社交界へ・1
「マギー、跡取り息子も無事に生まれたのだし、そろそろあなたも打って出るべきよ」
「どこへですか?」
「社交界へ」
「エセルのお婿さん探しに差し支えが出てきていますか?」
「んー、実害は無いけれど、あなたも旦那様も必要以上に変人だのケチだの言われない方が良いと思うわ」
「じゃあ、お母さまが選んで下さったパーティーにだけは出ましょう。ロバートは別に仕事上の支障は感じないとは言いますけどね」
「本当は自分で選ぶべきよ」
「それはそうでしょうけど私の見る限り、行く必要を感じるパーティは全く無いんですもの。それこそサミュエルのお嫁さんを探す時期にでもならない限り」
「そういう活動は、いきなりはじめても効果は出ないのよ。人脈を作るにも時間とお金が必要なんだから、ある程度の無駄も覚悟しないと……それにね、社交界での交流や宣伝効果を上手く利用すれば、世の中の動きを変えるきっかけも掴みやすいのじゃないかしら? そうそう、あなたの友達のスー、あの人は意欲的よ。私が行く先々で色々な人と話をしているのを見るもの。ご実家は米英戦争の時に海運業で大金持ちになったらしいけれど、余りそういう事は皆気にしないみたいね」
「ああ! だからロバートがスーのお父様と近頃はお話をするようになった、なんていう話をしていたのね」
「なーに、今頃気が付いたの?」
スーの実家が海運業から身を起こした富豪の家だと言うのは知っていたが、母に聞くまでアメリカ軍に関わる利権を握り込んで、随分黒いうわさも有るなどと言う事は知らなかった。
「夏の休暇に泊めて頂いたニューヨークの五番街の邸は、おしゃれな感じだったわ。スーの話では去年、チェルシー界隈の邸をお父さまがロンドンでの滞在のために買い求められたみたい」
「みたいって、あなたはまだ行った事は無いのね?」
「そういえば……私、スーが旦那様と暮らしている邸にも行った事がないわねえ」
「あらあら。サー・グレアム・レノックスのお母さんはちょっとばかし、鬱陶しい人だけど、一度ぐらいはお宅に顔を出すべきよ。月に幾度かサミュエルの顔を見に来るのでしょう? ちょっと話をしてみたら?」
母に言わせれば、それほど頻繁に会いに来る親友の家に行った事がないと言うのも不自然だと言われてしまったので、翌日サミュエルのために美しい絵本を持って訪ねてきたスーにその話をすると、是非一度訪問してほしいと言う話になった。
「グレアムのお母様ったら、私の友達は下品な成り上がり者ばかりだと言うんですもの。腹が立つわ」
更には友人にマギーのような名門貴族の夫人が居ると知れば、姑もきっと自分を見直すだろうとも語った。
「成り上がるのだって、なかなかできない事よ。私の父だって筆一本で成り上がったのよ。自分の努力と才能で世に出る事の何がいけないのかしら?」
「ああ、マギー、そうよね。マギーにそう言われると何を気にしていたのかなって思うわ」
「いつものスーらしく、堂々としていればいいのよ」
「でも、私って自分で何が出来るって訳でもないんですもの。大学時代もマギーみたいに成績優秀じゃなかったし、お料理は……パンケーキぐらいしか焼いたことがないわ。それにドイツ語もフランス語もさっぱりダメだし……」
「でもスーは、どこでもお友達を作る事が出来るじゃない」
「だけど自分自身のお姑さんとは上手くいってないの。赤ちゃんもまだできないし」
「まあ、スー……」
いつも陽気なスーがひどく暗くなってしまった。だがそれもマギー手製のドイツ風のチーズケーキを食べると、ケロリとおさまった。どうやらダイエットに励みすぎて栄養不足になっていたらしい。体を壊すから用心するべきだとマギーが言うと、ダイエットを止めるわけには行かないと言うのだ。
「だって、最新流行のドレスが着られないじゃない」
「それがそんなに大事な事かしら? 体を壊したら赤ちゃんどころではなくなるわよ。今までだってスーが太り過ぎていた事なんて、無いじゃないの」
マギーが巻き尺を持ち出して、自分のウェストはスーほど細くない事を証明すると、スーはやっと安心してレタスとハムのサンドイッチにも手を伸ばした。
「あらおいしい。これは何のサンドイッチなの? 」
「海老のペーストとブロッコリーのスプラウト」
「これは?」
「フォアグラとマスタードのスプラウト」
「スプラウトって、あの種から出てきた芽の部分よね。マスタードやブロッコリーの葉っぱがこんな風だなんて知らなかったわ。そういえばマギーの所って、キュウリのサンドイッチって出さないの?」
