ヤドリギの下で
女王陛下の御夫君は元来がドイツの方なので、英語はまだ苦手でいらっしゃる。そのために年齢が近くて、ドイツ語にも不自由しないロバートのような貴族階級の人間は、王室のクリスマスのディナーにお招きいただいた場合も、身近にお話を伺えるような場所に席を割り当てられる事が多い。外交官や駐在武官の経験者、ドイツ語に堪能な学者なども、貴族と同等の扱いで招待されていた。
ドイツ語圏の文物が注目される機会が増え、ドイツ語を母国語とする音楽家がロンドンへの演奏旅行をする事も以前より一層盛んになったが、ユダヤ人のマエストロ、フェリックス・メンデルスゾーンが四月に渡英した際の、ロンドンフィルの一部の楽団員の差別的な態度は酷かった……と言うお話が出た。おかげでイギリス在住のマエストロのファンは、出来たばかりの新曲を聞きそびれたのだ。
「あれはどう考えても楽団員の方が悪い」
王配殿下はドイツ語で声を潜められてではあるが、はっきりそうおっしゃった。
「マエストロを怒らせた内の一人は、奴隷解放運動に積極的だった御仁の身内ですが、黒人差別は罪悪でも、ユダヤ人差別は構わないということなんでしょうかね」
「マエストロが裕福な銀行家の一族だから、妬ましかったのかもしれません」
王配殿下は頷かれて「これからは何事も差別ということには敏感になるべき時代になったのだと思う」とおっしゃったのだった。御自身が大国の君主と言う、格上の女性を妻とされて、それなりに色々鬱屈するものがお有りだろうに、どこまでも穏やかで落ち着いておられる。お若いがなかなか大した方だと、ロバートは素直に感動した。
「殿下のような方が、我らが女王陛下の御夫君でいて下さるおかげで、大英帝国はますます栄えましょう」
酒を飲んだ勢いも有って、大声でそう叫ぶ老貴族がいたが、ロバートも彼に賛成だった。
山ほどの山海の珍味に数々の名酒、何れも逸品ぞろいだが、さすがに日付が変わる頃になると腹はふさがり目蓋は重くなる。自然、退出する者も増えてくる。ロバートも迷ったが、極上のトカイ・ワインも頂いたし、素晴らしい葉巻も吸い終わった。待たせている御者だって、今夜は特別に良い酒を一杯寝酒に飲むぐらいの事は、したいだろう。家路を急ぐ事にした。
ガス灯に照らし出されたキーネス侯爵家の邸宅レイストン・ハウスは、高級住宅街とされる一帯でも、突出した規模と美しさだ。改めて馬車の窓から邸を眺め、王配殿下の背負い込まれた物に比べれば吹けば飛ぶようなものでは有るが、自分としてはこれだけでも相当な重荷だとしみじみ感じていた。
馬車を降りると、改めて自分が受け継ぐことになったこの邸を、ぐるっと一回り散歩しようと言う気になった。正面のホールから前庭を通り過ぎ、しばらく行くと使用人が使う通用口に出た。ここもクリスマスにふさわしくドアにはヒイラギのリース、天井にはヤドリギがちゃんと飾られている。来年からは王宮を見習って、こちらにもクリスマスツリーを飾るべきかもしれない。ツリーを飾る習慣も、女王陛下の御結婚以降、王配殿下の故郷のしきたりを取り入れて一般化したのだ。
「ヤドリギ、ね」
どうやらヤドリギの方はキリスト教以前の、古い古い時代の呪いなどにかかわるものらしい。異教的であるからキリスト教の祭日にはそぐわないと主張する聖職者も有ったと聞く。宮中で席が隣同士になった老学者は、クリスマスのヤドリギに関しても色々面白い話をしてくれた。そして、声をひそめてこういったのだ。
「万が一にでもヤドリギの下で女性と遭遇したら、古くからの言い伝え通り、キスはしなくてはなりません。私のような老いぼれは、ヤドリギからは距離を取らねばいけませんが、伯爵、貴方は是が非でもヤドリギのそばで待ち伏せなさるべきですぞ。意中の女性が通りかからぬとも限りませんし、誰か別の男に横取りされたらたまらぬでしょう」
