広がる家族・3
トマスと妻子が無事に一緒に暮らすようになって間もなく、ロバートが夏の休暇をロンドン以外でゆっくり過ごそうと言いだした。マギーとロバートはまた、一緒に眠るようになっていて、近頃は様々な話をベッドでする事も多い。他の場所では、他人の目やら使用人の手前やら色々あって、面倒だという事情も有る。
「珍しいわね。お仕事は、良いの?」
「仕事は出来そうなんだ、休暇先でも。水も空気も綺麗な場所に子供たちを連れ出したいし」
「女王陛下がお好きなバルモラル城の側にでも、行きますの?」
「アバディーンに花崗岩のビジネスの事務所を作ったよ。暑さを避けるのは、悪くないと思ってね」
「まあ、でしたら女王陛下が休暇をお過ごしの所に伺う事も、容易いですわね」
アバディーンとバルモラル城は三十七マイル少々(六十キロ)の距離だろう。キーネス侯爵家の領地は、そのちょうど中間点の位置になる。
「何よりうちの領地のローズヒル城は、バルモラルとは目と鼻の先って言っても良い場所だもんな。敷地内の農場や牧場はちゃんとしているんだが、城そのものはあまりにも古くて殆ど物置状態だったから、去年手を入れたんだ。今じゃ、ちゃんと風呂もシャワーも使えるし、キッチンの設備も一新した。君と子供らはローズヒル城の庭や敷地内の牧場やら農場で好きなように過ごせるだろうさ。マスが釣れる川も流れているし、ゴルフだってできる。美味いスコッチの醸造所も近所に有るし、楽しいぞ」
「きっと涼しいでしょうしね」
「夏はね。でも冬は寒すぎるから、ワイト島を気に入られた王配殿下のお気持ちがわかるよ」
「今は新たにワイト島にお作りになるお邸の建設の件で、お忙しいようね」
「そうだね。でも、夏はやっぱりバルモラル中心だろうな」
「でも、ワイト島あたりのロブスターは夏が旬よ」
「ああっ、いいなあ、ロブスター」
「でも、スコッチも良いんでしょう?」
「そうそう。本当に美味いスコッチを飲めるからねえ」
「困ったわねえ……でもロブスターは九月でも間に合うとは思うけど」
「そっか、その手が有るか。じゃあ、八月いっぱいローズヒルで、九月からワイト島にしよう」
「ワイト島では、お仕事はさすがに無理でしょう?」
「対岸のサザンプトンは、汽船会社の本拠地だから、大丈夫だ」
「九月の滞在はワイト島ですの? サザンプトンではなくて?」
「ワイト島で小さな館を買った。まだ、改修が出来てはいないけど、九月なら大丈夫だろう。それに九月にワイト島で、王室の皆さんがお気に入りの画家に、王室のご依頼の仕事の合間に、僕ら夫婦の肖像画を描いて貰えるように依頼したんだ」
「まあ、そうですの?」
ロバートが自分とマギーの肖像画を依頼した女王陛下がお気に入りのドイツ人の画家は、イギリスの画壇ではあまり評価は高くなかった。父の老侯爵などはその画家を「後の世に大きな影響を及ぼす画家とは全く思えないが、注文主の要望には忠実にこたえてくれる」「モデルの特徴は捉えながらも、実物より小ぎれいに仕上げる」と考えているらしい。
ともかくも先祖代々の肖像画の隣に置く絵が欲しいロバートとしては、自分とマギーをキーネス侯爵家の次代の当主夫妻としてふさわしく描いて貰えれば、それで十分だと考えていた。
マギーは当主である舅と夫が納得していていれば、何も文句は無い。ただあまりに長い間ポーズを取る事を要求するような気難しい画家は勘弁してほしいとは思っていた。その点でもロバートが依頼した画家は、殆ど貴族・王族の肖像画専門といった感じであったので、手際も良く、好都合であった。
「まあ、あれだよ、あの画家は女王陛下と王配殿下のお気に入りというのが一番大きな理由だな」
