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マギーの事情・3

「マギー、おはよう。自分の邸に何か必要なものを取りに戻ったの?」


 セルビー伯爵ロバート・ボーダナムが、その身分や社会的な地位からすると不釣り合いなほどに、至って気さくな人柄なのは承知していたが、まだ朝の九時にもならない内にマギーの邸の前で声をかけて来るなんて、マギーは思いも寄らなかった。見れば供もいないし、馬車も馬も無い。マギー同様、キーネス侯爵家の邸宅レイストン・ハウスの庭を突っ切り、小さな門から、道の向い側になるマギーのこの小ぶりな邸の前に出たらしい。昨夜、確かにマギーは「いつでもお気が向いた時に私の家に御訪問下さい」とは言ったが……

 

「おはようございます。ええ。料理の隠し味用のハーブをあの小さな温室に取りに来ました。レイストン・ハウスの大きな温室には珍しい果物や花が有りますが、ハーブは殆ど無いのです」

「なるほどね。このルートは悪くないと思うんだが、いつからここを歩くようになったの?」


 レイストン・ハウスとマギーの自宅との位置関係から、正門から出て道路伝いに馬車を使うより実は早いという事にロバートも気が付いたようだ。そしてその方が人目につかず、好都合だとも……


「私が気が付いたのはクリスマスの後ですから、まだそう何日もは経っていませんわ」


 道筋は建物の影になっていたりする場所が多いので、マギーも気付くのに時間がかかった。


「用事はすぐ済むの?」

「ええ。戻ったらやり残しの仕事を片付けますから。お入りになります?」


 誰かに見つかると外聞が宜しくない。自分だけの事なら気にならないのだが、ロバートのような名門貴族の跡取りが道端で立って、朝から女と立ち話なんて……やはりまずいだろう。


「自分の邸側の庭の小さな門で待っているよ。チョッと話したい事が有るし」


 マギーの「花婿候補に立候補した」というクリスマスの折の発言を撤回するつもりは無い……そう昨夜も聞かされてはいるが、マギーはまだ、返事が出来ないでいる。


 昨日ロバートとマギーは一緒にマギーの祖父であるアフトン公爵に会いに行ったが、祖父はいつもの飄々とした調子で「誰と結婚しても、あるいは全くしなくても、完全にマギーの自由にしたら良いと思うよ」と言い、マギーにとっては年下の叔母にあたる十六歳になったエセルと、青年弁護士ジェフェリー・グレイストーンを引き合わせたのだった。


「マギーはやりたい事も有ってすぐに結婚というわけにも行かないだろうが、ロバート君はすぐにも花嫁が必要だ」と言う祖父の言葉は、全くその通りなのだ。マギーはようやく自分のやりたい事が見つかったのだと感じていたし、その為には結婚しない方が都合は良さそうだった。


 ロバートは古い名門貴族の相続人なのだから、妻には若くて美しくて健康な「レディ」が望ましい。ロバートは既に三十五歳だが、名家の人間らしい典雅な趣と野性的な豪胆さが絶妙に一体化した魅力的な男性だ。身分・家柄や容姿が魅力的なだけではない。祖父が認める優れた実業家でもある。彼を自分の婿にしたい年配の貴婦人は数えきれないほどらしいが、当然と言えば当然だった。

 だからマギーとしては、花婿候補は自分には必要ないときっぱりロバートに言えば良いはずなのだが、そうも出来ずにいるのだった。宙ぶらりんはよろしくないとは、思うのだが……


 今朝、マギーは何を着ようか迷って、深い紺色で飾りの少ないこのデイドレスを選んだ。自分の顔色に良く映り、仕立ても良い。裾さばきがしやすいし、スカートのボリュームも大げさではないが、ちゃんと流行は取り入れている。着心地に配慮した肌触りの良い綿素材を身頃の裏打ちに使い、時計を入れておくシームポケットもマギーの希望通りだ。レースもブレードも飾りボタンも無いが、目の肥えた人物なら、このドレスが正確な採寸を元に上質の素材を熟練の縫い手が仕上げた物だとわかるだろう。