そしてクリスマスのヤドリギの魔力は、実に強烈なのだとも言った。
「私が老妻にヤドリギの下でキスしてから、かれこれ五十年ですぞ」
その老学者と夫人は、上流社会では珍しい仲睦まじい夫婦なのだ。夫人と連れだって「いそいそ」と言う感じで退出する老学者は、実に愛すべき好ましい人物だとロバートには感じられた。
その言葉を思い返していたロバートは、足音に気が付いた。女だ。それも豪奢に着飾った。庭の外灯のおかげで、かなりはっきり女の姿が確認できる。ロバートは思わず側の樹の影に隠れた。衣擦れの音と共に現れたのは、クリノリンで大きく裾を膨らませた夜会用のドレスに毛皮のショールを纏った女……マギーだ。ロバートはヤドリギの真下に飛び出すと、マギーを抱え込んで、いきなりキスをした。自分でも驚くほど、迷いが無かった。ショールは下に落ち、ドレスの深い襟ぐりが露わになった。見事な大粒真珠のネックレスが白い胸元を飾っている。
マギーは最初は抵抗したが、途中から力を抜いてぐったりと言う感じでロバートの腕に身を任せた。
「メリークリスマス、マギー」
「メリークリスマス、いきなりなんて……酷いです」
ワインレッドの最新流行のドレスは、マギーを貴婦人に見せている。いや、こちらが本来の姿だろう。
「でも、今夜はクリスマスで、ここはヤドリギを飾った真下だ。キスをするのはあたりまえ、御約束と言うもんだ。嫌ならヤドリギのそばなんて、通っちゃいけないのさ」
「だって、こんなところにあなたがいるなんて、思いませんでしたもの」
若旦那様呼ばわりをされなかった事を、ほんの少しだがロバートは喜んだ。
「虎視眈々と君を狙っていたといったら、本気にする?」
「まあ、そうでしたの?」
「今夜はあの忌々しい眼鏡も無いし、いつもおいしそうな匂いのする君の体から、魅惑的な別の香りがしている。フランス製の香水でも使ったかな?」
「自分で作った匂い袋、フランス人ならサシェと呼ぶようなものを持っている所為でしょう。香りもドレスも純国産ですのよ」
自分好みの香りを調合したと言う事らしい。国内産業の振興を図るために、御自身の婚礼衣装のレースも国産になさった女王陛下を見習ったのかも知れない。
「まるで舞踏会の後のシンデレラみたいなレディ、君の正体をちょっとぐらい教えてくれたって良いじゃないか。その、マーガレット・ホワイトって言うのは、そもそもが本名なのかい?」
「マーガレットは本名です。ホワイトは祖母の苗字ですから、まんざら偽名と言う訳でもありません。どうか、もう、お気が済んだら、お放し下さい」
「君が洗礼証明書なりパスポートなりに書かれている名前を教えてくれるまで、離さないぞ」
「そんな、めちゃくちゃです」
「うん。そうだな。自分でもそう思うが、教えてくれ。お願いだ。ねえ、この時間にこの格好という事は……ひょっとして行先は僕と同じ所だったのかな?」
今夜は主な王族・貴族、政界・学会・実業界で活躍する紳士と、その夫人・令嬢は王宮に集合していた。
「御想像にお任せしますわ」
「もう、いじわるなシンデレラだ」
今度は少々腹も立って、荒っぽく強引に深いキスをした。すると嬉しい事にマギーの体は、ごく自然な官能的な反応を示したように思われた。明らかに呼吸が荒くなり、ほおは赤みが差し、目は煌めいている。そしてそのこと自体に本人が戸惑っているような印象も受けた。
「酷い方、すぐにでもここを出て行きます」
「邸の皆で食べるはずの御馳走も、無しなのかい? まだ子供のメイドたちなんか、ものすごく楽しみにしていたようなのに」
「だって、こんな……」
「ゴメン……もう聞かない事にするよ。だから、出て行くなんて言わないで欲しいな」
