イエス命名の日に・4
「何か面白い話でもなさってましたの?」
アフトン公爵はマギーの姿を認めると、微笑んでその場を離れてしまったので、マギーはロバートの隣にごく自然な感じで座った。ざっと見渡した所、ホールの中で楽しげに踊っているのは十代の若者と安定した夫婦だけのようにロバートには見えた。あの赤毛のグレイストーン弁護士はロバートとは対角線上の正反対の位置に座っていて、隣にマギーの弟で黒髪のアランの方がいる。二人ともこちらを見るともなく見て、何か話している。先ほどアフトン公爵とロバートが小声で話し合っていた様子も観察されていたのだろう。
「マギーの御祖父さまに昔の恥を打ち明けていた」
「昔の恥?」
ロバートは頷いたものの、それ以上は口にできずにいた。
「ああ。金も力も無くて、何も守れなかった昔の話」
「何か込み入った事情が有りそうですね」
「君にも打ち明けたいが、ここじゃ差し障りの有りそうな話だ。関係者も居そうだし」
「ではさっさとお邸に帰りましょう。ね?」
「一度君の邸に寄った方が都合が良いだろう?」
「なら……そうしてください」
失礼にならない範囲で、その場を早めに引上げ、馬車に乗り込んだ。
ロバートはあまりに近距離なので、ゆっくり行くように御者に命じた。そして馬車が動き出したとたん、マギーを抱きしめたのは少々酔っていた所為だろうか。あるいは最後のダンスを出来なかった恨みだろうか。
マギーの髪の付近から微かに男物の整髪料の香りがしたのがロバートの神経を苛立たせた。柑橘系の匂いが表に出過ぎて未成熟な若者向きである気がしたので昨年から使うのを止めた、その銘柄に違いない。今は同じ店の製品だが針葉樹と白檀、ジャスミンが中心の、端正な中にも大人の華やぎが感じられるものに変えた。
ラドストックはロバートの調髪のために、ロングエーカーの王室御用を勤める理髪店と同じ品物を使っている。首相や王族も通うその店は、どうしたって気を遣わねばならない誰かと顔を合わせるのが厄介に感じられて、ロバートはもう随分行っていない。代わりにラドストックが常連兼弟子見習いのような感じでその店に通い、店の主と個人的に懇意になり技術を磨かせてもらっているようで、主からは「お邸でしくじったらウチでやとう」などと半ば本気で言われているらしい。無論、ラドストックは特別扱いであって、最近売り出したコロンや石鹸はともかく、その店の整髪料は一般には手に入らないものなのだ。
あの赤毛の若者は……生意気にもその超高級理髪店で身なりを整えたのだろう。救貧法の改正では熱弁を振るうくせに、熟練したお針子の日当の倍はしようかと言う高価な理髪料を払って、今夜の夜会に備えたと見える。気合が入っている。彼の立場なら同じ事をしただろうとロバートは思うが……不愉快だった。
馬車はすぐにマギーの邸に着いた。そしてそこで馬車を返した。邸の中はもう寝静まっているようだが、玄関の側の部屋は明かりがついている。バージルは恐らく眠ってしまっただろう。
「どうするの? こんな場合は」
「自分でカギを持っていますから、開けて中に入ります。ミリーは起きているはずですし……急いで着替えますから、どうぞ中でお待ちください」
マギーが家の鍵を開けて中に入ると、ミリーが出迎え、マギーと一緒に二階に上がった。ドレスは一人で脱ぎ気は出来ないから、手伝う者が必要なのだ。マギーの支度を待つ間、ボブがホットウィスキーを勧めた。
「あまりお上品じゃ有りませんが、美味いと思います。公爵様がお褒め下さったんで」
「ありがとう」
暖炉の前に座り、思いの外美味い酒のおかげで体が十分に温まったころ、マギーが降りてきた。
乗馬服を思わせるモスグリーンのサージの服だ。先ほどまでは見え隠れしていたデコルテと案外に豊かな胸の谷間が高い襟で完全に隠されてしまったのは残念だが、巨大なクリノリンと鋼鉄のコルセットから解放された自然な感じが悪くないとも思う。
マギーがそのドレスの上から暖かそうなフードつきのオーバーコートを着ると、ロバートはマギーに腕を差し出し、自然と腕を組んで門を出る。道を横断すれば、もうそこはキーネス侯爵邸レイストン・ハウスの敷地内だ。門を入ると夜は放し飼いにしている二匹のマスチフが飛んできたが、ロバートとマギーに撫でられると、また向こうへ行ってしまった。ロバートの知らない内にマギーは犬たちを手なづけていたようだ。