近頃は多少暮らしに余裕が有る家では、キュウリのサンドイッチをティータイムに出すのが流行だ。ロンドンの気候はキュウリの露地栽培には寒すぎるので、当然キュウリが食べられる家と言うのは温室を持っているか、高級食材を扱う店から購入できるかのどちらかという事になる。キュウリしか挟まないサンドイッチが上流家庭のティ-タイムの定番メニューとなりつつあるが、すぐに食べないと水っぽくなってしまうので、マギーはあまり好きではない。ロバートも食べたくないようだ。
「ロバートが『どこに行っても馬鹿の一つ覚えみたいにキュウリのサンドイッチが出る』ってうんざりしていたから、出さなくなったの。使用人たちは喜んで食べるから、午後のお茶に良く出すけどね。スプラウトは栄養豊富だから、是非食べるべきよ。簡単に育てられるし」
「栄養豊富なの? キュウリより?」
「キュウリは体の熱を取る働きが有るなんて中国人は言うらしいわ。だから夏向きね」
「スプラウトって、お店で買わないで育てるものなの?」
「何でもそろうメイフェアの青果店とかコヴェント・ガーデンならいつでも手に入るけど、自分でも簡単に育てられるのよ。小さな種から芽が出ると楽しいわ」
マギーは簡単なスプラウトの栽培について解説した。
「マギーってやっぱり貴族の奥方様としては変わっているわよね。だってお宅は御領地の方にはお城だってある様な御家柄でしょ? そんな方が種からスプラウトを自分で育てるなんて」
他にもハーブ類やキュウリ・トマト・サラダ菜などをマギー自身が温室で育てていると言うと、スーは呆れたような顔つきをした。
「育てるのがバラとか蘭なら、貴族の妻らしいかしら?」
「お抱えの植物学者と相談して、庭師に作業をさせるのが上流夫人らしいやり方ではないかしら」
「世間の人はスーの言うような事を考えるのかも知れないけれど、私は作業自体も楽しいと思っているもの。自分で野菜を育ててうまく育つと嬉しいし、味も良いのよ。節約にもなるし、良い事づくめだわ。育てた経験が有った方が、専門家の話も深く正確に理解できると思うし」
「マギーの言う事は正論だとは思うけどね……わ、このエクレール、美味しいわあ」
「フランス仕込みだから、本場の味よ」
「こういうのもマギーが自分で作るの?」
「このエクレールは、私が実際に調理場に入って、作り方を教えたの」
「教えたの? へええ……やっぱり変わっているわ。でもすごいと思う。売ってるお菓子より美味しいもん」
マギーは子供が欲しいらしいスーに、ちゃんと食事を取る事とアヘンチンキは避ける事を強く勧めた。スーはどうやら寝付きが悪い感じがする時などに、頻繁にアヘンチンキを使っているようだった。
「これから子供が本気で欲しいのなら、絶対アヘンチンキは使っちゃだめ。中国の大臣がアヘンを取り締まろうとしたのは正しかったのよ。戦争には負けちゃったけどね」
「でも、アヘンチンキって、ちゃんとした店でも売っているじゃない」
「それは、色々な利権が絡んで政治の力が及ばないだけの事よ。私は一般人がアヘンを扱う事自体、禁止にするべきだと思うわ」
「そんなにあぶないの?」
「命と引き換えにしてでもひらめきを得たいという芸術家でも無い限り、絶対にやめた方が良いわ」
マギーの強い口調にスーは驚いたようだ。
「そ、そうなの? わかった。使うのやめるわ」
そのような事が有った二日後、マギーは初めてスー、つまりスザンナ・レノックスの住む邸を訪ねた。
それなりの格式ありげな門構えではあるが、マギーの住むレイストン・ハウスよりはるかに敷地が狭い。王から直接邸の土地を賜った様な高位の貴族とは違い、準男爵では土地から自分で購入するのだから、どうしたって手狭になるのだ。自然庭が犠牲になり、建物は高くなる。レイストン・ハウスはほぼ二階建てなのに対して、レノックス家のタウンハウスは完全な三階建てだ。こういう造りだと二階が主人家族の居住スペースで三階は使用人の住み処という場合が多い。
マギーはリジーの見立てた新しいデイドレスを着ている。インド風の彩り豊かなストライプ柄のシルク生地は、最近注目され始めた素材だ。七段もの重なる襞飾りが最新流行の釣鐘型のスカート部分のシルエットを強調しているデザインで、華やかな色合いの中に、どこか落ち着いた雰囲気が有る。手元で大きく広がったパゴダスリーブが真っ白な手袋をした手の動きを優雅に見せる。極上のフェルト製の帽子にはクジャクの羽が数本あしらわれていて、それがマギーを大層粋な感じに見せていた。前日にロバートにドレスと帽子を見せた時には、非常に良い趣味だと褒められた。
