イエス命名の日に・1
結局ロバートは、マギーの最初の計画と夜会への参加の両方をこなす事にした。一月一日にきちんと教会に行くと言うと、ラドストックに意外だと言う顔をされたが、行く先が貧しい者が多く住むテムズ流域の教会だと聞くと、今度は顔をしかめられてしまった。
「あの方の所為ですか? やはり御身分にふさわしい場所の教会になさるべきではありますまいか?」
「そう言う考えは、善きキリスト教徒としては、どうかと思うぞ」
ラドストックに下町であまり浮かない恰好を頼むと、これが結構大変であったらしい。シルクハットではなくて、さりとて下品でもない帽子をどうにか探したようだ。乗馬の際に低い木の枝から頭部を保護するためのものらしく、堅く加工したフェルト製で黒く、被り心地も良い。コートはグレーで飾りも無くボタンが見えない比翼仕立てのさりげないもので、ロバートは大いに気に入った。
ラドストックは本当は襟にビロードを掛けたダブル前のコートの方が、ロバートの顔に良く映ると考えていたようなのだ。だが、あくまで地味にという主の希望に従った結果、そうなったのだった。
「お似合いですが、その……伯爵様と言うよりは、羽振りの良い実業家のように見えなくもないのが、少々気に入りません」
「実際そうなんだから、良いじゃないか」
ロバートが最近はじめたノルウェーから輸入した氷の販売は順調だったし、出資したスコットランドの醸造業も上手い具合に行っている。これで今夜、マギーとの仲が一層進展すれば、言う事無しのはずだった。
「新しき年の始まりは主イエスの歩みがわたしたち人間の歴史に組み込まれた日であり、十字架への道を歩み始められた日です」
そんな言葉で始まる牧師の話に特にロバートは感銘も受けなかったが、港湾労働者とその家族が多く住む地域の教会の温かい雰囲気にはある種の家族的なものが有って「皆で一緒に新しい年をより良いものとしよう」というような感覚が、割合と素直に湧いてくる。それにしても、いつもよりはかなりましとはいえ、テムズからの悪臭はかなりのものだ。だが、風向きによっては案外平気であったりするので、冬の冷たい風も一種の神の恵と言えそうだった。
一月一日は主イエス命名の日にあたる。人として生まれたイエスが割礼を受け命名された日であるとされるが、割礼は今ではユダヤ人やイスラム教徒の習俗であって、キリスト教徒にはなじみがないので、神学上は色々な論争を巻き起こした話題のようだ。それでも、確かに女性が同席する場で割礼の話は不適切という認識が有るようで、ロバートは日曜日の教会で割礼に関する話を聞いた記憶が無い。逆に男ばかりの席や、社交クラブなんかでの神学論争では、かなり話題になるのだが。
さして印象には残らないが、ともかくも穏やかな雰囲気の内に礼拝はおわった。教区の住民はこのモサッとした純朴な風貌の牧師に、愛着を抱いているようで、別れの挨拶も気持ちが籠っていると感じられる。
信者たちが挨拶を一人一人終わらせて出て行き、最後に残ったマギーが旧知の仲の牧師との挨拶を終えたらロバートも馬車を回させて、マギーの希望通りウナギのパイの店に寄ろうと考えていた矢先の事だった。
牧師は一人の少年を手招きして呼び寄せると、ロバートに向って声をひそめて驚くべき話を始めた。
「この少年はカナダのオレゴン・カントリーの森の中で生まれ育った子でして、母親はかの地では女傑として知られた人物ですが昨年病死しました。御存知ですよね? その女性を」
「はあ。ルイーズ・メルダという人なら、命の恩人ですが」
「この子はその女性が産んだ……あなたの御子息だという事なのですが……今は父親違いの兄の知人の家に厄介になっております」
実に驚いた。だが、マギーが全く動じないのがロバートには余計にショックだった。何とまあ、少年に向って優しい調子で「大変だったわねえ」などと話しかけているではないか。勝手に二人の話が弾み、マギーは勝手に少年の「お友達」になってしまったようだ。いや、本当にこの少年が自分の息子なら、有り難いと感謝しなくてはいけないのだろうが……
「おふくろさんが一応そう言っていただけで、あんたが本当に俺のおやじさんかどうかなんて、俺には分からないけどさ」