ロバートは実業家である事と貴族でもある事を互いに利用して、メリットが有るように考えて行動する。まだ英語が不自由でいらっしゃった頃から、親しく王配殿下と言葉を交わす機会も多かったロバートだが、王配殿下は賢明で、尊敬できる立派な人物だと考えている。女王陛下との御夫婦仲は情愛細やかで、年ごとに絆が強まっている感じだ。事実、女王陛下はほぼ毎年のように、出産なさっていた。一時女官の任免問題で難しい状況になられた事も有ったが、これまで三度の暗殺未遂事件に遭遇した女王陛下を隣で庇ったのは、いつも御夫君である王配殿下だった。その事件が一時は険悪でもあった御夫婦仲を修復し、より絆を強めたのでもあったようだ。
「陛下は御夫君を心から愛しておられると思うわ。王配殿下は難しいお立場なのに、宮中の改革も進めていらっしゃるし、お子様方の良いお父様でもいらっしゃる。本当に御立派ね」
「僕も見習わなきゃ」
「お仕事はロバートも頑張っているけど、お父様としてはもうちょっとかしら」
マギーの点数が少々辛口なのは、バージルに対する特に最初の数年の態度が宜しくなかった所為らしい。
「貴族の中には冷ややかな視線を向ける向きも有るけどさ、これまでの乱れた風紀とは打って変わって、今のまじめで堅実な王室って、一般人には人気が有るよね。女王陛下のお暮らしに関する絵入りの新聞記事は、庶民には見習うべきお手本として受け止められているようだものな」
「まあ、質素とはいえ王家のお暮らしと庶民の日常では差が有りすぎますから、そのままお手本と言う訳には行かないでしょうけど」
王室は確かに愛され尊敬されてもいたが、庶民との生活感覚の違いを風刺した漫画なども、有るには有るのだった。1848年までに六人の子宝に恵まれた御夫妻だが、手元不如意で子供たちのために十分な部屋と奉公人を用意するのに苦労していると言う漫画が発表された事なども有った。その住宅問題を解決するのに「わずか十五万ポンド」で済むので、国民の皆様に協力を仰ぎたい……と言う王配殿下の訴えを聞く聴衆の中には、ボロをまとった身寄りのない子供らがいると言う内容であった。
大半の家庭内使用人の給金が二十ポンドに満たない世の中で、十五万ポンドが子供部屋の費用という王家の暮らしは、確かに一般常識からかけ離れたものではあった。
「ああ、あの漫画ねえ。ああいういうものが発行を許され、女王陛下の暗殺を企てた人間が死刑にならないなんて、我が国ぐらいだろうよ。一昔前なら八つ裂きか火あぶりという所だったろうさ」
暗殺を企てた者たちであっても「精神を病んでいる」とか「情状酌量の余地あり」とかで、流刑や禁固刑で済んでいる。王に対する反逆を企てた者は八つ裂きに処すと言う法律は完全に廃止されたし、火あぶりと言う処刑方も無くなった。そうした刑罰は「文明国にふさわしくない」と見なされるようになったのだ。
大英帝国の女王陛下は、同時に夫と仲睦まじい妻で、幼い子供らの優しい母である素晴らしい方だと言うのは、大半の国民の認めるところだった。それまでの異性関係が乱れていて堕落しきった王族たちにうんざりしていた国民は、生真面目で真っ直ぐな御気性の女王陛下と王配殿下を好意的に見ている。その事はロバートやマギーも強く感じている所だ。
「昔の王様は新聞で歳費の使い道について追及されたりしなかったはずですもの。十五万ポンドは確かに大きな額ですけれど、お暮らしぶりや状況から見て『馬鹿馬鹿しい贅沢』とは言えませんから……でも、家もなく食事にも事欠く人たちからみれば、とんでもなく思えるんでしょうね」
