出会い・2
兄のセルビー伯爵クライブ・ボーダナムが皆の憂慮した様に高熱が引かないまま、亡くなってしまった。ロバートは穏やかで優しい性格の兄を決して嫌いではなかったが、幼いころからどちらが兄なのか弟なのか分からない様な関係であり続けたのも確かだった。放埓な父親の所為で惨憺たる状況だったキーネス侯爵家を建て直すことは、兄には到底無理だと最初から分かっていた。
「いっその事、爵位なんて無くなってしまっても良い様な気もするけどね。その方がロバートだって気楽だし、好き勝手にやれるじゃないか」
そんな事を言ってフワリと笑った兄の顔は、透明で、晴れ晴れとした雰囲気だった。
「アメリカ人になりきってしまうと言うことも考えたけれど、父さまと母さまに承知してもらうのは無理だと思うんだ。方法が何もないと言う訳じゃない。僕にはどうにか切り抜けるだけの才覚は有ると思うよ」
そのロバートの言葉を聞いた兄は「ロバートのやりたい様にやってみて上手く行けば幸い、行かなくても予想通りと言う訳なのだから」何も気にする必要は無いとまで言い切ったものだった。
賢い人だったし、物事の本質はちゃんと見えていたと思う。だが、あまりにも体が弱かったのだろう。幼いころから何か有るとすぐ熱をだし、寝込んでばかりだった。
「僕は体が弱くて結婚なんて無理だから、ロバートが心身ともに健康で賢くて美人の奥さんと結婚して、子供をたくさん作らなくちゃいけない。そうして父さまと母さまを安心させなくちゃいけないよ」
七歳かそこらで兄のクライブは既にそんな事を言っていたが、最後がこうなることをずっと前から見越していたのだと思う。
結局の所、兄が亡くなった後の葬儀やら、法的な手続きに伴う煩雑なあれやこれやをこなしたのは、ロバート自身だった。父も母も当てにできない。長年父のもとで家令を務めてきたトンプソンはすっかり老いぼれてしまって、役に立たないのだ。家令は本来なら執事や家政婦と言った上級の使用人を纏め上げ、侯爵家の全ての邸や各領地の状況を正確に把握し、適切に運営されるように計らうべき立場なのだ。そもそも浪費家の父を戒める事が全く出来なかったのだから、たいして役にも立っていなかったのだとロバートは見ている。それでも帳簿類を見る限りでは個人的な使い込みは勤務年数の割に少ないようだ。博打もやらず酒もあまり飲まず、妻も子もいないひとり身のまま老いたのだから、ある程度の老後の面倒は見てやるべきなのだろう。あまりに冷たい事をすると、他の使用人たちの士気なり忠誠心なりに悪い影響があるだろうから。
従来なら年老いて寄る辺の無くなった使用人たちは、侯爵家領内の農場で穏やかに老後を過ごせるようにしてきた。そろそろトンプソンの爺やも引っ込んでもらう時期だろう。耳もずいぶん遠くなり、いささかボケてきているようでもある。こんな状態で使用人の監督も何もあったものではない。それでも家政をしっかり取り仕切るハーグリーブス夫人がいてくれたのは、せめてもの幸いだった。
「ノーマ、早くマギーのスープをちょうだい」
母は兄を猫かわいがりしていた。成人男子に対する母親の態度としてどうかとは思うような場面も多々あったが、可愛い息子に先立たれたのがショックだったのだろう。母も兄の死後、急にぼけた。
次男のロバートが見舞いに来ても、今は頭の中はスープの事で一杯であるらしい。挨拶一つしないのだ。表情はどこか幼い子供のような雰囲気が有る。
「ロバートは何でもしっかり出来てしまうから、心配する必要なんて無いんですもの」
その母の口癖を「不公平だ」と恨んだ事も有ったが、呆けてしまった母を恨むのは難しかった。
「母さまはマギーのスープが大好きなんだね」
ロバートの言葉に対して、童女のような顔つきで母はコクリと頷いた。
「奥様はマギーが作るスープを、大層楽しみにしておいでのようなのです」
母と同じ年の小間使いのノーマ・シンクレアは、母が嫁入りのときに連れて来た昔気質の忠義ものだ。対外的には姓で「シンクレア」と呼びかける方が体裁が良いのだろうが、母も家族も名前でノーマと呼んでいる。出来の良い一人息子が大学を出て弁護士になったから、もはや他人の家で使用人をやっている必要も無いのだが、母の最期まで仕えてくれるつもりらしい。こうした人材は金を払ったからと言って、なかなか見つかる物ではない。こうした人材に恵まれているのが、古い貴族の家の恵まれた点かも知れないと、近頃ロバートは思う。
「僕はそのマギーって、知らないな。新しいキッチンメイドかな?」
ノーマは母に甲斐甲斐しくスープを一匙一匙、飲ませている。
「もともとはクライブ様に何か少しでも召し上がっていただこうと言うハーグリーブス夫人の計らいで、腕の良い真面目な料理人を探して、来てもらったのです」
その心遣いもむなしく兄・クライブは亡くなったが、今度は母の老侯爵夫人がマギーと言う女料理人の作るスープにこれほど執着するのは、よほど味が良いと言う事だろう。目的に合った使用人を確実に雇い入れると言うのは、なかなかに難しいが、さすがはやり手のハーグリーブス夫人だとロバートは感心した。