「やっぱり最後、君と踊りたかったな。赤毛の彼とは二曲続けて踊っていたね」
「ええ。あなたはオレンジのドレスの可愛い人とお話が弾んでいたようだけど」
「あの人の母上が……いや、僕が昔あの人の母上に、こっそり小遣いを貰うような関係だったんだ。それで気になっただけだよ。無論あの娘さんには内緒だが」
「そ、それってつまり……」
「若い燕ってやつさ。軽蔑する?」
マギーは首を激しく横に振った。かなり驚いたようだ。
「ず……随分多彩な社会的経験を積んでいるのね、あなたって」
「社会的経験ね。物は言い様だな。ねえ。あの弁護士とは、どうだったの?」
「水道の水は汚染されていないもっと上流から取るべきだって話をして、水とワインの出来不出来の話をして、一緒に踊った。それだけよ」
「踊って楽しかった?」
「ええ。まあ。ダンスも下手ではなかったし」
「僕と踊る時と、どう感じが違うの?」
「ジェフェリーと踊る時は楽しいけれど、ロバートと踊る時は楽しいだけじゃないの……何だが胸の奥の方がザワザワってする感じ……かしら」
話しながらだと自然歩みもゆっくりとしたものになる。
「胸の奥の方がザワザワするって、僕が嫌なんじゃないよね」
半ば無意識に二人は歩みを止めた。そしてロバートはマギーを抱きしめる。街燈の灯りの下、周りには他に誰も居ない。つい気分は開放的になる。
「嫌だったら、こうはなっていないわ」
「それもそうか……なあ……君を抱きたい」
「抱かれているわ」
「ねえ……本気で言ってる? 僕が言いたいのは君とベッドに行って、思うさま……」
愛し合いたい? 貪りたい? どっちでもやりたい事は同じだが……ロバートには分からなかった。それからはしばらく無言で、唇の感触を味わい、マギーの背中を手で撫でおろし、互いの体を隙間なく密着させた。
「……ともかく、君が欲しいんだ」
「本当に?」
「ああ、間違いない」
「確かに脈動は早くなっているし、呼吸も荒いわ。あなたが性的に興奮しているのは認識したわ」
「マギー」
普通の令嬢なら、まず言いそうも無い言葉にちょっと呆れながらも、ロバートは不快では無かった。そう言うマギー自身が明らかに「性的に興奮している」とロバートにははっきり感じ取れたからだ。ロバートの手が緩むと、マギーは「あまり遅くなっては、まずいでしょう」と言って歩き出す。ロバートも仕方無くそれに合わせるのだったが……
「牛や馬が番うのと、人間の場合、牧師様が言うように根本的に違うなんて……私は信じていないの」
向き合っていない所為か、夜の闇の所為か、マギーも大胆な事を言う。ロバートは半ばむきになって歩いているように見えるマギーの歩みを、一時的に止めたいと思った。
「獣みたいに交わるのも悪くないよ。君にだってその醍醐味は理解できるさ、すぐに」
「そ、そんないきなり……で、でも、子供が出来たら……」
うまい具合にマギーは立ち止まったので、また、腕の中に抱きしめる事が出来た。
「こういう事はいきなりなのが、当たり前なんだ。君だって僕に欲望を感じない訳じゃなさそうだし。大体、女性に主体的な性欲が無いなんて言う学者がいるが、ありゃ嘘だ」
「それは豊富な経験に導かれての実感?」
「数をこなしたのは認めるよ。でもあんなのはみんな、君と一緒になるための予行演習みたいなもんだったのさ」
「それこそ、物は言い様ね」
「僕は、本気でそう思っている」
「何だか半分騙されているような気もするけど、ロバートになら、騙されても良いかしら。何しろ社交界の基準で行けば私はもう完全に『売れ残り』なんだし、それでも引き受けてくれる男性なんて、そういないわ」
「マギーでもそんな事が気になる?」
「ええ。良識にあふれた御婦人方の群れの前に一人で立つと、やっぱり心細いわよ」
「あの赤毛君はマギーに結婚を申し込みかねないと僕は見ているから、ちょっと焦ってるんだが」
「そうかしら? ロバートの思い過ごしじゃない? ジェフェリーを狙ってるお嬢さん方は沢山いるから、何も私を相手にする必要なんて無いですもの」