十二歳だと言うその少年が、妙に大人びた表情でそう言ったのもショックで……貧民の救済活動に熱心な教区牧師と、その牧師を尊敬しているらしいマギーの手前「記憶にない」とか「信じられない」などと言えようはずもない。ともかくも今まで引き取って面倒を見てくれていたと言う片目のつぶれた中年男に、礼金として、今の持ち合わせから即座に二十五ポンド支払った。
「そんな金目当てで……」
とは一応言った物の、片目の男の生活は困窮していたようだから、ほっとしたのだろう。ロバートにペコペコ頭を下げ、少年の頭を撫でると、その場を離れて行ったのだった。これからどうしたものかとロバートは途方に暮れたが、マギーは少年と手を繋ぎ、気が付くと馬車に乗って一緒にテムズ河にほど近い店で、こうして三人一緒にウナギのパイを食べて居ると言う訳だ。
確かにマギーが言っていたように、真冬の休日のテムズ河の悪臭は、いつもよりずっと穏やかだった。おまけに良い具合に風が吹いてくれて、店の中で飲み食いする分には、ほとんど忘れられる程度になっている。それにしても予想外の大番狂わせに、ロバートは頭を抱えたい気分になった。
ロバートと差し向かいでマギーがウナギのパイを貴婦人らしい完璧な作法で食べて居るのは良いとして、隣に黒い髪がボサボサで薄汚れた少年が座っていて、盛大な咀嚼音と啜り込む音を立てて食べて居るのがどうにも信じられ無い。ましてや緑色の「リカー」と店の主が呼ぶ緑色の酸味のあるソースを撥ねとばし、それが顔についたと言って、マギーが綺麗なハンカチを出して優しく拭ってやるのだ。それもまた、信じられない。
「へー、マギーさんは、学校の先生になる勉強もしたんだ」
「そうね。だから家が左前になって食べていけなくなったら、どこかで教師でもやろうかしら」
アフトン公爵家が左前になる時は、この大英帝国が破産する時だとロバートは思ったが、黙っていた。
「俺のおふくろさんは、女も学問できた方がいいって言ってたし、大学も行けるんなら行った方がいいって言ったんだけどさ、コレットのオヤジさんは違う考えみたいで、フランスに連れて帰ると、どっかの女子修道院に入れちまったらしい」
「バージルのお母様の噂は私も聞いた事が有るけれど、バージルの兄弟は全部で何人なの?」
確かに一種の女傑で腕利きの猟師で大地主だったから、アメリカ合衆国の北半分の人間なら、名前ぐらいは知っていただろうし、アメリカの大学で学んだマギーがその名を知っていても不思議ではない。
「俺も良く知らねえんだ。十人以上はいて、全部親父はバラバラ。それぞれの親父に引き取られて、俺が会った事も無い兄ちゃんや姉ちゃんもいるんだ。俺が一緒に暮らしていたのは兄貴が二人で姉貴が一人。それがコレット姉ちゃんだけど、姉ちゃんとは俺が七歳の時に別れたきりで、会ってないや。幾度か手紙は貰ったけどさ。姉ちゃんのオヤジさんは一応フランスの貴族なんだとさ」
少年はバージル・メルダと言うらしい。しかも先ほど教区の牧師に言われた様に持っていた洗礼証明書が本物で、言っている事に嘘偽りがなければ、ロバートの息子と言う事になる。牧師は少年の言葉が真実だと信じているようだった。
カナダでロバートが毛皮の仕事を手掛け始めた頃、腕利きの猟師でなおかつ大地主でもあるルイーズ・メルダと冬を共に過ごした年が有った。当時既にロバートの親と言っても良い年齢になっていたが、大層大柄で、野山を駆け回るせいか頑健な体つきの女性で、森で迷った末に凍死寸前だったロバートを一人で家に連れ帰り、介抱してくれたようなのだ。ルイーズは既に「一ダース以上の子供」を産んでいたが、全ての子供の父親が違い、一度も結婚した経験が無かった。
ルイーズ自身は先住民の有力者の女性とフランス人のメルダという男との間に生まれた婚外子だが、ルイーズの母の部族では、女は気に入った男の子供を産むもので、嫡子とか庶子とか言う概念自体存在しないらしい。また、そうした行為をふしだらとも思わないらしい。子が生まれたら母親が育て、無理な場合は母親の兄弟なり姉妹なりが引き取るものらしい。
「その年に出合った、一番気に入った男と冬を過ごす」
それが「女傑」とか「熊殺し」とか言われた彼女にとって、当たり前の暮らし方だったようなのだ。