 この新しいドレスを着ようと決めた時に、どこでロバートに出くわすとも限らない、そう思わなかったと言えば、嘘になる。


「あっさりしているけれど、良い色合いで、とても似合うね、そのドレス」


 ロバートは新調したこのドレスをすかさず褒めた。

 そうしたポイントを外さないのはさすがだと思うが、どの女性の場合でも、褒めるべきポイントをちゃんと褒めるのだろうなとマギーは思った。

 昨日、初めてエセルと引きあわされた時、ロバートはちゃんと抜かりなくエセルのドレスにあしらわれた極上のレースを褒め、十六歳のエセルの瑞々しい美しさに大いに気持ちを動かされたようであったが……

 夕暮れの温室と馬車の中での親密な行為と「僕は焼き餅焼きらしいんだ」という言葉は、額面通りに受け取って良いものだろうか? 祖父は彼を信頼できる人物だと見なしているのは確かだが……幾つかの過去の華やかな噂も有る。それに何より、自分は「結婚」をしたいのかどうか、マギーはわからない。結婚すれば、家にも夫にも縛られるはずで、それはマギーの望むものでは無いと思ってきたからだ。


 摘んだハーブを手籠に入れて、キーネス侯爵邸の庭に続く小さな門を再びくぐると、ロバートはすぐにマギーのすぐ隣に近づいて来て、小声で話しはじめた。


「ねえ、君の御祖父様から新年の夜会にお招きいただいたけれど、マギーも出席するよね?」

「……エセルの社交界デビューを控えての、準備みたいなものだと母から聞いていますから、どうしようか考えていましたが」

「そうした催しは身内も全員揃う物じゃないかとおもうが……君は出席も欠席も自由なの?」

「ええ。エセルには実の母親もいますし、付き添い役を務める私の母もいます。母は交際の広い人で、催し物を盛り上げるのに協力してくれる友人は幾人もいますし、それに出席するエセルの学友たちも幾人かおりますから、私の出る幕は無いですもの。母には『行かない』と言ってしまいました」


 マギーは父方の実家のパン工房の気軽で陽気な新年のお茶会に少し顔を出して、その地区で牧師をやっている知人の所で新年の礼拝を受け、皆と讃美歌を歌うのも良いと考えていたのだ。同じ教区の下町らしいウナギのパイが名物の店も一月一日は営業時間は短いらしいが、日暮れ前までならやっているらしい。テムズの川筋で働く人々にとっては、休日のごちそうらしいのだ。普段は凄まじいテムズ河の悪臭も、クリスマスの後しばらくは随分マシとも聞いたので、ウナギ料理を食べに行くなら、今どきしかないと思ったのだ。その予定について話をすると、ロバートは非常に残念そうな顔をした。


「まだ、変更可能だろう? 君のイブニングドレス姿が見られると楽しみにしていたのにな。やっぱり行こうよ、一緒に。ウナギは来週、僕が食べに連れて行くよ。ね? やっぱりマギーは新年会に出席することになりましたって、僕の方からアフトン公爵とレディ・バーバラにお伝えしておこう。それで構わないだろう?」

 

 タイミングよくたたみかけられると、マギーは頷かざるを得なかった。ロバートは去り際に、手を取って、キスをした。


「また、午後にね」


 どうやら、午後のマギーの自由時間にこの秘密の近道を使って、マギーの邸にまた顔を出すつもりらしい。マギーは使用人用の入り口の方へ向い、ロバートは正面玄関の方に向ったのだが、角を曲がるときにマギーが自分の姿を見ている事に気が付くと、軽く帽子を持ち上げて、ステッキを振った。全く貴族らしくない振る舞いだが、下品ではないし、陽気で楽しいのは彼の人柄だろう。


