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イエス命名の日に・2

「汚れは落としたいけれど、石けんが目に入るの嫌だなあ」

「うちにはシャワーも有るから、先にざっと汚れを落としてから、お風呂にお入りなさい。髪の毛用には別に綺麗なお湯を使えば良いわ」

 

 どうやらバージルは屋外の水浴びは好きらしいが、石鹸に関しては良いイメージが無いようだ。新大陸の森の中の清らかな水の流れと腐臭を放つテムズの水はあまりにも違うので、最初は驚き、今はやり切れなさを感じているらしい。だが、こうしてロバートが一旦身元を何にせよ引き受けた形にはなったので、腐臭漂うテムズの岸辺からは少しばかり縁が遠くなるはずだ。


 馬車を自分の邸の方に向わせるように主張するマギーの言葉に、ロバートは従った。馬車は先にキーネス侯爵邸に返し、バージルを連れたマギーの後にロバートも続いて中に入った。どうやら日の有る間は、いつでも風呂が使える状態になっているらしいが、バージルの汚れっぷりに、邸を仕切っているミリーと中年のメイド達は大わらわだ。バージルを風呂に入れている間、マギーは何か一筆書いて、ミリーの夫で馬丁兼御者のボブに渡した。実家にちょっと使いにやるらしい。


「いいよ。そんなにして貰わなくても」

「いえね、叔父たちや弟たちの服がまだ多少は残っているはずなの。何か有るんじゃないかしら。あまり華やかなものは無いと思うけれど、見苦しくは無いでしょう。ハーグリーブス夫人が、そちらのお邸の子供服類は儀式用の特別な物以外は、あなたのお母様のお考えで、大半人にあげてしまったって伺った記憶が有るの。確かに子供服にも流行って有るから、どうせあげるなら流行遅れにならない内にって言う御配慮だったみたい」

「子供のころ、やたらデカいレース襟のついた、ぴらぴらした服を着せられて、イヤだった記憶が有るよ。おまけに髪を巻髪にするのに、コテを当てるからじっとして居ろとか、うるさかった」

「まあ、綺麗な巻髪で、華やかなレース飾りの襟に、色鮮やかなサッシュベルトって感じ?」

「ああ」

「是非、見てみたかったわ」

「そうか?」

「うちは、男の子の服は動きやすくて、機能的なものが良いって考えで、何というのかしら、子供サイズのラウンジ・スーツか軍の制服みたいなのばかりで、レース飾りなんて見た事が無いわ。お客様がおいでの時やディナーの時にタイを締めた程度よ。髪はすっきり短く清潔第一って感じ。叔父や弟たちは、その方が嬉しかったみたい。飾りの多い服を着せられる友達を気の毒がっていたわ」


 それからマギーはむきになったように子供服の話ばかりをした。確かにキーネス侯爵邸には今のバージルのサイズの服は無いのかも知れないが、あえてバージルの母親の話を避けているようにもロバートには感じられた。確かに話しにくい事柄だが、尋ねられたら出来る限り正直に答えようと思っていただけに、肩透かしを食らった気分だ。


「お茶を淹れるわ。コーヒーの方が良い?」

「お茶で良いよ」


 すると手際良くお茶と二種類のサンドイッチとクッキーが、ワゴンで運ばれてきた。メイド達は全員風呂にかかりきりのようで、全部マギーが給仕してくれた。


「……あの……出しゃばり過ぎたかしら。でも、そもそもあそこの教会に行こうって誘ったのは私だし、あの子は良い子だって感じるし……でも、出しゃばりすぎよね、やっぱり」

「いや、そんな風には思ってないよ。ただ、全然考えた事も無い事態なんで、面喰っている……美味いな、これ。クリームチーズとスモークサーモンを挟んであるのか。良いなあ」