「僕の見る限りじゃその十五万ポンドは、女王陛下のお子様方ならそんなものなのかなという感じで受け止めている人が多いように思うけどね。近頃は、真似できる範囲で王室の皆様のお暮らしぶりを真似ようと言うのが流行だね。汽車で旅をする事がこれほど短期間で一般化したのは、女王陛下のおかげだろうね。おかげさまで僕のビジネスも順調だ」
「鉄道王は政界進出を果たしましたが、どうなるかしら? 相変わらず悪い噂に事欠かないようですけど」
「今はまだ、地方の市長だが、国会議員に当選したら、ぼろが出て失脚という所じゃないか?」
ロバートが言うには、ヨーロッパ中の有力な銀行家が今も外国では盛んに鉄道に投資しているのに、鉄道王が絡んで来るこの国内部の鉄道事業に対する投資は、この数年、ほとんど行わないで静観していると言うのだ。
「それは……鉄道事業そのものは有望だけど、鉄道王と呼ばれる彼が絡んだ事業は危ないと見ている、そういう事かしら?」
「その通りだと、僕は思うな」
「外国の銀行家が資金を投入しなくても、まだ、鉄道網は広がりそうですね」
「当分止まらんだろう」
そう言うロバートは国内の不動産関連事業や、旅行業、保険業といった、鉄道網の広がりで恩恵を被る分野でがっちり稼いでいる。
「美術品や馬で稼ぐほど、僕は貴族的じゃないんでね」
「そうした分野は稼ごうと思って稼ぐわけじゃないですよね。好きで興味が有る物について、熱心に学ぶうちに、自然とお金が入るようになる、みたいなところが有りますでしょう?」
「でもまあ、本人に儲けようって気がこれっぽちも無いと、かつての僕の父みたいになっちゃうけどな。でも、父が買い集めた美術品はどれもがマニア垂涎の逸品ぞろいだったんで、売ると結構な金になった訳だが」
「大切なコレクションを手放されるのは、お辛かったでしょうね」
「でもまあ、一番良い責任の取り方だったんだろうな。おかげで僕の事業資金が捻出できたから」
「ロバートをお父様が信じて下さったのね」
そんな風にあまり考えた事はこれまで無かったが、確かにマギーの言う通りなのだろう。病弱な兄と経済観念の乏しい両親を自分が守らなくてはいけない、そんな風にロバート自身感じていたのだ、確かに。
「父と子の関係が、貴族にしては冷たくないからね、うちは」
「それは良い事だわ。ならば、バージルの事も父親として、応援してあげてくださいな」
「してるじゃないか」
「確かに学費は出してますよね。衣食住も心配ない状態では有るでしょうけど……庶子の立場って、やっぱり不利だから……」
「庶子になるってわかっていて、子供が生まれる様な事をした僕がいけない、そういいたいんだな?」
「あー、そういう事が言いたいのではないの。怒らせちゃったかしら。ごめんなさい。いえね、バージルが面白い事に気が付いたみたいなの。ほら、あの子、大学のお休みごとにジェフェリーのお父様が派遣している農地改良の調査隊の仕事を見学したり手伝ったりしているでしょう?」
「それは知っているけどさ」
「どうやら炭鉱を見つけたようよ。調査隊の人たちは農地の改良が専門だから、バージルが相談しても確実な事はわからなかったらしいの。でも領地内に未知の良質な炭田が存在する可能性が高いと言うバージルの意見には、皆さん賛成してくれたのですって」
「何でそんな大事な話を、あのバージルは僕にしないんだ!」
「だって、お互い、あまり話をしないでしょう? 御食事のときだって、ロバートもバージルも私やお父様とは話す癖に、お互い同士はあまり顔も見ないんだもの」
どうやらマギーは炭田がもし見つかったのなら、そこから得られる利益の一部でもバージルにやって欲しいという事のようだった。