スーに紹介された姑の「レディ・ノーマ・ヴィリアーズ・レノックス」は自分が由緒ある伯爵家の娘であることを非常にほこりに思っており、準男爵家に嫁いだ事を不本意に感じている……そんな人種だった。細い体に高すぎる魔女のような鼻、枯草を連想する艶のない金髪とどんよりした緑の目、への字に曲がった口……小さい子なら絵本の悪い魔女が出てきたと言い出しかねない雰囲気をまとっていた。普通に不細工なだけならここまで嫌な感じは持たないものだ。だが、この老女の場合、顔だけではなく性格も美しくないのだと思わせるには十分な視線の向け方、ことに息子の嫁を見るゾッとするほどの冷ややかな感じがマギ-には鬱陶しかった。初対面の人物にここまで良くない印象を持つのは,マギーも初めての経験だった。
「レディ・キーネスを当家にお迎えできました事は、大変な名誉です」
老女がそういった時、マギーを歓迎しているのではなく、マギーの婚家の古い家柄と王家の血筋を歓迎しているのは間違いなさそうだった。
「新大陸生まれのがさつ者が、レディ・キーネスとどこでお知り合いになったものやら……驚きましたわ」
「おかあさま、マギーと私は大学時代からの仲良しなんですの。幾度か申し上げましたわ」
「大学って、新大陸の大学なのかしら?」
「ええ、そうですわ」
「では、このがさつ者が言う新大陸の女の大学に王家の御血筋の方までが、おいでになった、そうなのですか?」
「確かに母方の祖父はアフトン公爵ですが、父方の祖父は腕の良いパン職人です。ですから私は貴族の血筋ばかりが人間の価値とは思っておりませんの。スーは大学でも人気者でした。私のアメリカでの暮らしが実り多い楽しいものになったのは、スーのおかげが大きいんですのよ」
「まあ! 何という事でしょう……世も末ですわ。私はこれで御無礼いたします」
いきなり踵を返して、二階へ上って行った老婦人にマギーは驚いてしまった。
「厄介な人でしょう?」
「確かに……凝り固まっちゃってるわね。ああいう人は新しい価値観なんて、馴染めそうにないわ」
そこへ、スーの夫であるグレアムが、マギーにも見覚えのある人物を連れて客間に入って来た。
「お茶の準備は出来たかな? 母上は?」
「御自分の御部屋に戻られたみたい」
「やれやれ、相変わらずだなあ」
やはりあの老婦人は実の息子の目から見ても、色々と問題行動の多い人物であるらしかった。
「ねえ、グレアム、まずはお客様を御紹介しないと」
「僕は、マギーさんとは元から知り合いですよ。お久しぶりです」
「まあ、ジェフェリー、お久しぶり」
「相変わらず、いやあ……以前にも増してお綺麗ですね、レディ・キーネス」
スーは興味深げに、マギーと顔をほんのり赤らめる赤毛の青年弁護士とを、かわるがわる見つめた。ジェフェリーはグレアムとはパブリックスクールでの同級生で、心を許し合った仲のようであった。
「このグレアムは気分の良い奴なのですが、勉強がさっぱりでして。僕が幾度も宿題を手伝ってやったりしたもんです。それでも全く自分でやらんのは不味いだろうと思って、僕が家庭教師役を引き受けて教えるんですが、大変でした。特に……」
初歩的な三角関数を使った練習問題をグレアムが理解できないので、どう教えればいいのか色々苦労した話を面白おかしくジェフェリーがすると、スーもマギーも爆笑せずにはいられなかった。
「ジェフェリーは狩りも得意だし、物騒なならず者相手にも一歩も引かない男なんですが、なぜか毛虫だけは苦手らしいです」
お返し、とばかりにグレアムがジェフェリーの弱点を披露する。
「けむし! 聞くのも嫌だ! グレアム、勘弁してくれ」
「でもジェフェリーは顕微鏡を覗くのは、楽しんでいたみたいだけど……見ていた中には毛虫の標本をスライスしたものも有ったのよ」
「マギー!」
スーは軽い悲鳴を上げた。
「え?」
「お茶の時間よ、今は。美味しくなさそうな話は、ひとまず……」
「あら、ごめんなさい」
「いえ、グレアムが最初に話題にしたのがいけなかったのよ」
皆でその後は静かにお茶を楽しんでから、近い内にこの四人でマギーの小さな邸の顕微鏡で色々な物を見ようと言う話になったのだった。
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