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イエス命名の日に・3

 アイスブルーの地に雪の結晶を織り出した絹地の豪華なドレスを着たマギーは、ただ美しいだけではなく、一度見た人間に強烈な印象を与える何かが有った。

 巷で流行りの強調されすぎた胸や17インチ(42センチ)などと言う病的に細い腰を「美しい」とはロバートは思わない。伸びやかで瑞々しい若さと言うのもそれはそれで魅力的だが、マギーには何かしっかりとした核のようなもの、彼女自身であって余人では無い何か、そんなものがしっかりと有る。それが成熟したという事なのだろうが、その癖、恋愛の実体験においては奥手であった様なのは好ましいと感じている。独占欲と言う点ではロバートも、世の中の常の男と大して変わらないのではあるが……ただただ綺麗で従順なだけの女を妻にしたいとは思えなくなっているのも確かなのだった。

 ドレスの上から着るコートもおそろいの色目で、こちらは銀色のボタンにミッドナイトブルーのリボンが袖にあしらわれていて、優雅な雰囲気だ。


「これは……素敵だ、実に素敵だよマギー。何というか北の国の女王様と言う感じだ」

 ふわふわした真っ白い毛皮のマフから出ている手を取って、馬車に乗り込む。

「アンデルセンの『雪の女王』みたいって弟に言われてしまったわ」

「アンデルセンか。その話は知らないな。『親指姫』って言うのが絵本になっていて、友人の子供たちにせがまれて読んであげた事が有ったぐらいで……」

 

 マギーによればどうやらその女王は雪の魔物か魔女とでもいうべき存在で、カイという少年とゲルダと言う少女、とくにゲルダの遭遇する試練の数々がメインのような話らしい。


「親指姫なら花の国の王子様と結婚するのにね」

「僕は弟さんとは意見が違うよ。君は冷え切った雪の女王じゃないさ」

「北の女王様と言えば、十七世紀のクリスティナ女王は独身を通したわ」


 女性を愛する女性としても有名だった北の大国の昔の女王にあやかられても困る。かつての王の血統は途絶え、今のスウェーデン国王はフランスの平民として生まれた人物だ。そのスウェーデン国王はノルウェー国王も兼ねるから、商売の上では付き合いは有るわけだが……


「他に居なかったかな、女王様は」

「ジョージⅠ世陛下の時代に二年ばかり女王だった人がいるかしらね」

「わかったわかった。君って変な事に無駄に詳しいな」

「無駄で悪うございました」

「あ、ごめん」


 ロバートは「女は男より出しゃばるな」などと言うつもりは毛頭無いのだが、だがどこかでついそう思ってしまう部分が有るのかもしれない。


「いえ、別に。あなたは正直な感想をおっしゃっただけよね」

「あー、困った」


 マギーを怒らせたくは無かった。あっさりと「綺麗だ」と、ただそれだけを言っておけば良かったのに、要らざる話を始めるきっかけを作ったのはロバート自身なのだ。


「別に夕食を食べて、話をしたければ誰かとしゃべって、気が進まなければ喫煙室で葉巻でも吸って、角が立たない程度に踊って、早めに戻ればよろしいのではなくて?」


 マギーはわざと話を取り違えている……ロバートにはそう感じられた。だが、本当に夜会は気が進まないのだろう。年下の叔母のために開かれるもので、そこで独身のまま二十代半ばまで過ぎた彼女の立場は、微妙と言えば微妙だからだ。渋る彼女を強引に誘ったのはロバートの方で……あれこれ考え出すと、さっきの「無駄に詳しい」と言う言葉は実に実に不味かった。


