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とある理髪店にて

「やはり月に一度は首席理髪師マスターバーバーのチェックをお受けになるべきです」


 ラドストックに言われて鬱陶しい客と顔を合わせる可能性の少ない時間を選んでこの店に入ったのだが、それでも幾人かの上流社会に属する男たちと顔を合わせた。特に資金調達に絡んで厄介な話を持ちかけてくるような輩では無かったが、親しくなりたいという連中でも無かったので、顔が合ったら軽く会釈する程度にとどめた。


 髪を切り、白大理石の豊富に湯が出る洗髪台で洗髪した後「とても真似できるものではありません」とラドストックが言う所の神業的な顔剃りに入る。

 心地良い爽やかな香りのする蒸しタオルで顔がすっかり覆われ、首席理髪師の手で押さえられる。タオルを取ってプレシェイブオイルを髭が生える部分に塗り、また新しく蒸しタオルを使う。その後、アナグマの極上の毛を使ったシェービングブラシできめ細やかな泡立ちのクリームを塗って行く。普通ならそこで剃るところだが、更に蒸しタオルを使い、シェービングクリームを丁寧に塗り重ねてから、ようやく剃刀だ。右、左、顎と順に仕上げていき、また蒸しタオルで蒸してからアフターシェーブバームを塗り込める。それからアフターシェーブローション、更にフランス産のアルムブロックと呼ばれる白い天然石を湿らせたものをごく軽く肌にあて、丁寧に馴染ませる。消炎・消毒・止血効果があるのだそうな。少々ヒリヒリするが、それすらも不快ではない。


 髪と顔に関するすべてが終わった後、爪磨きのサービスも席を移して受ける事にする。こちらの責任者は中年の女性で、幾人かの若い助手を仕切っている。


「おや、ロバート君じゃないか、珍しいね」


 ふと見ると、隣の席で手の爪を鹿革のバッファーで磨かせている人物はアフトン公爵だった。そういえばマギーが「祖父は毎日あの店で髭を剃って、爪の手入れをして貰うようです」と言っていたのをロバートは思い出した。


「やはり、ちゃんと身支度はしておこうと思いまして」

「君のところのあの、彼……ラドストックと言ったかい? あの男の腕前も悪くは無さそうだがね」

「ですが、あのラドストックに月に一度はここに来るべきだと言われてしまいまして」

「いよいよ明日だが、マギーはどんな感じかね?」


 特別結婚許可証も入手したし、贈ろうと思っていた宝飾品の手配は出来た。レイストン・ハウスの使用人達は、元からマギーを「上流階級の匂いがする」と感じていたようで、ロバートと結婚すると聞いても仰天すると言う感じでは無かった。差し迫って困るのは調理に関わる人間をどうするかだが、マギーの邸を管理しているミリーに毎日通ってもらって、当分は切り抜ける事になりそうだ。バージルの事も考えると、やたらと性格もわからない使用人を新しく雇い入れるより安全だと思われた。権益を握った上級の使用人が弱い立場の庶子に辛く当たると言うのも、時折聞く話だからだ。


 ここの従業員は上流の顧客を相手にするだけあって、知り得た秘密を軽々しく噂にしたりはしないが、それでもチップをはずんで聞きだす事は可能だ。どこまでこの場で話して良いものやら、ロバートは迷う。


「元気でやっています。息子の面倒をよく見てくれるので、助かっています」

「マギーの話じゃ賢い子のようだね。だが……この国の上流社会に食い込むのは……難しいだろうな……」

「はあ」


 バージルは、新大陸の先住民の血を引いているとはっきり分かる様な顔立ちをしている。人種的な差別の壁は厚い。公爵の言う事はもっともだった。


「新大陸の方が伸びやかに暮らせる場所は見つかるかな? 教育は君の監督下できちんと行うべきだろうが」

「何か本人の好きな分野で、思うように仕事が出来るようになれば良いんですけどね」

「生まれによる差別と言うのは、理不尽なものだ。これを、見てごらん」


 急に公爵は自分の右腕を捲り上げた。そこには幾つものかなり大きなひきつれが残っていた。ロバートはどう言ったら良いのか、困惑した。


「古い傷のようですが」

「救貧院にいた時、全く身に覚えのない盗みの疑いをかけられてね。申し開きの機会も与えられず、気を失うまで打ち据えられた事が有ったよ」


 公爵の貴族的な容貌が救貧院の院長には感情的に気に入らない部分が有ったようで、時折「目つきが反抗的だ」と言う理由で平手打ちを食らわされたり、蹴られたりしていたらしい。


「ある日、院長の懐中時計が行方不明になった。院長におべっかを使う何人かが『こいつが何かやったに違いありません』と言いだしてね。誰かが庭に落ちていた時計を見つけてくれるまで、私はステッキやら棒やらで、打ち据えられた。しても居ない盗みを私は認めなかったしな。癪に障ったらしい。年月を重ねる内に背中の傷跡は消えたのだが、腕のこの部分の引きつれは、どう言う訳か残った……今でも、この傷を見る度、あの頃の自分と同じような子供達を十分に救い出せずにいる、その事を自覚するのだ」 


