝石。
──うん、すげえ良い奴だよ。俺、あいつがババアの弟子になってくれて、ほんとに嬉しいと思ってるよ。
遙とはうまくやっているのかと尋ねた喜代に対して、彼はそう答えたのだった。
自らを一度は殺めようとし、実際に何度も重傷を負わされた男について、何の迷いも躊躇もなく。
──俺、あいつのこと、本当に好きだな!
あの、少年が。きっと遙を救ってくれる。
喜代はそう信じている。
だから今、彼の言葉を、遙に伝えた。
「……好きだと、言っていたぞ」
蒼路は。
「お前の事が本当に好きと、言っておった」
すると遙はさらに泣いた。
「……ばかだな……」
後からあとから、遙の頬を真珠の涙がこぼれ落ちて行く。
だがそれは決して冷たい涙ではなく、温かでやわらかな、希望をはらんだ涙であった。
何故そう思うのかと聞かれれば、遙がほほ笑んでいたからだ。
碧の眼を見開いたまま、涙をぬぐおうともせずに、嬉しそうにはずかしそうに笑って、蒼路の名を呼んだからだ。
「……蒼路。君はほんとうに、馬鹿正直で、まっすぐで」
だから僕も嫌いになれない。
いや、むしろ。
「僕も……好きです。蒼路の事が、大好きだ」
遙は言った。
そこで喜代は届いた、と思った。
全部ではなくても、彼を想う多くの心のかけら達が、確実に遙の心に届いたと。
そして改めて、自分は酷な事を彼に頼んだのとふいに思い知らされた。
「……良き友となっておくれ、遙。妙な事を頼んで、本当に済まなかったが」
「いいえ」
遙は涙を拭いて、はっきりと首を横に振った。
「嬉しいことと、思っております」
喜代をまっすぐに見つめる瞳は涙にぬれ、いつもよりなお一層の輝きを放っている。
喜代はじっとその瞳を見つめてから、ちいさく一つ、顎を引いて頷いた。
今の今まで握りしめていた彼の手を、そっと離す。
「……我ら星を持つものは、常人には見えぬ悲しみを、闇を見つめるのが定め」
ふいに喜代は、低い声で語り始めた。
遙はただ頷く。
ながいまつげが瞬いた。
「だが決して我らは闇に呑まれる必要はない。己の幸福を望むことを諦める必要もない。──そのことを忘れるな」
遙、と、師は弟子の名を呼んだ。
遙は深い知性に輝く碧の瞳で師を仰ぎ、何か言おうと優美な唇を開きかけ……だがすぐにまた閉じた。
言葉の代わりに、彼はその場に叩頭した。
最敬礼として平伏し、ただひとこと、短くこう応えた。
「──はい」
その金の髪を、まだ少年のものである体を、やや上の目線から見下ろして、喜代は内心で息を吐き出す。
まだ子供なのに、と。
星を持たなければ、彼も、彼の双子であるアンナも、蒼路も深紅も。
これほどの傷を負う必要はなかったのに──と。
だがそれは言っても詮無いことだ。
だから喜代は口を閉じる。
人としての愛情と、星師としての使命感に体を引き裂かれそうになりながら、老い先短い自分の時間を、せめて彼ら若者のために使おうと心に決める。
だって、感謝しているのだ。
星を持って、失ったことは確かに数かぞえきれないが。
でも、星を持ったからこそ自分は、この愛しいこどもたちに出会えたのだから。
あるいは、星とは──と喜代は思う。
星とは、そのように、生きて行くことそのもの、魂の、象徴であるのかもしれぬ。