社交界へ・2
「それで明日あの赤毛のジェフェリーがレノックス夫妻と、マギーの邸に来る、そういうわけ?」
ロバートは不機嫌になった。
「まさか君まで、午後の奥様のお茶会は夫は立ち入り禁止とか言わないよね?」
「そんな事、言う訳ないですよ」
「コルセット無しの開放的な身なりで会う気?」
「そんなに私が信用できませんの?」
「そうじゃない。そうじゃないけど、ジェフェリーなんて嫌だよ」
「なぜ?」
「あいつ、結婚式でもまだ、噛みつきそうな目つきで君の事を見ていた」
「ロバートの思い過ごしじゃありません? そんなに気になさるなら、明日おいでになって」
「行ったら怒るんじゃない?」
「怒りませんけど、ちょっと呆れます。でも、気になるのでしょう? お時間が取れるならいらっしゃいな。ロバートの好きな芥子菜とチーズのサンドイッチと、ブラックカラント入りのスコーンを出しましょう。でも、コーヒーは有りませんよ」
ロバートはごくりとつばを飲み込んだ。マギーが用意してくれる物は何でも美味いと思っているようだが、その二つは特に気に入っているお茶請けなのだ。
「じゃあ、銀行でのあれこれやは大急ぎで済ませる」
「まあ、済ませられますの?」
「意地でも済ませるさ」
ロバートは鉄道会社に関する鬱陶しい案件を抱えていた。政界にも顔が効く鉄道王と呼ばれる人物に株式を共同で発行して広く資金を集め、長距離の線路を敷設する計画への参加を求められていたのだ。その人物は有力銀行の設立者でもあった。しかしその鉄道王と呼ばれる人物の会社は粉飾決算の噂が有り、有力政治家への贈賄の疑惑が付きまとっていた。ロバートも気にはなっていて、マギーに相談した。最初は相談と言う程の意識は無く、壁に向かって独り言を言うより自分の考えをまとめやすいと言った程度の意識だったが、マギーはこうした経済の動きにも気を配っており、自分なりの意見も有ったという事なのだった。
ロバートにはそれなりの社会的な影響力も有り、信用も有るのだから、おかしな噂の付きまとう人物と行動を共にしなくても、今のままでも経営している鉄道会社は黒字なのだから、変にあせる必要もない……そうしたマギーの意見はロバートも幾度も考えたのではあったのだが、鉄道王の誘いをキッパリ断ることにしたのは、こんなマギーの言葉だった。
「初代オーフォード伯が名を上げた事件のようにならない保証は、無いと思います」
1720年の奴隷貿易をはじめとした投機の凄まじい過熱と株価の大暴落による混乱の中で、音楽家のヘンデルは大儲けしたが、科学者のニュートンは深入りして大損したと言われている。
マギーは歴史好きだが、こういった金融や経済の歴史にまで興味を持っている女性は少ないだろう。何しろこの国では「上流階級の女性は自分で銀行に行くべきではない」と言うのが常識なのだから。一緒に暮らすようになって、ロバートが結婚前に思っていたよりも多様な事柄について、マギーに相談するようになったのは、自然な成り行きともいえるのだった。
マギーの指摘する通り、鉄道に関する投資が過熱しているのは確かだった。株価の異様な高騰の後は暴落も近いと言うのは、当事者になるとつい忘れてしまいがちな歴史的教訓なのだ。結局は「堅実なのが一番」だと言うマギーにロバートは賛成した。
そんなわけで、ロバートの会社は無借金の堅実な経営方針を堅持する事とし、鉄道王との提携を断る決心がついたのだが、最初に話を持ちかけた鉄道王と懇意の銀行の重役の説得は難航するかもしれなかった。ロバートとしては、あまり角を立てたくなかったが、いざとなったら席を立つだけの事だと腹はくくっている。こちらは銀行にとっては重要な顧客であり、何の負い目も無いのだから。
「意地でもねえ。でも、それが良いかもしれませんね。あちらの申し入れをお断りするんですから」
「もし無理だったら、サンドイッチだけでも取っておいて」
「サンドイッチは取っておくと不味くなります。スコーンは大丈夫ですけど」
「サンドイッチのために頑張らないと」
正直言って、ロバートが午後のお茶の時間にマギーの元の住み処に寄れるかどうか微妙なのだろうとマギーは思った。
「まあ。そんなに食べたければ、明日ロバートだけのためにお夜食に作りましょうか?」
「マギーって、やっぱり優しい」
「それにしても、投資のお話、断って宜しかったんでしょうか?」
確かにあと数か月、ひょっとすると一年ほどは相場は高騰を続けるのかも知れないのだ。まだ話を降りるのは早いかも知れない。だが、この話を受けたが最後、引くに引けない立場に立たされそうだ、とロバートは思う。
