困惑・4
「うわああ、何、このモジャッとしたものは? こんなものが水の中にいるの?」
美少女は顕微鏡をのぞき込んで、ほとんど悲鳴に近い声を上げている。
ロバートも声こそ上げなかったが、水道の水にこんな生き物たちがいて、驚いた。確かに何の処理もしないでテムズ河の水を上水道で配水するのは、問題が多いだろう。この辺り一帯の邸宅は敷地内に井戸が有る場合も多く、ロバートの住むレイストン・ハウスもアフトン公爵のロンドンの住いであるセイフライド・ハウスも良質の井戸水を飲食や洗濯・入浴に使っている。
マギーの邸は小ぶりだが、大きな窓が幾つも有り、部屋は明るい。この国では窓税を負担できない貧困層は暗く風通しの悪い家に住んでいる事を考えれば、なかなかに贅沢だと言える。壁も床も白が基調で清潔で簡素な感じだ。顕微鏡が置かれている部屋は書籍類が壁に作りつけた棚を埋め尽くし、博物学者の研究室と言った感じだ。絵もロココ風の置物なども全く無い。それでも風変わりな貝殻やら標本やらに交じって、色鮮やかな中国や日本の陶磁器が置かれていたり、机の上に薔薇が一輪だけ生けられていたりするのを見ると、やはり部屋の主は女性なのだと感じる。
それにしても、マギーの気持ちはロバートには読み取れない。エセルにも赤毛の弁護士にも終始平静な穏やかな態度でいる。 教師に質問する女学生そのもののエセルの言葉には明快にテキパキ答え、貴重なドイツ語の文献を赤毛の弁護士にはあっさり貸してやっていた。そのくせロバートが庭に出ても、放っている。これが通常の令嬢ならどうだろう? 相手の家の格やら資産やら収入やらで、態度も言葉も変える。従ってこの場合、一番身分が高く、一番資産が有り、一番年かさの自分はもっと鄭重に特別に扱って貰ってしかるべきでは無いだろうか? 一応自分は彼女の「主人」なのだし……と、そこまで考えて自分がこんなにもせせこましいケチ臭い卑しい考えをする男だったかと気が付き、情けなくなり、愕然とした。
冬の庭には花らしい花は無いが、小さな温室が有って、中には多少の花を育てているようだ。いま時分のロンドンでは午後四時になれば日は落ちていて、温室の中身ももうはっきり分からない。次第に冷え込みも厳しくなってきた。
「その温室に、ちょっと使えそうなハーブが幾つかありますの。御覧になりますか?」
美少女と弁護士は日没前にこの小さな邸を出たようだ。
メガネこそ掛けていないが、マギーはいつもの料理人の格好に逆戻りしている。ガス灯越しに見ると舞踏会の後のシンデレラといった風情で、何を着てもマギーは綺麗だと改めて思ったが、やはり美しいしゃれたドレス姿でいてくれた方が嬉しいと感じてしまう。だが、それを口にするとマギーは不機嫌になるだろう。それはロバートにははっきり分かっていた。口にしない方が良い事は黙っている程度には、彼は十分に大人なのだ。
「君の大事なハーブなの?」
「ええ。料理を特別な味わいに仕上げる隠し味ですわ。これだけ摘んだら、すぐお邸に戻りましょう」
手にランプを下げたマギーと一緒に、ちょうど箱馬車ほどの大きさの温室に入った。中は春のような温かさだ。どういった仕組みなのかわからないが、これなら年中新鮮なハーブが手に入るだろう。暗く暖かく狭い空間に二人きりでいると、ロバートは奇妙な親密感に包まれたと感じた。本当は甘い髪の香りを存分に吸い込んで思い切り抱きしめたかったが、作業を中断させるとマギーは怒るだろう。それにそうした行為を彼女はロバートに許すと言う意思表示はしていないのだ。手を延ばせばすぐに抱きしめられるのに……
マギーは手に提げた籠に幾つかのハーブを折り取っていたが「これで最後です」と言った直後に、痛っ! と声を上げた。
「棘でも刺さった?」
「この葉の縁でちょっと切っただけです」
「大丈夫かい?」
気が付くとロバートはマギーの手を取り、傷ついた指を口に含んでいた。なぜそんな事をしたのか、ロバートにはどうもうまい理性的な説明など出来ないが「そうしたかった」のだ。
「ロ、ロバート」
