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社交界へ・4

「新しい馬車の乗り心地は、悪くないでしょう?」


 レディ・エセルを連れたレディ・バーバラはアフトン公爵家の最新型の四頭立て馬車に乗り込んで、ロバートとマギーをレイストン・ハウスまで迎えにきたのだ。


「実に良いですね。この座席や内装の色合いもシックですなあ」


 ロバートはざっと価格を見積もりながら、自分も馬車を新調するべきか費用対効果という観点で考え、値が張る豪華な大型馬車より邸の水回りの改築を優先しようと思ったのだった。今やアフトン公爵家とは親戚同士になったのだし、隣家ではあるし、差し迫った時にはこの馬車を借りれば良いとも考えたのだ。つまり普段乗り回すのは二頭立てて十分だと言うのが、ロバートの結論だった。


「忙しいのに夜遅くに付きあわせてごめんなさいね。でも、あなた達も一度ぐらいは顔を出しておいた方が良いと思うのよ。確かにオールマックスみたいな所は、段々流行らなくなっていくんでしょうけどね」

「ブリーチズ(ひざ下丈のズボン)着用を義務付けた服装規定が、気に入らないですよ、僕は」

「近頃は身分階級を問わず、ブリーチズよりトラウザーズ(長ズボン)って感じよね。オールマックスの服装規定は明らかに時代錯誤だと思うわ。でもおかげでロバートの『真っ白いブリーチズ』姿を見ることが出来て、私はちょっとうれしいかな」

「王宮の儀式でもない限り古めかしくて僕は着たくないけど、マギーは気に入っているの?」

「ロバートは何でも良く似合うと思うわ。子供のころ絵本で見た王子様みたい」

「あんまり自分の夫をまっすぐに褒めると、野暮ったいって言われちゃうわよ」

「だって、本当に私はそう思うんですもの」

「おやまあ、ごちそうさま。それにしてもブリーチズまで白く無くても、たとえばテイルコートと色を合わせるのも有りでしょうに」

「テイルコートはダークな無地でシャツとクラバットとブリーチズと靴下の全部を真っ白にするのが僕のこだわりです。昨今は空気の汚れのせいか真っ白なブリーチズやら靴下やらを穿いているのが、なかなかに難しくなってきてますからね。仕事には全然向きませんが。ダークな色の上衣とブリーチズだと、どこぞの従僕みたいにも見えかねませんし、華やかな色で上衣と揃えると外国の王族の真似みたいで、それもどうかなと」

「従僕に見えるって事は、まさか無いわ。従僕を使う立場の人だって雰囲気がにじみ出ちゃっているから。なるほどね。条件が厳しい中で真っ白を保った状態って言うのが、見せどころなのね?」

「真っ白のクラバットと真っ白のシャツ、やっぱり清潔感がありますよね」

「マギーは旦那様のどんな装いが好きなの?」

「下がトラウザーズのスーツかしら。お仕事前のキリッとした感じがとっても素敵なの」

「マギー、ありがとう。僕、一生懸命働くよ」

 こういう時のロバートは冗談なのか全くの真面目なのか良くわからないが、機嫌が良いのは確かなようだ。

「まあまあ……仲が良くて、結構だ事」


 レディ・バーバラは呆れて笑っている。

 マギーとロバート、レディー・バーバラのブリーチズ談義にエセルは加わらず、黙りこくっていた。


「ジェフェリーはどうやって来るのかな?」

「スーたちと一緒に馬車みたい」


 エセルの表情が一瞬動いたようにマギーには思われたが、本当に一瞬だったのではっきりとはしなかった。


 到着したその社交場は最盛期の賑わいほどではないにしても、かなり賑わっていた。ただ、七人のうるさい審査役のチェックをクリアした人物ぞろいというふれこみの割には、ロバートもマギーも感心はしなかった。


「何というか、アヘンのやりすぎかなって思う人がかなりいるよね」

「確かにすごく顔色が悪い人がかなりいるわ。か弱い雰囲気が流行って言ったって、どうなのかしら?」

「心身ともに健康じゃない男女が国の上層部のかなりの部分を占めるのは、社会問題だな」


 がりがりに痩せて黄色っぽくなった艶のない肌と、折れそうな腰、どんよりした目つきの女性はアヘンの常用者だろうとマギーにも見当がついた。だが幸いに、エセルの頬はバラ色で、目は生き生き輝いている。