 公爵は「ふしだらな交わりで生じた罪深い子」「穢れた子」と言われていたらしい。引き取り手がいない婚外子は、しばしばそうした悲惨な目に遭っているようなのだ。


「こういっては何だが、私は確かに『ふしだらな交わりで生じた子』なのだろう。だが『生まれつき穢れている』とか『原罪を背負っている』とか言われても……なあ。元々は大人の勝手な都合であって、子供自身を責めるのは筋違いだと思うよ。だが、力の無い弱い立場の子供は、思う事を口にする事も許されない。生まれによる差別と言うのは根強いものでね。理屈に適った事を言っても生意気だと言われて打たれたりするし、本人に何の落ち度がなくても何か不都合が有ると疑われやすいし、身の証も立てにくい立場に追いやられがちだ。君は……そのあたりの事情に十分に配慮してやって欲しい。貴族の家庭ではしばしば力のある使用人が、主人に顧みられない子供を虐待する事も有るのでね」


 ロバートは学友たちの家庭の様々な不穏な噂を思い返した。庶子や先妻の子がやせ細って亡くなったり、病死なのかどうか分からない死に方をしたり、そんな事例は確かにかなり有るようだ。あのバージルにそんな死に方をされたら……やはり胸が痛むだろうとロバートは思う。だが、その程度であって、どうもいまだに息子だと言う実感は無いのだ。


「家庭内で不正や不公正が横行するのは、許さないで置こうと思うのです。でも……あれを、息子だとは、どうも正直思えません……それこそ大人の勝手なのでしょうが」

「勝手なのだと自覚していれば、大丈夫だ。幸いその子とマギーとは気が合うようだね?」

「ええ。何だか二人とも楽しそうです」

「ああ、そうだ。明日からしばらくはウォーラム・アベィかね?」

「はい。ロンドンから近いですし、その割には空気もきれいで静かな場所なので」


 ウォーラム・アベイはその昔カトリックの修道院であった土地を賜り、邸を建てたと言うより、修道院を邸に改造した所だ。手を入れないと寒くて堪らない建物だったが、母の健康を考え空気の汚れたロンドンから移り住む事を視野に入れて、昨年大幅に改装した。母よりも先に自分と新婚の妻が休暇を共に過ごすと言う予定は当初は無かったが、悪くないプランだろう。


「君は、あれだよね、典型的な上流夫人の生活をマギーに望んではいないよね? 午後三時から日暮れまで夫婦は顔を合わせるべきではないとか、夫婦それぞれバラバラに社交に励むべきだとか……私は好かんのだが」

「確かに夫婦とは名ばかりの男女には必要な措置ですが、僕はそんな社交生活はごめんです。まあ、どのみち仕事ばかりのせわしい毎日を送ってますから、どこかの御婦人と特別親密な時間を持つ余裕も無いですが」

「それなら結構だ。君とマギーが留守の間、君の息子さんを訪問しても構わんかな?」

「わざわざお出で下さいますので?」

「隣じゃないか。それに久しぶりに君の父上のお話を伺うのも悪くない。何か美味い酒をお持ちするよ。そうお伝えしておいてくれ。ああ、無論、伺う前にちゃんとお知らせするが」

「美味い酒には目がないのですよ、うちの父は」

「美しい物、優れた物を一瞬で見抜かれる具眼の士でいらっしゃるよ、キーネス侯爵は。財務方面がいささか心配ではあったが、君と言うしっかりした人が後を継ぐのだ。万事安心だな。だがな、一つだけ心配が有る」

「何でしょうか?」

「冷たい家庭はすべての不幸のもとだ。特に子供にとってはね……君はまだまだ伸びる人だし、商売もそれなりの醍醐味が有る。貴族にしては働き過ぎという人もいるだろうが、私は構わんと思うよ。確かに君の力を借りないと形にならない事業が幾つも有るのだろうし。だがね、家庭を健全に運営するのは、一大事業だよ。天国に行くときは身一つだ。何事も適切なるバランスと言うものを考えてほしい。何はともあれ、明日からは君は私の義理の孫だ。爺の老婆心と言う奴だよ」


 公爵はロバートの爪の手入れが終わるまで待っていた。店の外には貧しい子供たちが五人、公爵を待っていた。


「じいちゃん、昨日もまじめに掃除したぜ」

「牧師さんの所には行ったかな?」

「あたい字が書けるようになったよ」

「よしよし。御褒美な」


 近況報告をするなじみの仲らしい。皆に半シリングづつ与え、子供らの教区牧師の所にパンを運んでおいたから貰いに行くように伝えている。物乞いの子供には半ペニーというのが相場のようだから、やはり気前が良い。家で待つ兄弟の分も込みなのだそうだ。一シリングになると大人の日当になってしまうから、その程度が程が良いという事なのだろうか。


「歩いておいでになるのですか?」


 何と驚いたことに公爵は護衛の供を二人連れて、徒歩でこの理髪店まで来る事にしているらしい。確かに公爵の邸であるセイフライド・ハウスから歩いて歩けない距離ではないが、まったくもって貴族らしくない。


「老人の暇つぶし兼健康法だ。」

「あの子供らは御身分を存じ上げないのでしょうな」

「どうだって構わんのさ。羽振りのいい爺さんだと思われているようだから、期待には応えんとな。私も彼らから色々な街の情報を貰うし、これは君が思っているよりもはるかに互恵的関係に近いのだよ」


 まだ「見回るところが有る」公爵とロバートは、店の前で別れた。

 ロバートも自分の事業に関する仕事や、銀行家との面談や、まだあれこれある。だが、夕食ぐらいはゆっくり食べたいと思っている。

 いよいよ、明日身内だけで簡素ではあるが、結婚式をあげるのだ。

脱字補充しました

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