「マギー!……ごめん。僕がいけないんだ。その、君は綺麗でそのドレスは凄く素敵に似合っている、そう言いたいだけ。それだけだ……早目に戻りたい?」

「ええ。明日の事も有りますからね。キッチンメイドたちだけでは処理しきれない事は、まだ多いですから。それにバージルの事も有るでしょう?」

「……そうだな。食事をして、さっさと切り上げようか」

「ええ、そうしましょう」

「でも、今日は少しダンスを踊る時間が有るみたいだね。僕は君と踊りたいんだけど」

「では、そうしましょうか」


 何だか気のない返事なのが、ロバートには寂しい。


「君にダンスを申し込む人が沢山いたら……厄介だな」

「今日はそんなに大きな会ではないし、ディナーの後、喫煙室においでになる方も多いのではないかしら? 私も隅っこで大人しくしていましょう」

「そんなの無理だろう」

「二、三曲踊ったら、疲れたと言って断るわ。壁際で何か飲んで座っている事にします。頃合いを見てロバートが来て下さったら、御一緒して、それで切り上げて帰りましょう」

「ひょっとして、ダンス、嫌い?」

「余り踊りませんから、ひょっとして足を踏んでしまうかも知れませんわ」


 本当にそうなのだろうか? だが、マギーがあまりダンスに乗り気では無いのは確かなようだった。


 アフトン公爵家の邸宅セイフライド・ハウスは通りから見渡せない様な具合に植栽を配置して有る奥に有り、ロンドンの市中に立つ邸とはとても思えない。どこか郊外の離宮と言った趣の邸だ。公爵の地位にある人の邸としては小ぶりではあるがすべての建材が超高級品で、噂によればキッチンやバス・トイレなどは最新の設備で整えられているらしい。すべての部屋にスチームによる暖房の設備が整っているのだと言う。確かにいつ訪れても、春の温かさだ。


「普段はそう沢山の給仕やキッチンメイドを置いていませんから、今日は仕出し屋に料理を依頼したはずです。と言っても、元は祖父の所で働いていた人が始めた商売ですから、祖父の好みも考えもよく呑み込んでいるのですけれどね」


 招待客は百名ほどのようだ。そのうち十名はエセルの学友らしい。それに見合った若い男が十名ほどいる。最初に公爵の挨拶が有り、「食前の軽い運動」として踊ったらどうかという事で、皆気楽な感じで踊っている。比率としては年配の夫婦が多かったが、それでも皆、色々相手を変えて五曲ほど踊った。ロバートはマギーと最初に踊り、五曲目もマギーと踊った。


「とても上手だね。さっきあんな事を言うから足を踏まれる覚悟をしたのに」

「日によっては本当に足を踏む事も有るんですのよ」

「ひょっとして、わざと?」

「フフフッ、御想像にお任せします」


 軽やかにステップを踏むマギーの頬はうっすら上気して、いつもより艶めかしい。もっと踊りたい気分だったが、別室に食事の用意が出来たという知らせで、音楽も止んだ。


 フォアグラとキャビアのパテと極上のドライシェリーから始まる晩餐は贅を凝らしたものだった。シャンパンと合いの手に何種類ものカナッペが出て、好みのものを選んだ後、ウミガメのスープ、舌平目のポアレにモーゼルの白、トリュフ入りのウズラのパイにブルゴーニュの赤、その後は中国の調味料を使ったドレッシングを添えた瑞々しいサラダ、ヨーロッパ中の名産地から取り寄せたかと思われるほどの数々のチーズ、アイスクリームと色とりどりの果物を美しく重ねたパフェと続き、そして最後に紅茶かコーヒを好みで選ぶようになっていた。


 確かにどれも適切に調理されており、水準以上に良い味だったが……割合と型にはまっているというか、常識的な素材の組み合わせではあった。確かに人を呼ぶ場合、その方が無難なのだろうが食事そのものでわくわくする……とまでは行かなかった。だが、斜め向かいにマギーがいて、同じ食卓で差し向かいとは行かないまでも一緒に食べることが出来たのはロバートに取って、嬉しい事ではあった。


「見たことも無い様なごちそうばかりで、ちょっと戸惑いましたけど、どれも本当に美味しかったですわ」


 隣に座ったレディ・エセルの学友の令嬢は頬を赤らめている。いかにも酒にも不慣れな感じが初々しい。オレンジ色のシルクタフタのドレスと同色の髪に飾ったリボンと白バラの造花は年頃に似合いの装いと感じる。この少女も由緒正しいポウレット伯爵家の令嬢だ。


「セルビー伯爵は大人でいらっしゃるから、こんな御席も慣れっこでいらっしゃいますわよね」

「まあ、いい年ですし、言わばすれっからしですからね」

「まあ……そんな……あの……エセルの御親戚のアイスブルーのドレスの方とはどのような?」

「僕は結婚してほしいと申し入れているんですが、結婚自体、したくない人みたいなので、大変です」

「私なんか母に毎日、一刻も早くお相手を見つけなさいと口うるさく言われていますのに……そんな方もいらっしゃるのですね」

「確かに珍しいですよね。そうおっしゃるあなたは、あの彼なんかどうなんですか? ここの公爵閣下の双子の孫の一人が、さっきから鋭い視線をこっちに向けてくるんですけどね」