「僕も食べてみたいな、そのマギーのスープ」
ロバートが希望すると、父親と一緒のその日の夕食にマギーが作ったスープが出てきた。母の言うマギーはマーガレット・ホワイトという名前らしい。ハーグリーブス夫人の古くからの知人の娘で有るようだ。
「近頃は料理人のモアブルが殆どの事をホワイトに任せております」
モアブルというのは父の考えで雇い入れたフランス人の料理人だが、むら気な気難しい男らしい。近頃は真面目に仕事をせず昼間から飲んだくれているというメイドや従僕達のひそひそ話も、聞こえてくる。マーガレット・ホワイトがその抜けた分の仕事を全部やっているのかも知れない。
ハーグリーブス夫人が「ホワイト」と苗字で呼ぶからには、キッチンメイドの扱いではなく、上級職の料理人の扱いなのだろうとロバートは思った。聞けば母親がフランス人とかでフランス語はお手の物だそうな。
「僕からもそのマギーに言っておきたい事が有るから、呼んでもらおうか」
夕食後にハーグリーブス夫人と老いぼれた家令のトンプソンの立会いのもと、初めてロバートはマーガレット・ホワイトと面談した。艶やかな金褐色の髪をキチンと結い上げ、姿形はすっきりしている。まずは美人の部類なのだろうと思うが、金縁の眼鏡が何とも艶消しだと思った。せっかくの青い瞳が直接は見れない。キスをするにも邪魔だ。そう思った後で、料理人なのだから艶消しなぐらいでちょうど良いのだと思い返した。
「飲んだくれてばかりのモアブルには帰国して貰おうと思う。来月からは君がこの邸の食事の責任者だ。当分フォーマルなパーティーなどは開く予定はない。そうだな……それでも年末のクリスマスと新年のごちそうはちゃんと用意してやってほしい。ごく親しい人を数名呼ぶかもしれないし、この邸で務める皆にもクリスマスの御馳走は必要だからね」
「はい。皆様のご満足のいくように、精いっぱい務めさせていただきます」
生真面目に応える様子は、まじめな性格をうかがわせて好感が持てた。特定の訛りも無い。さりとて上流社会のものにありがちな気取った感じの発音もしない。強いて言うならアメリカでもイギリスでも一番通用しやすいとロバートが思い、なるべく使うように心がけている英語、強いて言うなら、実在しない「言語学的に標準の英語」と言う感じの言葉だ。
新しくロバートが侯爵の相続人となったからには、こうした使用人の整理なども必要だろうが、あまり大ナタを振るうつもりは無い。兄の想い出までがすっかり無くなってしまう様な事はしたくは無いのだ。兄に仕えていた者はよほどの不都合が無い限り、そのまま母の介護の方に回る事になりそうだが、若い者や結婚を控えた者の中には退職を希望する者もいるだろう。
「君は結婚の予定は、有るのかな?」
「いえ、全く御座いません」
即座にそう返事が返ってきた。やっぱりそうかと、ロバートは思い、それ以降、一月ほどは新顔の料理人の顔など思い浮かべもしなかった。役立たずの料理人はフランスに返した。しばらくは、ただ単に食事がよそよりも美味いと思う事が増えた。それだけだった。料理人はめったに主人家族の前に顔を出さない職種であるから、当然と言えば当然なのだ。
秋も終わりが近づいた頃の日曜の午後、ロバートは予定より早く帰宅して、ふと自室の窓から外を見た。静かに二頭立ての馬車が塀の所に止まったのだ。並みの辻馬車なら一頭立てだから、目を引いたのだった。車体は黒一色で紋章なども特に無いが、馬が非常に良い。そこらの小金持ちの厩にいるレベルの馬ではないのは確実だ。もしかすると車体自体も高級品なのかも知れなかった。御者はツイードのジャケットを着ていて、小商いの商人のような恰好をしている。仕着せを着ていないから超高級な貸馬車と言うわけでは無い。個人用だろう。ロバートが双眼鏡を取り出してじっと観察していると、中から一人の女性が降りてきた。そして馬車の中の人物、どうやら男だと思うのだが、その男に何事か言い、手を振っている。男も手を振って別れを惜しんだようだ。その男女がいかなる関係か、下世話な興味が湧くのも無理はない。そうロバートは自分に言い訳しながら、双眼鏡をのぞき続けた。
「おや、あれは、うちの新しい料理人か?」
まさにその女料理人だ。それらしく大きな果物を入れた籠も持っているし。その料理人が使用人用の通用門から入る時に眼鏡を取り出してかけたのだ。そう思って見るせいだろうか。女料理人の着ている淡いブルーの襟の高いドレスは、一介の使用人が着るものにしては仕立ても素材も良すぎる様な気がするのだが、ここからでは細かな事までは分からない。
「正体を隠して潜入している?」
ロバートの商売敵が送り込んできたスパイ、と言うのも違うような気がする。だが、あの女が何かを隠しているのは確かだ。ロバートにはそう思われてならなかった。