うわずった声に甘いものが含まれている。ロバートは名を呼ばれた事を喜んだ。これ幸いと自分のしたい事をする事にした。マギーの髪や額や目蓋にキスを落とすと、形の整った唇が少し開き、甘い吐息が漏れた。ロバートは頭を下げて自分の唇をマギーの唇に合わせ、感覚は鋭敏であるようなのにどこか不慣れな彼女を燃え上がらせるように、臆病な舌と自分の舌を絡ませた。自分の雄としての力にマギーの本能が応じ始めたと思われたところで、ロバートは唇を放した。背中に回していた手を解くと、マギーが足元に置いていた手つきの籠をロバートは腕から下げランプを持つと、空いた方の手でマギーの手を握った。
「さあ、行こうか。すっかり暗くなってしまった」
門前に待たせていたマギーの邸の二頭だて馬車に、急いで二人は乗った。馬車に乗ってもロバートは握った手を放そうとはしなかった。
「あの、ロバート……」
「邸に着いたら、いつも通りにする……僕が嫌いなら、止めるけど」
「まあ、そんな」
「なら、構わないね。ほんの短い時間だから」
強引さと積極性・熱意は紙一重だ。男が同じ行動を取っても相手の女がどう受け止めるかで、事の成り行きは違ってくる。考えてもわからない場合は、自分の勘に頼るしか無いと思い定めているロバートには、迷いは無い。当然ながら「嫌いではない」と「愛している」の間には大きな違いが有る。だが男女の仲は、きっかけ一つで大きく先にも進むし、一挙に破綻もする。幾つかの苦い体験を踏まえて、ロバートは自分なりの経験則を持っていた。だが、それが果たして結婚を大して望んでいないマギーのような女にどの程度当てはまるのかについては、あまり自信は無かった。
アフトン公爵がマギーに与えた箱馬車は、以前から幾度かロバートが塀越しに見ていたもので、ロバートが普段使う物に負けず劣らず静かに走り、座席のクッションも申し分なかった。
「ねえ。この馬車に以前誰かと一緒に乗って、レイストン・ハウスに戻って来た事があっただろう。僕はこっそり自分の部屋から様子を見ていたんだよ。あれは明らかに男だったし、君のお祖父様じゃないのは確かだ」
「気になりますの?」
「うん。とても。僕は焼き餅焼きらしいんだ。今まで自覚は無かったが」
マギーは軽く声を立てて笑った。
「弟ですわ」
「弁護士になった方?」
「香港総督のもとで務めている弟が、今年は二年ぶりに休暇を貰って帰国していて、弁護士の弟の住いに寝泊まりしていますの。中国人の従僕を連れて帰って来ていまして、その従僕に中国風の料理について教えて貰いました。その時の事では無いでしょうか?」
何でもその中国人の青年は本来は他人に使われるような身分の人間ではないのだが、何か深刻な家庭の事情が有って、香港まで流れて来たらしい。中国語がわかるマギーの弟が「綺麗な北京式の発音」をするその青年を引き取り、ほとぼりの冷めるまで従僕とする事になったらしい。
「彼は小柄ですけど挙措動作が優雅で、なかなか英語も上手ですし、ハンサムですの。贅沢な中国式の料理について色々な事を知ってますのよ」
「好きなタイプなの?」
「故郷に妻子がいるようですわ。奥様は実家に身を寄せているんですって」
「残念だったね……いや、かえって危ないな」
「まあ、ロバートったら……」
ロバートが抱き寄せると、マギーは素直に体を預けた。手でウェストから背中を摩り上げ、胸の膨らみに触れその感触を楽しんだ。マギーは低いうめき声をあげた。ロバートはその暖かく湿った唇の間に、すかさず舌を差し入れた。数少ないレッスンの間にマギーはそれなりに情熱的に応じる方法を自然に修得したようだった。深いキスを続けながら、料理人に似つかわしい無骨なドレスの立て襟の間からのぞく白い肌に、自分の印をつけたいという欲求をロバートはやっとの思いで押さえつけた。ロバートが自分の舌とマギーの舌を絡め、送り込んだ唾液をマギーが喉を鳴らして飲みこんだ瞬間、馬車は停止した。あの、ロバートの部屋から見下ろせる塀の外に到着したのだ。
「今夜は何を食べさせてくれるの?」
「海老と野菜のテリーヌと栗のクリームスープではじめて、このハーブを隠し味に使ったソースで仕上げる鮭と、中国風に味付けした子羊、後は中国風の野菜料理にプディングですわ」
「楽しみにしているよ。じゃあ、またね」