 もう一つはローストビーフにナッツを思わせる独特な味わいの菜っ葉が挟まっているが、これも美味い。


「この葉っぱは何かな。妙に肉に合って美味いけど、バジルとも違うし……」

「青果店ではロケットなんて呼ぶようよ。イタリアではルッコラと言うかしら。そこの温室で育てているのだけど、解毒作用や疲労回復効果が有るみたいよ」


 そうこうするうち、ボブが戻ってきた。大型のトランクを二個抱えている。マギーが開けると、子供用の服がどっさり出てきた。下着や靴まであって、行き届いたものだ。


「お嬢様がメモに書いておられたサイズ通りの子供服と靴を、出してもらいました。アーっと、下着は私が女房に渡しておきましょう」

「髪の毛をどうしようかしら。コテを当てて巻き毛にするのは、男の子は嫌いよね」

「あの風呂で格闘なさっている坊ちゃんは、いっその事、紳士方のように襟足をスッキリなさって、今はやりの風に前髪を作られたら……ちょうどこちらの旦那様みたいに」

「あー、なるほど、それは良い考えだわ」


 マギーの意見に、ロバートは大賛成と言う訳でも無かったが、代案が有るわけでも無かった。消極的賛成と言う程度なのだが、ロバート自身の調髪はほとんど全てラドストックに任せているので、いっそラドストックを呼んでバージルの髪の件を任せようという事になった。すぐにロバートが短い手紙を書いて、それを持ったボブがレイストン・ハウスの使用人用通用口からラドストックを呼び出す事になった。

 道を挟んで向いの敷地の事でもあり、ボブはロバートがお茶を飲み終らない内にラドストックを連れてきた。その間にバージルは容赦なく風呂で磨き立てられたらしい。とりあえずは下着に部屋着を引っかけている。体のサイズは図ったようで、適合する服を幾つか選んで、女たちがああでもないこうでもないと言っている。が、一応、大人用のラウンジスーツそのままの形の服に決まったようだ。


「この若い方の髪を整えればよろしいのですね」


 ラドストックにこの子が自分の息子かも知れないとロバートはまだ知らせてはいないが、こうしてわざわざマギーの家で身なりを整えるのに呼ばれたのだから、特別な事情が有るとは理解しているだろう。伸びすぎた毛はカットし形を整えるのに、さほど時間はかからなかった。街の理髪師の出来る事はラドストックも大半こなす。旅先で理髪師に髪を整えさせることもあったが、ラドストックの行き届いた仕事ぶりには劣るとロバートは思っている。


 髪が仕上がった所で、公爵家から持ちこんだ服を着て靴を履くと、見違えるようになった。


「小さな紳士と言う感じよ」


 マギーが我が事のように喜んでいる。だが、言葉遣いも食事のマナーも紳士には程遠い。これから仕込む事が大いにありそうだが、どうすれば良いかロバートも悩んだ。


「今夜から、いきなりお邸の方と言うのは、ちょっと大変じゃないかしら?」 


 バージルをこの小さな邸でゆっくりさせて、その間に部屋の支度やら老侯爵への根回しやら前もってしておく方がバージル本人もレイストン・ハウスの使用人の手前も良いのでは無いかと言うのだ。

 するとこの邸の家事をを仕切っているミリーが「お風呂の最中に、特製の三色アイスを差し上げるってお約束いたしました」などと言う。その言葉にバージルが嬉しそうに顔を輝かせると、ミリーは更に続ける。

「グリンピースのスープにローストポークのアップルソースがけ、それにスモークサーモンのサンドイッチをお出ししますよ。お嬢様みたいに本格的なフランス料理は作れませんが、私の田舎風のもそんなに悪くないですよ。御約束の三色アイスはデザートで、特製ココアを添えてお出しします」

「うわああ! すごいなあ」


 非常に嬉しげな期待感に満ちたその言葉を否定するのは、ロバートも気が引ける。


「私はミリーの作る物を食べて育ったの。味は保証できるわ」

「俺、絶対、ぜーったい食べたいな」


 普段料理を作っているマギーは夜会に行くのだし、夕食は父・侯爵の分と使用人たちの分、母の病人食しかない訳で……



「……では、一晩、お願いしようか」

「一晩じゃなくても、その、マナーと作法をある程度飲みこむまで居てくれても私は一向に構わないわ」


 さすがにそれは筋違いだろうと思ったので、一晩経ったら、明日の午後から引き取ることが出来るように準備を整えさせる事にする。

 マギーは「バージルが寂しくないように」ミリーとボブ夫妻も、一緒に夕食を食堂で食べるようにしたらしいが、明日からどうするかは悩むところだ。


「俺、明日からマギーさんと一緒に食べる」

「あ、そうね。そうしましょう」

「ならば、私が御給仕致しましょう」


 バージルとマギーと察しの良いラドストックは、勝手にそういう事に決めたらしい。ロバートとしては素直に追認するのが一番面倒が無さそうだ。


 そうと決まれば一旦解散となった。ロバートはラドストックを伴ってレイストン・ハウスに戻った。


「あのバージルと言う御子は……」

「僕の息子らしいんだ。亡くなった母親はカナダの森の奥に住んでいた狩りの名人で、僕の命の恩人だ」

「あの方を……どうお呼びすべきか、悩みますな。あるいは皆にどのように……」 

「庶子だからな。お前の良識とやらで判断すれば、間違いなかろう。皆にもそう言っておけば良い。本人が色々しゃべるだろうから、嫌でも皆に事情は知れてしまうだろうか」

「口止めを致しますか?」

「効果は無いだろう」

 

