出会い・4
「先々週、マギーは分厚い本を持っていた。先週はドレスの大きな箱を抱えて降りて来たな。そう言えば休みごとに毎回ちゃんと、別のドレスに着替えている。飾りの極めて少ない襟のつまったデザインばかりだが、素材と仕立ては良さそうだ。彼女は相当な衣装持ちだろう。給金の範囲で足りるはずもないが、使い込みは無い。彼女は一体何者なんだろうな、ラドストックはどう思う?」
一人住まいの家で執事役を務めていたラドストックは、この邸に戻った今もロバートの身近に仕えている。主人が飲むコーヒーや茶を淹れるのは彼の仕事だ。直接の主人ロバートが留守の時は、老侯爵の御用を手伝う事も有る。
「あの御婦人はフランス語以外にラテン語とギリシャ語を理解なさるようです」
「ほう、なぜそう思った」
「昨日侯爵様の所にお越しになった御友人が御昼食の折にたっぷりワインを召し上がり、下ネタがかった言葉を叫ばれましたが、ラテン語でした。他の使用人たちは無反応でしたが、あの御婦人は明らかに憮然となさってましたね」
その友人は父の侯爵と学友の老人で、大学の教授も務めた御仁だ。
「そう言うお前は?」
「私は食後のコーヒーの御用意をさせて頂きました。聞いた事でも聞かなかったふりぐらいは出来ますので」
「ハーグリーブス夫人は?」
「あの人は通常の読み書きには不自由はしないようですが、自分でも言うように外国語は苦手なのではないかと思われます。そうそう、先週の事でございますよ。客間に飾ってありますギリシャ風のブロンズ製の五個の彫刻ですが、一番若いハンナと言うハウスメイドが掃除をしたのは良いが、どう並べれば良いのか忘れてしまい、途方に暮れていたようなのです。そこへあの御夫人が通りかかって、物語の内容に沿った正しい順番に直す手伝いをしてやっていました。後からハンナに聞きましたら、あの人は古代ギリシアのアキレウスの故事をすっかり承知しているようで『お掃除の手助けをしてくれて、面白い大昔のギリシャのお話を聞かせてくれました』って、ハンナが尊敬しきった顔で申しておりましたからね。なぜあの方がキッチンにいるのか不思議だとも言ってました」
「ほう。ラドストックは、そのハンナが気に入っているのかい?」
「はあ。骨惜しみせず働く可愛い良い娘だなと、思っています。一度散歩にでも誘おうかと思いますが……いえその、その件はさておきまして……あの人は眼鏡が確かに多少野暮ったくは有るが奥向きの御用も務まりそうだし、家庭教師なら眼鏡もあるいは似つかわしいのではないかとも……ハンナも色々不思議に思っているようです」
「ふうむ。マーガレット・ホワイトは高い教養の持ち主のようだが、それを隠し、料理人をやっている、そういうところか……なあ、あのアマゾネスと似てないか?」
「ホワイト夫人がですか?」
「なんか嫌だな。そのしきたりどおりの呼び方」
上位の女使用人は独身であっても何々夫人と呼ぶものなのだ。確かにそれがこの国の上流階級の邸のルールだが、「あのマギー」を夫人呼ばわりしたくないと言うのがロバートの気持ちだ。
「あの姿勢が良くて堂々とした感じと、キリッとしたと言いますか凛としたといいますか、雰囲気は似てますかね。眼鏡を外した顔を私は見ておりませんので、あの巨匠の傑作とどの程度似通っているのか、しかとはわかりかねますが」
誇り高く美しいアマゾネスの女王ペンテシレイアは英雄アキレウスと一対一で戦い、敗れたとされる。その戦う女王の姿を映した彫刻とマーガレット・ホワイトの姿がなぜ似ていると感じてしまうのか、ロバート自身にも分からないのだが、確かに似ているのだ。
「マギーは何かと戦っているんだな。きっと」
「何と戦っているのでしょうか?」
「彼女の人生……かもな」