「あんたは綺麗で、賢くて若い。おまけに良い匂いがするね」
そんな事を言っていきなりベッドに潜り込んできた時は驚いたが、ルイーズの体は暖かかったし、匂いも悪くなかった。決して美人では無かったが、暗く寒い冬を温かく快適に過ごすには悪くない相手だった。すぐに男女の仲になったが、当時ルイーズは「もう、そろそろ子供も出来にくい年だから、たぶん無理」だなどと言っていた。だが、子供は出来たし、どうやら生まれた。そう言う事らしいのだ。ロバートは正直な話、ルイーズの事はすっかり忘れていたし、子供が出来たなんて、考えもしなかった。だが、その事をマギーに知られたら軽蔑されそうだと思った。
ルイーズはどう言う訳か、一度もロバートにその後知らせを寄越さなかった。
どうやら後からロバートが「ややこしい家の人間」だと知って、敢えて知らせなかったらしいが、その女傑のルイーズは去年流行病であっけなく亡くなったらしい。生き残ったのは、このバージルと父親の違う兄二人だそうだ。長兄は妻の実家の雑貨店の仕事をやる事になり、バージルを引き取ると言ったようなのだが……
「二番目の兄ちゃんが、実のオヤジの顔を見て、話ぐらいするべきだって言って、俺もそれもそうだって思ってさ」
船員になった次兄が、商船の船長を引退したはずの自分の実の父親に話をつけてくれていた筈なのだが、どこでどうなったか、その次兄の父親は破産して行方不明で、カナダで働いていた親戚がロンドン市内にいると言う話を知って転がり込んだのが、今、厄介になっている家らしい。昔、カナダでルイーズに世話になったという家の主人は、貧しいながらも面倒を見てくれたようだ。肌身離さず持っていたと言うカナダの国教会の教会で発行された洗礼証明書は、偽物では無いようだった。それにこの十二歳だと言う少年が嘘をついているとも思えない。
それにしても、よくもまあ、性質の悪い人さらいにやられたりもせず、十二歳の山奥で育った少年がここまで無事に来たものだと、その点に関してはロバートも素直に感心した。
「ミスター・ハモンドにはあんたが父ちゃんでも、貴族には色々都合が有って、俺を子供とは認められないかもしれないって言われたし、牧師さんも内緒にしておいた方が身のためかも知れないって言ってたんだけどな。あんたがこんな所に来るから、牧師さんも考えを変えたみたいでさ」
ミスター・ハモンドと言うのがバージルを寝泊まりさせてくれた人物だ。かつてカナダでハドソン湾会社と北西会社という二つの毛皮交易会社が起こした戦闘に巻きこまれて負傷し、以来片目が見えないらしい。
「でもさ二十五ポンドもお礼を出してくれたから、ミスター・ハモンドもお医者さんを頼める。良かった」
そう言ってニッコリ笑う顔は、悪くないとロバートは思った。だが、息子だとはどうも思えない。
「ウナギもなかなかに美味しくなるのね。このソース、もっとかける?」
マギーは歳の離れた弟に接する姉のような口調で、バージルと話す。
「うん。もうちょっとかけて。ほんと、美味いね。噂には聞いてたんだけどさ、今まで食べに来る事が出来なかったんだ。これからは好きな時に食べられるかな」
「いや、そうはいかないな。うちの邸に引き取ることになるだろうから、色々やるべき事が有る」
ロバートは少年に仕込まなければいけないことが、かなりありそうだと見て取った。
「また、私が連れて来てあげるわ。ね。今日はまず、バージルのお洋服を買わないと」
「まず風呂に入らないと、いかんだろう」
何だかロバートの声は尖ってきてしまう。自業自得とはいえ、とんでもない大番狂わせに、つい苛立ってしまうのだ。
「じゃあ、うちに寄って行く? あなたのお父様のお邸は人が多くて色々うるさいから……こざっぱりしてから行きましょう」
「良いの?」
自然と少年はロバートとマギーの顔色を交互に見て、小声になった。しかもロバートの不機嫌な理由も薄々だろうが察してしまったようなのが気に障る。
「ええ。小さな邸だけれど、お風呂だけは最新式なのよ。すぐに入れるわ」
少年は上機嫌の猟師がやるように、ヒューッと口笛を吹いた。ラドストックが見たら、卒倒するだろうか?
夜会が始まるのは午後六時だが、それまでの間、てんやわんやの大騒ぎになりそうだと、ロバートはため息を漏らした。