恭しくマギーの手を取ってキスをした。レディの手にしては荒れていたが、それを口にするのはやめた。彼女は彼女の手を荒れさせた台所での作業の末に生み出されるものに、誇りを持っているようだし、実際素晴らしく美味いのだから。
自室に戻るとラドストックが、今日の首尾について聞きたそうにしたが、マギーの話はせず、サー・ベンジャミンと良好な雰囲気で話が出来た事だけ話題にした。その後父に「良いベルモットを貰ったから一緒に飲もう」と誘われて、食堂の側の小部屋で今日の出来事について事実のみを搔い摘んで話した。
「口の奢ったイタリア男が持ってきた酒なのでな。行けるのではないかと思うのだ」
父は美術愛好家というか、骨董趣味の度が過ぎて、家の財政を大いに傾けたのでは有ったが、父のすごい所は出来の悪い贋作などを掴まされたりしておらず、買い入れた物はロバートからみれば馬鹿馬鹿しいほど高価ではあったが、そのコレクションは好事家の間では高く評価されるような逸品ぞろいであったのだ。特に十五~六世紀のイタリア絵画の小品の連作が大層な傑作で有ったようで、大陸のコレクターに売った所、その代金で外国の銀行からの借り入れ分が精算できたほどだった。父の言うイタリア男は、美術品コレクターのイタリアの貴族で美味い食べ物と美味い酒に目がないと言う人物だ。
「マギーの料理の自慢をすると、ロバートが嫌がりそうだから黙っていたぞ」などとニヤニヤして言うのだ。
「だが、グレイストーンの所と上手い具合に話が出来たのは良かったな。私の亡き兄は……何というか、良くも悪くも貴族的な人だったからなあ。サー・ベンジャミンの言う事の方が理屈は通っているとは絶対認めんかったぞ。百姓の息子の言う事なぞ聞けるか! でおしまいなのさ。これもアフトン公爵にお前が認めて頂いているおかげだな。だが、どうするのだ。確かにお前も良い年だ。公爵のおっしゃるように早く花嫁を決めねばいかん。その、マギーは良くも悪くも『先進的』なようだから……何ならその、金髪の美少女で手を打つと言うのも悪くはないな。それとも何か? サー・ベンジャミンの息子が狙っているか? あの息子も腕利きではあるらしいが変人だと言うな……変わった者同士で、マギーとその息子が息が合うのかな? 昔風に身分とか爵位とか称号とか言う基準で行けば、サー・ベンジャミンの息子はマギーと、お前はその若いレディと一緒になる方が順当ではあるよな」
父の言うように、サー・ベンジャミンの息子と、同じくサーの称号を賜った人物の娘で有るマギーはぴったり身分的にかみ合う。サー・ベンジャミンの妻は由緒正しいジェントリ(地主階級・郷紳)の嫡出子であるから、その点でも評価は高いだろう。
父にも言われたが、アフトン公爵は自分とあの赤毛の若手弁護士を共に身内に迎え入れたいのだろう。どちらがマギーの夫になっても、あるいはエセルと結婚しても成り行きに任せるという事なのだろう。だが父に言われるまで気が付かなかった点が有った。
「サー・ベンジャミンも私も、愛妻家と言う所は共通している。貴族やら金持ちやらの家は、冷たい家庭が多いからな。そうした家に嫁げば、色々不愉快な目にもあうだろうし、姑とも上手くいかない可能性が高い。アフトン公爵は、恐らくそのあたりも考慮されたに違いないよ」
確かに父は「軽い浮気を二度ほど」したが、概ね母とは円満で、上流社会では珍しい愛妻家として知られていた。「美術品に金を使いすぎて、女遊びまで回らんかったまでの事だ」などと言うのは、父なりの照れ隠しなのだともロバートは思う。
「レディ・エセルは大した美人になるでしょうが……僕は迷いません」
「ふーん。結婚まで漕ぎ着けるだろうか? マギーは結婚の必要性を感じておらんのだろう? 一昔前なら断固実力行使、と言うのも悪くは無かったが……今なら下手すると犯罪者扱いだからなあ」
確かに、そのあたりの兼ね合いは実に難しい問題だ。
「うーん。腹に染みわたる様な良い香りが流れてくるな」
父の言葉に、意識が美味そうな料理の香りに向いた。するとその直後に、従僕が夕食の支度が整ったことを伝えに来たのだった。
「お前がマギーと一緒になれば、私は死ぬまでずっと美味い食事にありつけそうだな」
食い気につられる訳では無いが……確かにロバートもマギーの料理に心惹かれるのも確かなのだ。