「マギーの言うように、今の相場は過熱してる。それに……」
「それに?」
「あの鉄道王は、美味い物と不味いものの区別が、ちゃんとつかないみたいだ」
夫婦で招待を受けながらマギーは産後で参加できなかった鉄道王の邸での晩餐会は、一見豪華なものだったが、自慢たらたらで出されたシャンパンもトカイワインもそれほどの上物では無かったし、肉類のローストは不適切で、野菜の鮮度は今一つだった。それを感じる者は感じたが、気が付かない者も多かったようだった。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」
マギーがいきなりフランス語でそうつぶやいた。
「なんだそれ?」
「美食家で名高いジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの残した言葉です」
「フランス革命の時はアメリカに亡命して、フランス語とヴァイオリンの先生をやっていたって言う法律家の人だね?」
「そうです。愉快な楽しい方だったらしいですよ。この方の言葉では『新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである』と言うのが私は一番気に入ってますけど」
「僕にとってはマギーの発見が、ハレー彗星との遭遇以上の大事件だけどな」
「まあ、私『発見』されていたのね」
「そう。発見して情熱的に観察を続けたんだよ。知らなかった?」
「ええ、ヤドリギの下でたまたま捕まっただけだと思ってました」
「あの時、足を踏まれて痛かったなあ」
「ごめんなさい」
「ジェフェリーと、あんなキス、してないよね?」
「有り得ません……もう、なんでジェフェリーの名前がそこで出るんです? 本当に何でもありませんのに」
「じゃあ、なんで来るの?」
「相談が有るみたいですよ。結婚の事で」
「マギーは僕の奥さんだからね」
「そんなの当たり前じゃないですか。どこかの令嬢とのお話を進めるべきかどうかって話だと思います」
「僕が焼き餅焼きで、あきれた?」
「ちょっと。でも可愛いわ」
「じゃあ、良い子良い子してよ」
「はいはい、可愛いロバート。チョッと焼き餅焼きでも大好きですよ」
互いにクスクス笑いながら幾つもキスをし、裸になり、ベッドの中で戯れた。
「マギーを愛しているから、愛人なんていらないし、愛人用の別宅も贈物やら手当もいらない。考えてみればすごく経済的だね」
「まあ、何て言い草なの! でも、確かに経済的ね。私も愛人なんていらないから二重に経済的よ」
「夫婦円満は最大の節約だね」
「ふふふ、そんな事言うから、また変人だって言われちゃうんだわ。でも変人だと思われているのも、便利は便利かしら。多少人と違う事を言ったりやったりしても『変人だから』で許してもらえそう」
「僕はただの節約家で、マギーほど変人じゃない」
「まあ、酷いわ」
「変人だけど、すごく美人で魅力的だよ。夫の両親とも庶子とも本当に仲が良くなっちゃうなんて、普通有り得ないから。感謝してる。これはありがとうのキス」
ロバートは唇に軽く触れる様な口づけを落とした。それから抱きしめて、熱っぽく耳元でささやいた。
「これは欲望のキス」
それをきっかけに、久しぶりに二人は情熱的に愛し合い、その後互いに手を握りながら深い眠りに落ちた。
一緒に起き抜けのコーヒーを楽しんでから、朝食を食べ、ロバートが邸を出た後、マギーは姑である老侯爵夫人と一緒に庭に出た。温室に面した部屋で一緒にお茶を飲み、その後はバージルの所に教師が来る前に宿題を一緒に点検した。キッチンのメイド達と一緒に今日の午後のお茶の時間の支度をし、邸の人間全体の昼食と夕食に関して点検したり用意したりした。正午直前には、母親であるマギー自身の手でサミュエルに沐浴をさせる。沐浴は体の様子を確かめ、清潔にするために欠かせない。乳母になったハンナはどうも赤ん坊を沐浴させるのが苦手で、サミュエルもハンナ自身の娘であるナネットも大泣きさせてしまうのだ。その後はルチアもお風呂に入れる。ナネットの手伝いとしては、二人の親戚にあたる若いメイドをつけている。二人とも健康で気立ては良い。器量はあまり良くないのだが、その方が良いとハーグリーブス夫人などは考えるようだ。