 ともかくもマギーはロバートと組める限りは互いを選んで踊り、それ以外は、評判が悪くない穏やかそうな人物を、母とロバートの助言を受けて選んだ。ロバートは年配の女性ばかり選んで踊っている。久しぶりに会う人たちなので、あいさつ代わりらしい。


「ね、次のダンス、ジェフェリーとレディ・エセルが組むよ」


 ロバートに耳打ちされて、マギーはその様子を壁際に立って観察する事とした。するとロバートと反対側にスッと寄ってきた人物がいる。


「トマス叔父様!」

「エセルのお供なのかな?」

「ええ。後は私達の結婚のお披露目みたいなところも有りますかしらね」

「それにしてもマギーは年配の紳士方と、君の旦那様は親御さんの年代の御婦人と、とまあ露骨だな」

「分かりやすいでしょう?」

「まあ、いいさ。幸せそうだね」

「ええ。叔父様は?」

「ちょっと今、困った状況だ」

「と言いますと?」

 トマスはマギーの耳元に口を寄せた。

「実は妻が家出した」

「ええ?」

 そういえばトマス叔父は結婚式に誰も招待しなかった様だ。何か事情があったのだろうか?

「僕も思いがけない事になって、困っているよ……ああ、失礼」


 ロバートには会話のすべては聞こえていなかっただろう。特にマギーの耳元でささやいた分は。トマス叔父に声を掛けられた瞬間、ロバートの眉がピクリと動いた。あまりトマス叔父に夫は良い感じを持っていないようだ、とマギーは感じた。


「ロード・セルビー、奥方とダンスを踊っても構わないだろうか? 子供のころは良く一緒に踊ったのでね。ね、マギー、久しぶりにどうだろう」

「ラストダンスはロバートと踊りますけど……よろしいかしら? それでよろしい? ロバート」

「どうぞ、行ってらっしゃい」

 

 一応微笑みを浮かべて、そうは言った物の、ロバートは確実に不機嫌だとマギーにははっきり分かった。ロバートはばれていないと思っているようだが、あの眉の動きで明らかだ。フロアの男女は、皆緩やかにカドリールを踊る。ワルツほど男女互いの体が密着する事は無い。ロバートはすぐ隣で、にこやかに年配の御婦人と踊ってはいたが……すれ違うたびに不機嫌だという事がマギーには感じられた。それでも最後をロバートと組んだので、機嫌は治まったようだった。それがマギーには何とも可愛らしく感じられた。

 帰りの馬車で相変わらずエセルはほとんど何も話さなかったが、表情が往きよりも艶めいているとマギーは感じた。そんな事はレディー・バーバラもロバートも口にはしなかったが。


 帰宅してマギーとロバートがそれぞれ入浴しベッドに入ったころには、深夜だった。


「ジェフェリーはエセルとラストダンスを踊ったようね。どうなるのかしら」

「どうなるのかなあ。ジェフェリーが押せば、話はまとまりそうだけどね」

「他にも可愛いお嬢さん方はいたようだけど」

「がめついお袋さんやらおばさんやらがくっついていたからな。本人が美人ってだけなら、他にも該当者はいるだろうが、家族まで魅力的って言う令嬢はレディ・エセルだけだ。それに親戚になったら、何かと君にも会いに来やすいだろうし」

「ロバート……」

「あきれた?」

「ロバートが気にするほど、ジェフェリーは私の事なんて気にしてないはずよ」

「だと良いけど。何しろ君の叔父様のリズモア侯爵は……ほんとは叔父様じゃないから」

「ロバート!」

「公然の秘密って奴で、貴族なら皆知っているんじゃないか? リズモア侯爵本人も、マギーも知っている」

「だからって、何がどうって事も無いわよ。家族としての親愛の情が有るけど、それもいけないとはあなただって言わないでしょう?」

「マギーは家族の情のつもりでも、あちらが違うと僕は思うな」

「そう?」

「結婚した相手と上手くいっていないと言うのは、知らなかったが。まあ、そういう貴族は多いけど」

「トマス叔父の奥様ってどんな人かしら? 何か知っている?」

「知り合って間もない自分の領内の教区牧師の娘だってことしか知らないな」

「その奥様が、家出してしまったのですって」

「家出とは、また、穏やかじゃないな。行方は分からないのかい?」

「トマス叔父は見つけ出せていないらしいわ」

「リズモア侯爵の邸をやめて、とある銀行家の執事になった男が言っていたんだが、レディ・ハリエットが一度だけ訪ねてきて、帰り際にリズモア侯爵と何か激しく言い争っていたらしい。その時新婚の奥様の顔が、真っ青だったらしいよ。使用人たちは侯爵夫人となった人が牧師の娘なのがレディ・ハリエットには気に入らなかったんだろうと噂したらしいが、それだけじゃなかったのかも知れないな」