ラテン語やギリシャ語はレディには必須な教養だが、メイドには必要ない。この邸には子供がいないので、住みこみの家庭教師の必要性は全く無い。没落した上流階級の婦人や、ある程度学問をおさめた中流階級の女性が上流家庭で住みこみの家庭教師を務める事は珍しく無いが、料理人をやるなどと言うのは聞いた事がない。腕の良い料理人は家庭教師より高い年俸を取るものであるとしても、料理人の仕事はレディにふさわしくないと見なされている。それがこの社会の常識だ。
ラドストックは、主人が一瞬、夢見る様な眼差しになったのを見逃さなかった。マーガレット・ホワイトが人生と戦っているとして、その彼女に対して並々ならぬ関心を寄せているらしい主人は、これからどうするつもりなのか、ラドストックには分からない。賢明な主人が外聞の悪い行動に走るなどとは思わないが……
上流社会に属する紳士がメイドを秘密の愛人にする事は、かなり多い。そしていつしかメイドの方は捨てられて、生まれた子供は孤児院行きという話も珍しくない。ごくまれに身分違いの恋を貫き、メイドと結婚する紳士もいるが、上流社会ではまず受け入れられないだろう。そうした場合は田舎の領地なり邸なりに引きこもって、ロンドンでの社交界とは縁を切って暮らすしか無い。事実、そうした事例をラドストックも幾つか知っている。あのアフトン公爵のように、王の庶子でありながらメイドと駆け落ちして結婚し、新大陸で運命を切り開いた、などと言う話は、他に聞いたことがない。大抵の裕福な男性はアフトン公爵ほど大胆でも有能でもないからだ。
ラドストックの見るところ、この主人もあのアフトン公爵に負けず劣らず有能だと思うが、「駆け落ち」などと言う衝動的な非理性的な行動を主人が取るとは思えない。そもそもマーガレット・ホワイトに向けて主人が感じている感情が恋愛感情なのか、否か、それすらもまだ明確ではないのだから。
「ハンナから聞きました所では」
「お前の可愛いハンナが、何を言った?」
「誤解なさらないでいただきたいのですが、私はあくまで大切な御用に支障の無い範囲で……」
「ああ、わかったわかった。お前もハンナもまじめに骨惜しみせず働いているよな」
「お分かり頂ければ、幸いでございます。そのハンナが申しましたのは……賄いもあの人が来てから非常に美味しいものになったそうです。『カレー風味のマトンシチュー』とか『イタリア風のひき肉団子煮込み』とか食べた事も無い様な結構な味だと」
「何だ、それ、僕も食べてみたいもんだな」
「後はカップケーキに感動しておりました」
「カップケーキは、僕も話にしか聞いたことが無い。誰か社交界の御婦人でその話をしていた人がいたが、最新流行の菓子なんじゃないのかい?」
「なんでもお客様にお出しするお茶菓子の試作品らしいのですが、階下の使用人一同、大喜びで午後の休憩時間に食べたようです」
「上級職のお前は食べたことがないって、そういう訳か。今、菓子専門の職人は置いていないよな」
「おりません」
ロバートは父親の雇い入れた菓子職人の作る物を子供の時分食べた記憶はあるが、乳母がこっそり焼いてくれたパンケーキの方が美味しかった。ロンドンのどこの邸でも使用人の間で上級職と下級職の区別はかなり厳しいものが有る。標準的な相場で執事は年俸が百ポンドほど、最下級のメイドは十から十二ポンドあたりだろうか。料理人がフランス人の場合、執事や最上級の使用人である家令よりも高額の報酬を払うのも常識だ。それぞれの邸の主人の面目が立つような、立派な宴会料理なりもてなし料理を作ってもらう事を期待しているのだ。フランス人を雇ったからと言って、その邸で暮らす者たちの日常の食事が美味くなったと言う話は、聞いた事がない。それぐらい厄介で微妙な話なのだ。
「フランス語のメニューが自在に読みこなせるような料理人は気位が高く、下級の使用人の食事など知った事かと言わんばかりの芸術家気取りの輩も多いようですが、あの人は違うようですね」
ますますロバートはあのマーガレット・ホワイトに興味がわいた。その時、あの黒い馬車が通用門側のいつもの場所に止まったようだ。
「さて、今日はどうなったかな?」
ロバートは双眼鏡を取り出した。
夢見る場合は、眼差しですよね、たぶん