「でも話が合いそうで……心配だ」
「まあ、合う事は合うわね。でも心配って、本当に?」
「本当だとも。ともかく特別結婚許可書を急いで取り寄せる。三日も有ればどうにかなりそうだ。とりあえず法的・宗教的に夫婦になっておこうよ。結婚しても君の自由を妨げないし、公に僕の妻だって名乗りたくなかったらそれでもいいさ。でも、結婚はしておこう。ね、どう?」
その特別結婚許可書さえあれば、いつでも結婚できる。家族の反対が無い貴族階級の男女ならカンタベリー大主教に二十五ギニーを支払えば手に入るのだから。やはり急ぐべきだろう。
「自由を妨げないって、本当なの? ロバートはそれでも良いの?」
「僕は君を抱きたいし、もし子供が出来ても安心できる状態にしておきたい。それ以上は欲張らないよ……と言っても、浮気は困るけどな……君はお茶会やらダンスパーティーやらの繰り返しで毎日を過ごすなんて、嫌なんだろうしね。それなりに意義も目的も有る社会的な活動は好きにやってくれればいい。本当に社会的に意義が有る活動なら、僕だって応援する」
「まあ、本当? それなら独身でいるより却って安心かしら」
「僕は今更誰か他の女にフラフラする気はこれっぽちも無いし、悪くないと思うんだ。ね、だから……」
結婚すれば何もかも夫を中心に考えて、常に一歩控えて過ごさねばいけない。それが上流社会の常識で、実態がかけ離れた夫婦でも互いに外聞を取り繕うのは暗黙のルールだが、そんな関係は何だかマギーには似つかわしくないと、ロバートは感じている。
「ね。大事な話なら、明日にしましょう。今夜はもう遅いし」
「ちょっと待って、マギー。大事な事を言うから」
「なあに?」
「僕と結婚してください」
「はい」
「本当に?」
「ええ」
ロバートはホッとした。ホッとしすぎて、力が抜けてしまった。
「それは良いのだけれど、バージルとの約束も有るし……レイストン・ハウスの皆には何も言っていないし」
「既に僕の父にラドストックにハーグリーブス夫人は事情を知っている訳なんだから、そんなの、どうとでもなるさ。君が僕の奥様になってくれれば」
「なりますから、今夜はダメよ」
「あー、そうだね。実に残念だ。ものすごーく残念」
「まあ、どこまで本気でおっしゃっているの?」
「本気も本気。でも『今夜はダメ』だと言う事は了解したけれど、キスぐらい、最後にさせてよ」
「え?」
「嫌じゃないだろう?」
「ええ。旦那様の魅力にメロメロですから」
全くもって、良家の子女にあるまじきあけすけな言い方だ。
「マギー! もう、全くどこまでが本気で、どこからが冗談なんだ?」
「実は私にもわからないの。だって、経験に乏しいから」
「君って、色々変てこで変わっているけど、そこが素敵だよ」
「あなたも……個性が際立っていて、素敵よ」
「ああ、そう言えば良かったな……どれだけ君が欲しいか分かっている?」
「……何だかドキドキするけれど、たぶん、本当には分かっていません。先生」
「マギー、君ったら……君なら、おそらくベッドでも理想的な生徒に違いない」
「だと良いんだけど……がっかりされてしまうんじゃないかと思うと、ちょっと怖いの……だって、もう、年も年なんですもの」
「なら僕は物凄く年だって事になってしまう。気にするなよ、そんな事」
ロバートは幾度もついばむようなキスを繰り返し、マギーの鼓動が早まり目の中に明らかに欲望の色が滲んだのを確認した。
「明日、一緒に出掛けようよ。君に贈りたいものだって有るし。何か予定が有った?」
「変更できない予定なんて無いですわよ」
「じゃあ、付き合ってもらおう。手短に済ますから……僕は長引いても一向に構わないんだけどね」
マギーは怪訝な顔をした。結婚をすると言うのに婚約指輪も結婚指輪も無しなんて、出来るわけがない……という風には、彼女は考えないのだろう。もう既に、彼女に贈りたいと思っている幾つかのジュエリーの候補は絞ってある。後はマギー本人の希望を取り入れて、サイズを合わせるぐらいだろうか……
「では、明日ね。おやすみ」
「おやすみなさい」
使用人口でこんな風に別れるのも、あと数日かと思うと、ロバートは感無量だった。