「それは何時の事なのかしら?」

「結婚してちょうど一年経ったぐらいらしいよ。家出はいつなの?」

「先月ですって。その件が有ってから割合とすぐって事かしらね。それにしてもレディ・ハリエットは何を言ったのかしらね。穏やかなトマス叔父を怒らせるなんて」

「でもさあ、なぜ、結婚式にアフトン公爵家の人を誰も呼ばなかったのかな? 何か変じゃないか? 僕はどうも引っ掛かりを覚えるんだが」

「独立したから、って事かしら。それとも、お嫁さんの御家族が気後れすると気の毒だからかしら」

「んー、気後れさせない様なやりようは有ったと思うよ。他の家ならともかく、開明的なアフトン公爵家の人たちが、花嫁が牧師の娘だからって嫌がらせのような事を言うはずもないだろうに」

「それは母も不思議がっていました。独立してからでも、しょっちゅう相談に来ていたくせに結婚式に呼ばないなんて、どうしちゃったのだろうと思っているみたいです」

「身分以外にも、何か呼びたくない、あるいは呼べない事情が有ったと見るべきだな。その隠された事情を実の母のレディ・ハリエットは知っていた、あるいは察していたのかもな」

「何かしら?」

「んー、わからん。いっその事レディ・ハリエットに聞くか」

「ええ?」

「僕が直接って言うんじゃなくて、何か手を回してみようか……それともマギーと君の母上が一緒に、話を直接リズモア侯爵に聞きに行くのが一番早いのかも知れんぞ。家出されてしまったんなら、事情も変わっているし、話せなかった事も話せるかもしれないからな」

「では、明日、早速母と相談します」

「ひょっとして僕って、お留守番になる? リズモア侯爵って、領地に帰るんだろ?」

「そうですねえ。そうなるかも。でも、聞くだけの事を聞いたら、先ずはすぐ戻ってきます」


 翌日早速、マギーは実家の母の所に駆けつけて、トマスの妻が家出した事を告げた。


「ええ? ナニ、それ?」

 レディ・バーバラは全く知らなかった。オールマックスではトマスと顔を合わせなかったようだ。

「んー、私を避けたのかしら?」

「でも、私とロバートがいる所には来ましたよ」

「私を避けたと言うより、エセルに聞かせたくなかったのかしら。もっと言うなら、エセルの母親に」

「それはそうかも知れませんね」

 

 エセルの母は、かつて使用人であった頃、トマスの実母レディ・ハリエットにひどく苛められたらしく、そのせいか互いに今でもよそよそしい。マギーもレディ・バーバラも重い気分になって、茶を飲んでいた。

 すると、そこへ従僕がリズモア侯爵の来訪を告げた。


「突然、すみません」

「あらあトマス、どうしたの?」

「マギーから聞いておられませんか?」

「聞いたけど、結婚式にも呼んでくれないもの。冷たいなって思っていたわ」

「すみません。今から僕の邸においで願えませんか?」

「良いわよ。マギーも行く?」

「ええ。どのみち行かなくてはいけないかと思ってましたし」


 トマスの乗ってきた四頭立ての馬車に乗り、リズモア侯爵家のロンドンの邸に到着した。そこは元々はトマスの生母レディ・ハリエットの父の建てたもので、なかなかに大きく、贅を尽くした建物であった。


「大きい事は大きいのですが、一人で住んでいると気がふさぐんですよ、ここは」

「奥様、なぜ家を出られたのかしら?」

「バーバラ、いきなりですか」

「あら、その件で呼んだのでしょう?」

「ええ。そうですが……ああ。わかりました。この写真をご覧ください。結婚の記念に撮った写真です」


 トマスは大切そうに寄木細工の美しい机の引き出しから幾つかの写真を取り出した。そこには、複製は不可能だが画像の良いダゲレオタイプと複製が可能なカロタイプ、両方の撮影方法で夫婦二人を撮った写真と、妻一人だけの写真が有った。何れも専門家にちゃんと撮影させた、出来の良いものだった。