その翌月、ロバートは鉱山の専門家を派遣して、現地を調査させた所、かなり埋蔵量の多い炭田である事が明確になった。それまでは農地としては使い物にならない荒れ地だと評価されてきた場所なのだ。ロバートは採掘を行う会社の大株主でもあったが、その会社が地主に支払う毎年の採掘料をバージルにあたえる事に決めた。ロバートはマギーと一緒のベッドの中で、その話をした。平日は忙しくて、どうしてもそんな風になってしまうのだった。
「マギーがアフトン公爵家から貰っている年金には及ばないけど、まあまあの大地主が毎年手にしている地代よりは多いわけで、平民身分の人間に取っちゃ、そう悪くも無いだろう。他に僕が持っているカナダでの幾つかの鉱山の権益をそのうち譲ってやろうかと思うよ。そんなもので良い?」
ロバートのその説明に、マギーは頷いたが、先ずはもう大学生になっている本人にちゃんと説明してやってほしいと言う言葉に対しては、こんな風に言って拒絶した。
「そもそもバージルをこの家に迎え入れたのはマギーの判断に従ったからなんで、僕よりマギーの方がバージルをよく見ているし、バージルもマギーに一番何でも話しやすいみたいだ。幾つかの鉱山の権益を君に完全に譲るから、そのうちどれをどの子に譲るのか、判断は任せよう。あるいは元の権益は君が全部管理して、年金の形でそれぞれの子供にやったって構わないんだし。全く子供にやらなくて、全部君が使ったって、それはそれで構わない。君が建てたがっていた学校やら病院やら建てるならそれでも、不足かも知れないしね。当分バージルはあの新しく見つけた炭鉱の分で十分だと、僕は思うよ」
「ロバート……」
バージルに対して父親らしく振る舞う事に、いまだに引っ掛かりを覚えているらしい夫の様子に、マギーは困惑したが、自分に渡すと言っている権益の資産価値も相当なもので、その気前の良さにも困惑した。
「マギーならきちんと管理運営できるさ。弁護士でも鉱山技師でも何でも、必要な時に必要な人を雇うって事も含めてね」
「でも、鉱山の権益は随分大きなお金を生み出すものでしょう? 私に譲ったりして、いいんですの?」
「マギーが本気で社会的な事業に乗り出すなら、そのぐらい必要だよ。絶対。マギーにデカいダイヤを買っても大して喜んでもらえないし、役にも立たないだろう? 鉱山権益の管理がちゃんとできる貴婦人なんて、恐らく君ぐらいだろうから考え付いた事ではあるんだけどね」
年額十五万ポンドとはいかないが、並みの貴族の年収分のものが毎年ほぼ確実にマギーの手元に入るようになるわけだが、それをマギーは素直には喜べない。厳しい鉱山労働者の暮らしを改善する事も、資本家の家の者としての責任ではないかと考えてきたが、これからは直接関わる事になるのだ。子供たちが幸せに暮らすために適切な年金の金額と言うのも、なかなかに割り出しは難しい。
「まだ幼い子供たちはこれからどう育っていくかで、状況も変わるでしょうからね……概ね結婚するころに資産を分けるって感じでいいんでしょうか?」
「おやまあ、すっかり難しい顔になっちゃったな」
「だって、難しいですもの」
「信頼できる専門家に任せるのさ。大丈夫、マギーならできる」
「はあ」
「それより、どんな肖像画を描いて欲しいか、ちゃんと決めなくちゃ……ドレスはやっぱりブルーかな……真っ白も悪くないか」
「ロバートは真っ白いクラバットに真っ白いシャツ、ミッドナイトブルーのテールコートが良いですわ」
マギーの意見はラドストックと一緒で、自分ともすっかり一緒なのだ。ロバートに異議のあろうはずはなかた。
「じゃあ、それで決まりだ。お休み、マギー」
穏やかな夫の寝顔を見て、色々これからあるだろうが、それでもどうにかなるだろう。そんな風にマギーも思うのだった。