ロバートは力を込めてギュっと抱きしめた。そうだ。随分前から、本当はこうしたかったのだと、今さらながらに気付かされる。
「いくらヤドリギの下でも、もうそろそろ御勘弁下さい」
心臓の鼓動ははっきり感じ取れるのに、声は落ち着き払っていて、それが憎らしいとロバートは感じた。
「君って、ひょっとして独身主義の人?」
「独身主義と言うわけでは無いですが、結婚しなくても生きては行けますわ」
「遺産の相続なり、年金なり、しっかり有るみたいだね」
「まあ、そこそこは」
大粒の真珠の首飾りに見事なシルクタフタのドレス、下に落としてしまったショールも最高級のロシアンセーブルのようだ。「そこそこ」などと言うレベルの資産では縁がなさそうな極上品ばかりだ。
「僕は金褐色の髪に青い瞳のレディ・マーガレットに社交シーズンにお会いした記憶が無いのは、なぜかな」
「新大陸におりましたから」
「はあ、なるほど、新大陸の大富豪のお嬢様か。じゃあ、爵位持ちの僕なんか、どう?」
「どうって、それは、どう考えればよろしいのかしら?」
ああ、使用人臭い敬語が取れた、とロバートは思った。
「僕は君の花婿候補にたった今立候補した……って言っても、君みたいなレディには迷惑かい? でも、生まれた場所ぐらい、教えてくれないのかな」
「……生まれたのはロンドンです」
「じゃあ、実家はこの近所?」
マギーは困ったと言う表情になった。どうやら図星らしい。
「何で料理人なんか、ああ、そんな言い方は無いか。えっと、なぜ身分を隠して働いているの? 働くにしたって、なぜレディにふさわしい職種を選ばなかった訳?」
「家庭教師に付き添い(シャペロン)なんて、なかなか良い口は有りません」
「それは一面真実だが、君の場合、全然説明になってないよ。僕はこれでも女性の服飾品の相場は、十分に承知しているんでね。家庭教師の年俸じゃ、下に落としちゃったショール一つ買えやしない。料理人の年俸だって無理だ。だが、君はこうしたものに慣れているみたいだし……王族か大貴族の愛人ならこの邸のキッチンに潜り込んだりしないだろうしね」
だけど君はキスには慣れて無さそうだ……とロバートは言いかけたが、止めた。マギー、いやレディ・マーガレットはどう答えるべきか、困惑している所らしい。さっきまで柔らかにロバートの腕の中に納まっていた体が、強張っている。
「僕の口は臭い? ちゃんと歯の手入れはしているつもりだし、酒の後に極上の葉巻を吸っただけだけど」
「大丈夫です」
「もう一回、キスしていい?」
「いや」
甘い声では無かったが、嫌悪感を持たれているともロバートには思えなかった。
「いけないの?」
「ダメです。もう離して」
「離す前に、条件が有る」
「何ですの?」
「デートの約束、出来ないかな」
「無茶です」
「じゃあ離さない」
「酷い方」
「そんなにひどい男でもないと、自分じゃ思うけどね。酷いかな……単に、売り込みが強引なだけだ」
「寒いんですもの」
「じゃあ、僕が温めてあげる」
余計に体が硬くなった。失敗したとロバートは思った。
「デートは、難しいです。若旦那様。皆さんに内緒なのですから、なおさら無理です」
「そんな恰好をして『若旦那様』も無いもんだ。ねえ、僕の名前を呼んでよ」
「そんな……」
「知っているだろう? 僕の名前ぐらいは」
「ロバート」
「うん。その方がしっくりくる」
「離して下さい、ロバート。さもないと……」
「さもないと?」
「ちょっと痛い目にあって頂くかも知れませんわ」
「どんな痛い目に?」
「こうですのよ」
ウォッ! と思わずロバートは声を上げ、手が緩んだすきに、レディ・マーガレットはロバートの腕からすり抜けた。靴のつま先を思い切り女物の靴の細いヒールで踏みつけられたのだった。後にはロシアンセーブルのショールが残された。