沐浴はかなりの大仕事で、それが終わるとようやくマギー自身の自由時間なのだが、訪問客が有る日は、気を入れてしかるべきデイドレスに着替える。結婚の時に幾枚も作った体裁の良い部屋着は女性客だけが相手なら問題無さそうだが、男性客がいる場合はロバートの言葉では無いがコルセットもして『無防備では無い』デイドレスに着替える。客がなければレディー・バーバラの所まで出かけるか、ルチアやバージルと一緒に昼食を取りお茶を楽しむことが多い。近頃のバージルは祖父と出かけてしまう日も多いので、ルチアとマギーは温室で果物を収穫したり花を摘んだり、絵本を読んだりお絵かきをしたりピアノを弾いたりする。マギーの見るところでは、ルチアは音楽に対して、特別に才能が有るのかも知れないと思われた。
ルチアがこの邸に住むようになって以降、ロバートはそれなりに色々調査したらしい。結果、ルチアの両親の行方は相変わらず不明だが、ルチアの産みの母の事はかなりはっきりした。ルチアと言う名前からも察しがつくように、母親はイタリア人だった。
イタリアで評判を取ったオペラに、ヒロインの名がルチアと言うのが有る。ロバートの言うように「意に染まぬ結婚を強いられて花婿を刺す花嫁の名前だろう? 縁起でもないよな」とはマギーも思ったが、実の親がつけた名なので変えるのもためらわれた。まあ、イタリア人ならさほど珍しい名でもないだろうし、ローマ時代の聖女でルチアという人もいたようだ。
「そっちは拷問を受けて両目をえぐり出されたって人じゃないか。縁起でもない」などとロバートは言ったが、色々な国であがめられる聖女の名でもあるから、悪い名前とは言い切れないし、ルチアというのは光を意味するラテン語に由来する名前なのだから、それなりに親の思いもこもっているのかもしれないとマギーは思った。
ルチアの母親はローマのオペラ座の歌手だったらしい。恐らく元々はカトリック教徒だったろうが、レイフとの結婚は「一応形は整えた」ようで、書類は正式のものであったし、結婚証明書に記載された教会の登録簿にちゃんと名前が有ったようだ。
やがて約束の時間が近くなった。
スーは訪ねてくるたびにほぼ毎回のようにルチアと顔を合わせているが、スーの夫のグレアムやジェフェリーとは会ったことがない。ルチアは最初のイメージの所為なのか、いまだにロバートには自分から近づかないのだ。だが、バージルは大好きだし、老侯爵とも友好的な雰囲気だから、問題にはならない気がするので、一緒に連れて行く事にした。ジェフェリーは幼い子供の面倒を見るのは嫌いではなさそうだし、貧しい子供や恵まれない子供を救う活動にも熱心なのだ。
「さあ、一緒にお出かけよ。手を繋いで歩いて行きますからね」
マギーだけでは目が届かない恐れが有るので、リジーに一緒についてきてもらうことにした。ちょうど年のころが自分の初孫と同じぐらいなので、リジーもルチアを可愛いと思うらしい。ルチアはリジーも大好きなので御機嫌だ。機嫌が良くなるとルチアは可愛い声で歌を歌う。
マギーとリジーが褒めると、ニコニコ嬉しそうに笑う。
「やっぱりあれでしょうか、生みの親御さんから受け継いだ才能でしょうかね」
リジーもルチアの複雑な立場について、色々考えているようだ。
「そうでしょうね。私も子供のころから音楽は好きだったけれど、こんなに小さいうちから上手に歌う子は珍しいと思うわ」
「それにしてもルチアちゃんの御両親は、どこで何をしているんでしょうかね?」
「ほんとにねえ。あんな手紙もつけて来た事だから、大人になるまで私たちが育てる事になるんだろうけど、どうしてあげるのが一番良いのかしらね。色々悩むわ」
「御嫁入まで面倒を見て差し上げるのですか?」
「だって、それしか無さそうじゃない」
「大旦那様がおっしゃっていた事は、有り得るんですか?」
「バージルとの事?」
「ええ。私は変に納得してしまいましたが」
「変に?」
「あの、その悪い意味では無くて、意外だったというか、意表を突かれたというか、でも、悪くないかなと」
「リジーも悪くないと思う?」
「年頃になられて、御本人同士が納得なされば……ですけどね」
「確かにねえ。どう転ぶか、誰にも先は分からないわねえ」
庭を横切って、小さな通用門に出た。道を越えてマギーの小さな邸に入ると、客間の準備は整っているし、書斎の顕微鏡の方も用意は出来ている。応援に来て貰ったメイド三人とリジーはルチアを連れて、十分に温めたキッチン脇の小部屋に入った。ルチアに御菓子を食べさせたり絵本を見せたりして、マギーが呼ぶまで控えていてもらおうと言う訳だ。
準備が整った事をマギーが確認したちょうどその時、表の方から馬車の近づく音がして来た。