 マギーにも「笑った感じが似ている」だの「美味しいものを食べた時の表情がそっくり」だの言われてしまったぐらいだから、やはり自分とバージルは血のつながりが有るのだろうと思う。だが正直言って自分が「父ちゃん」だとは思えないのだ。だが、ロバートがバージルを拒絶した場合は「カナダに帰って、兄ちゃんの商売でも手伝うつもりだった」と、事もなげに言われたのが逆にショックでもあった。つまり、大してあてにも頼りにもされていなかったのだ。

 そうした主人の戸惑いも察しているらしいラドストックの側からこの件を話題にする事は、ロバートが説明しようとでもしない限り無いと思われる。


「さて、御自身も身支度をなさいませんと」


 言われるまですっかり忘れていたが、確かにそうすべきなのだ。 


「テイルコートの上下を黒で揃えるのが昨今の流行りですなあ。一昔前のような淡い色合いのものは確かに汚れが目立ちますし、肥満してきた方には厳しいものですが、そうは申しましても猫も杓子も真っ黒ばかりと言うのは、なんだかつまらない様な気がしますので……」


 ラドストックはミッドナイトブルーの布地を選んだようだ。


「夜の灯りの中では、本当の黒より黒く見えるな」

「黒も良くお似合いですが、この方がお顔映りが良いと存じます」


 靴下は極上の絹製の黒。靴もエナメルの黒。ステッキも黒檀だ。反対にシャツとタイ、サスペンダー、皮手袋は真っ白だ。そして懐中時計はこの場合銀色が好ましい。プラチナのボディで文字盤にダイヤをあしらった物ならふさわしいだろう。ロバートの祖父や父の若いころは、貴族の男の服は様々な色が氾濫し、女物と比べても負けていない程華やかだった。それが近頃は男の装いは色数を抑える方が洗練されている、と言う感覚が行きわたりつつある。 


「馬車は四頭立てを御用意させました。御出席なさるのは厳選された方ばかりのようですから、格式も大切かと存じまして」


 大きな催しではないとアフトン公爵は言ったが、客は皆、何がしかの分野での一流の人物で、この国の運命を左右しそうな優れた官吏・軍人・学者なども含まれる。あの赤毛の青年弁護士も居るのではないかと思われた。何しろ彼は公爵が「身内にしても良いと思う」人物らしいから。招待客の中の数名の大貴族・王族は、本人か子や孫が、そうした有能な人材の場合ばかりのようだ。あらかじめ使用人同士の伝手で招待客のリストを入手しているから、ほぼ間違い無いだろう。


「庭伝いに突っ切って歩いた方が、四頭立て馬車で公道を走るより早そうだが、そうもいかんのだな」

「若旦那様がおっしゃると、冗談には聞こえませんな」

「行きはともかく、帰りはそうやって歩いても良さそうだって気がしないか? 酔い覚ましになるし」

「ちゃんと馬車でお戻りください」

「わかった、わかった。ちゃんとそうする。でもな、四頭立てじゃなくちゃいけないのは王族の方々ぐらいじゃないか? 僕なんて一介の貴族なんだから、二頭立てだって十分だと思うけどな」

「はあ」

「でもまあ、いいさ。お前がそうすべきだって思うなら、その方が無難なんだろう」


 ロバートを招待する側は、当然ロバートの爵位に対する期待感も有るはずなのだから、それに配慮しなければいけない……と言うような事をラドストックは考えたのだろう。ましてや末娘の社交界デビューのきっかけづくりの催しなのだし、格式に対する配慮は普段の夜会や食事会より必要、そういった所か。


「マギーもドレスアップ出来た頃かな?」


 一応、約束通りの時間にマギーを迎えに行く事にする。迎えに行く事を自然に申し出ることが出来て、それを当然のように受けて貰えたのだ。「一歩前進だ」とロバートは感じていた。

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