「初めてお会いしたばかりですし……でも、あの双子の御兄弟、髪の色も目の色も違っていらっしゃるから見分けはちゃんとつきますわね」

「あの黒髪の方の彼も……弁護士らしいですね」

 双子の片割れの灰色の髪の方、つまり香港で仕事をしている方はアダムと言い、黒髪の弁護士の方はアランという。マギーに「雪の女王みたい」と言ったのは、アダムの方らしい。

「他にも弁護士の方が?」

「あの赤毛の熱心に水道の話をしている彼、サー・ベンジャミン・グレイストーンの跡取りで、かなり優秀な弁護士らしいです」

 するとその令嬢は「あちらの方も、それから向こうの方も弁護士でいらっしゃいますわ」と言う。母親が社交的なら、色々人脈が繋がってるのかも知れない。だが……話をするうちに……


「あなたのお母様はマダム・ローリーだったかな?」

「その方は兄たちを産んだ方で、亡くなられました。私は後妻の子です。母の旧姓はハイアットですの」

「お母様のお名前は?」

「モニカです」


 ロバートは頭を抱えたくなった。また過去の因縁が関わってくるのだ。ロバートはモニカ・ハイアットが最初の夫と結婚する前後二年近くの間、秘密に付き合っていた。モニカは父親よりも年上で病人の裕福な貴族の妻となり、ロバートはモニカより三歳年下の傾いた侯爵家の次男と言う立場だった。ロバートが運試しに新大陸に向う以前の事でさすがにこの令嬢が自分の娘と言う事は無いが……モニカは言わば初めての相手であって、金が無い事の情けなさを実感させられた相手でも有るのだ。


 幸い、ポウレット伯爵夫人となったモニカは出席していない。誘われたらしいが、何か理由をつけて断ったようだ。あるいはアフトン公爵とロバートの付き合いを知っていて、警戒したのかも知れない。令嬢の様子や話の端々からするとモニカは、ポウレット伯爵とは円満な家庭生活を営んでいるらしい。

 そのポウレット伯爵は狩猟の話以外、大して気の利いた話も出来ないが、馬鹿正直な男だったように記憶している。領地経営についても、あまりうまい具合にやれると言うタイプではなく、モニカが最初の結婚で手にした遺産のおかげで、どうにかやりくりがつくようになったと言う所なのだろう。


 令嬢とロバートの話は小声であったが、ロバートが気を入れて話に相槌を打っているように見えたらしい。食事の後、その大きな食堂を出て、しばらく喫煙したり飲み物を手にして休憩し、また、ダンスが始まった。また最初のダンスをマギーと踊ろうとしたら、マギーは既に食事の間、隣の席で話をしていた赤毛のジェフェリー・グレイストーンと組んでいた。そばをすりぬける瞬間、マギーからもジェフェリーからも鋭い視線を向けられた。何か疲労を覚えて、壁際の椅子に座り、給仕が持ってきた飲み物の中から極上のソーテルヌのワインを受け取って「生き生きとして輝かしい」と評される香りを思い切り楽しむ事にした。そして、ダンスはしばらく無視することにした。そのくせ部屋を出て喫煙室に向ったりしなかったのは、マギーが誰の誘いを受けるのか、やはり気になった所為だ。ついチラチラと様子を窺ってしまう。そのロバートの様子を、通りかかったアフトン公爵がどのように受け止めたのであったろうか。


「ロバート君、どうした?」

「この素晴らしいワインを味わっております」

「マギーとは、どうかね? 進展しそうか?」

「ちょっと弱気になっています」

「ふーん、君にしては珍しい」

「その……僕の過去が身綺麗とは言えないのは認めます。今は実に真面目なんですがね。ですが……この所、何なのでしょうねえ。過去に祟られているのかと思うような事態が続いているんです。隣に座った令嬢の母上は、僕が若いころ付き合っていた人でした。その母上は最初の結婚で自分の親よりも年上の病人の妻になったおかげで豊かになりました。当時の僕は絵に書いたような貧乏貴族の次男坊で、情け無い事に小遣いまで貰ってましたよ」


 酒の酔いの所為だろうか、ロバートは立ち入った話をしてしまった。アフトン公爵が秘密を知り得たからと言って、モニカやあの令嬢に何か言うとも思えなかったからではあるが……


「かのルソーだって若いころは男爵夫人の燕だったさ」

「僕はルソーみたいに子供を全部救貧院送りになんかしませんよ」

「ルソーと違って、君は金持ちだし、君の方が誠実だ……だが、君が本気でマギーを望むなら、本当の事を打ち明けておいた方が良いだろうと思うよ」

「……はい」


 ようやくマギーはダンスを終えて、こちらに向かって来るようだった。

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