「まあ、お母様の若いころにそっくり!」

「私よりマギーに似ていると思うわ……でも、マギーよりかなり若いかしら?」

「はい。今年で十九歳です」

「親御さんには、御同意いただけたと言う訳ね」

「ええ。病人を抱えて苦労してましたから、アデルの実家は。その……援助をして、父親のドレイパー牧師に許してもらったと言う訳なのです」

「トマス、あなた……この奥様の顔を私達に見せたくなかったのね」

「……ええ。でも、それは間違ってました。きちんとしておけば、アデルだって悩まずに済んだのに。僕がいけないんです」

 トマスが言うには、最初のきっかけはバーバラやマギーに似た面差しだったが、当然ながらアデルは全く別の存在で、トマスもアデル独自の魅力を幾つも見つけ、心から愛するようになったのだと言う。

「レディ・ハリエットがあなたを怒らせた、って言う話は私達も知っているの。一体あの人、トマスに何を言ったの?」

「純真なアデルが聞くに堪えない様な、破廉恥な事を言いました。そして、アフトン公爵家の女性相手には無理でも、貧しい牧師の娘になら何でも遠慮なくしてのける事が出来るだろうとも……」

「その後のトマスの対応が不味かったのよね、きっと。家出しちゃったって事は」

「ちゃんと奥様に『君は身代わりなんかじゃない』とか『心から愛している』とか伝えました?」

「言ったよ。言ったし……」

「言ってどうなの? トマス」

 きまり悪そうな咳払いをトマスはした。

「……多分、子供が出来ました。ちゃんと医者に見せようとしていた矢先、家出してしまったんです」

「一旦修復したはずなのに、なぜまた急に?」

「この……集合写真です」

 ロバートとマギーの結婚式の際の集合写真が問題だったらしい。トマスが引出しの奥にしまっていたその写真をアデルが見て、マギーやレディー・バーバラの顔が自分と似ていることにショックを受けたようだった。

19歳のアデルは「私には侯爵夫人の役目は務められません」と書いたごく短い置手紙を残して、家を出たようだ。マギーも母もその手紙を見せてもらったが、美しい筆跡で、その上に明らかに涙と思われる滲みが有ったのが見ていて心が痛んだのだった。


「奥様がいなくなった後に、この写真が置かれていたのね?」

「叔父様のところに写真を送らなければ良かったですねえ」

 ロバートは記念として、列席者に漏れなくこの写真を送ったはずだった。今、写真は大変もてはやされている貴重品だから、良かれと思ってした事ではあったのだが。


「アデルは結婚する際に贈った指輪以外は何一つ持って行かなかったようです。もし、妊娠していたらと気が気ではありません」


 ガックリ肩を落とすトマスを、どう慰めたらよいのかマギーには見当もつかなかった。


「トマス、何をメソメソしているの。リズモア侯爵夫人を大々的に探すのよ。探偵でも何でも使いなさいよ。新聞広告もやり方によっては役に立たないかしら? 家名をさらさなくても、出来る方法は有りそうよ」

「たとえばどんな具合に?」

「この写真よ。この写真をもとに絵を書いて貰って幾つかの新聞に掲載するの。ロンドン以外の街の新聞にもね。この女性を探しているって」

「わかりました、バーバラ、おっしゃるようにやってみます」

「置手紙を書くときに奥様が泣いていた、というのはあなたに気持ちが有るからよ。トマスもションボリしてるから、奥様が大事なのでしょ? なら、希望は有るわ。帰ってくると信じて、やれる限りの事をなさい」


 マギーがその夜、帰宅したロバートに事の次第を話すと、ロバートは言った。


「レディ・バーバラのおっしゃる通りだ。だが、リズモア侯爵夫人が見つかる保証は無いけどな。田舎の牧師の娘なら海外に出た可能性は低いだろうが……ロンドンにはいないだろうなあ」


 それからマギーもロバートも、以前よりは積極的に社交的な集まりに出るようになった。アデルの手がかりを掴めないかという期待が有ったのだが、一向にそれらしい情報は無かった。新聞広告はイングランド以外の地域でも出されたのだが、集まった情報はどれもアデルに繋がる物では無かった。


 こうして瞬く間に月日が過ぎ、1848年の年の瀬を迎えるまで、状況は大して変わらなかったのだった。

トマスの生みの母はレディ・ハリエットです。すみません。誤字訂正しました。

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