「なんだか……私……キスを待っているみたいだわ」


 つい先ほどの手の指に残るロバートの唇の感触は不快ではなかった。いや、それは正直な感想では無い。昨日のようなキスを、どこかで望んでいたから、少しがっかりした……その事に思い至って、マギーは自分でも驚いてしまった。


「淫乱になってしまったと、懺悔するべきなのかしら」


 だが、そんな罪悪感は、自分の中にはどこにも存在しないのだ。悪い事だとは、どうしても思えない。

 マギーは昨日届いた友人の手紙を思い返した。彼女は今、ヨーロッパで看護や医学を学んでいて、いずれはイギリス国内で貧しい人々のために活動したいと言う志を持っている。今は、クリスマスの休暇のために、一時的に帰国していて、手紙は地方の地主である彼女の父親の邸からだった。すぐれた知性と立派な信仰の持ち主だが……異性に対する感覚は、ずいぶんマギーとは違っているかもしれない。


「それなりに由緒も格式も有る家柄の当主である方に求婚されましたが、やはりお断りしようと思います。私が父から受けている五百ポンドほどの年金を目当てになさっているのだと言う、従姉の言葉が本当なのかそうではないのか私にはわかりません。母の言うように女は望まれて嫁ぐ方が幸せなのかもしれません。でも、どちらが正しくても間違っていても、家庭の中に留まるのは私の使命に反する、そう信じております。ですから、お断りする以外の選択肢は、私には有り得ません」


 この文章を読んだとき、自分が祖父から受けている年金の額が五千ポンドだと打ち明けていなくて、良かったと思った。だが、考えてみれば、料理人の給金は年に五十から七十ポンド程度が相場で、マギーが受けている百ポンドというのはそれでも破格なのだ。


「確かに……五百ポンドの年金でも、ちょっとしたものなのかな」


 だが、ここには書かれていないが、恐らく求婚した男性があまり魅力的でもハンサムでもないのではなかろうかとマギーは思った。ロバートのような魅力的な男性だったら、もっと違う反応になったかもしれないとも思ったが……それでも、彼女なら結婚を断るのだろうとも思った。


「信仰心のせいかもね」


 彼女はある日「神の呼びかけ」を感じ取ったのだと言う。その時、自分の使命を確信したのだそうだ。かの女は清らかな修道女のような生活環境を好み、食べ物がおいしいかどうかは、あまり重視しなかった。不味いスープよりも美味しいスープの方が病人の体に良い、その程度の関心しかないのだ。自分は毎日茹でただけの野菜や焼いただけの肉、魚という単調な食生活でも気にならないようだった。


「贅沢な御馳走を毎日食べられる人間など、ほんの一握りです」


 彼女の文章からすると、マギーのように食事が美味いかまずいかを「気にしすぎる」のは「はしたない」、あるいは「享楽的」と感じているらしい。マギーが彼女の人柄を信頼し敬意を払いながらも、共同生活など到底できないと思ったのは、あの食生活の所為が大きいのだが……それは言わない方が良いのだろう。


 彼女もマギーも男女の教育の機会均等や、男女同権と言った思想に共感は覚えているし、何かしたいと言う気持ちは大いに持っている。だが、いわゆる「革命的な活動家」たちの不倫や駆け落ちをものともしない様な感覚にはついていけないのだ。あるいは投石や破壊活動も辞さない運動家とも一緒に行動は出来ない。


 求めている物は似通っているが、マギーは手紙を寄越した彼女と同じ道を進む事は難しいと感じていた。何しろ神に語りかけられた経験など無かったし、まずい食事を毎日我慢するのはやはり耐え難い。そして……


「ロバート……」


 自分は午後を、そして彼のキスを待ちわびている。これは「魂の堕落」だろうか? 「忌むべき肉欲」だろうか? それとも……


「恐れ入りますホワイト夫人、フォンの仕込みですが、御確認下さい」


 呼びに来たキッチンメイドの声で、マギーは我に返ったのだった。

二行目、直しました!

すみませんでした~

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