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困惑・3

「サー・ベンジャミン・グレイストーンと御子息ミスター・ジェフェリー・グレイストーンがおいでになりました」


 そう従僕が言うと、現れたのは白髪の小柄な見るからに好々爺と言う感じの人物と、三十手前という感じの青年だ。王室顧問弁護士であり有能な事務弁護士でもあり、幾つもの貴族の領地の管理経営の仕事を請け負っているサー・ベンジャミンはロバートもこれまで一応面識が有ったが、ロバートの父方の伯父である先代のキーネス侯爵と深刻に揉めたことが有り、少々ばつが悪い部分も有って、親しく話した事は無い。昔のトラブルは明らかに先代キーネス侯爵に非が有るとロバートは思っているが……問題は息子の方だ。救貧法改正委員会か何かの活動を熱心にやっている弁護士で、ロバートよりは頭半分ほど背が低そうだが、役者かなんかでも食っていけそうな甘い美貌のくせに、人に向ける視線は厳しく、髪は燃える様に赤い。


「おやおや、親父さんまで来たのか。なんだい、例の飢饉に対する施策で話が有るのかな?」


 公爵が呼んだのは、赤毛の息子だけのつもりだったらしい。


「艶消しの干からびた爺はお呼びでは無いと存じましたが、私としてはお察しの件で是非新たにセルビー伯爵となられた方にお願いしたい事がございまして、御無礼を顧みず参上いたしました次第です」

「私はその件で先ほど自分の領地の差配人あてに、救援資金を送る手配をしました」


 ロバートはホッとした。サー・ベンジャミンの醸し出す穏やかな雰囲気のせいかもしれない。


「それはそれは……ちょうど良い折だったのかもしれませんな……実は」


 サー・ベンジャミンは現在管理を請け負っているアフトン公爵家と、離縁したレディ・ハリエットの産んだトマスが継承したリズモア侯爵家の所領、それにロバートが将来継承するキーネス侯爵領が接する一帯で深刻な小麦の不作が続いているのは、土壌に大きな問題が有るのが判明したと言う話だった。サー・ベンジャミンの指揮のもとで土壌改良事業を行う予定なのだと言う。


「サー・ベンジャミンは土地測量や土木・建築の専門家だけでなく、農業や植物学、微生物学と言った方面の専門家を雇用している。この人に任せておけば、そうひどい事にはならんと思っているよ」

「若いころは確かに色々行き届きませんでしたなあ。伯爵の亡き伯父上との事も、言葉を使う弁護士と言う仕事について居ながら、本当には言葉の重みが分かっていなかった所為です。何ともお恥ずかしい次第で。ですが、こうして次代のキーネス侯爵となられる方とお話で来て、実に有り難い事です。つきましてはその……土地改良事業のために……」


 様々な資材や人員をアフトン公爵領とリズモア侯爵領の間で行き来させるには、どうしてもキーネス侯爵領を通過する必要が有るらしい。無論ロバートはその件については即座に許可を出した。


「差し出がましいようですが……この事業に御一緒に参加なさいませんか?」 


 サー・ベンジャミンの言葉は物柔らかなのに、独特な迫力が有り、こんなに身近にいて誘いをかけられたら、とてもじゃないが逆らえないと思わせる所が有るのだった。


「確かに僕が個別にどこかに土地改良を依頼するより、万事割安でしょうね」

「そうそう、そうです。さすが伯爵は実業家でいらっしゃるだけに、御理解が早くて、助かります」

「改良事業の資金負担は、いかほどになりますか?」

「御料地分の測量図を作成するのにかかった実費と労働者たちの御領内での作業の日当分だけ御負担下されば、十分です。御参加頂いても、頂けなくても、測量技師やら農業の専門家やら基本的な資材やらは、どの道用意しなくてはならなかったのですから」

 

 提示された金額の凡そはロバートの予想よりはるかに割安だと思われた。正式な契約書の取り交わしの手配も、サー・ベンジャミンに任せる事にした。


「伯爵、やはりお目にかかって良かったです。これからも何かとお世話になるかもしれませんが、何卒よろしくお願い致します」


 サー・ベンジャミンはニコニコ穏やかな笑みを浮かべてそうロバートに言うと、公爵にも挨拶をして部屋を退出した。


「この年になって仕事に追われるというのも、痛しかゆしですな」


 どうやら弁護士事務所は大繁盛と言う所なのだろう。ロバートは今の総差配人を辞めさせて、サー・ベンジャミンに依頼したいと思った。


「お茶が冷めますわ」


 少々尖った感じの声に気が付くと、ピアノは止んでいて、金髪の美少女は御機嫌ななめだった。父親である公爵は「もう一度淹れ直して貰うか」と言うだけだ。マギーは赤毛の青年と熱心に衛生問題と微生物に関して語り合っており、ちょっとロバートは割りこめない雰囲気だった。どうやら共通の友人だか知人だかが、大陸の方に居るらしい。何やらおかしな具合になってきたとロバートは、ため息をつきたい気分になってきた。だが、目の前の美少女が不機嫌なのも無視はできない。


「モーツァルト、素敵でしたよ」

「あら、でも、お話に身を入れてらしたから、お耳を素通りでしたでしょう?」

「サー・ベンジャミンとのお話が和やかに出来たのは、軽やかなピアノのおかげかもしれません。立派な方だということは十分存じ上げていたんですが、先代キーネス侯爵との間にちょっとした行き違いが有ったようで、僕としては御挨拶だけでお話したくてもしにくいって所が有ったのですよ。助かりました」

「まあ、お上手ね」

「いえ、本当ですよ」


 公爵はフフフッと声を出して笑った。見え透いていただろうか。それでも美少女の機嫌が上向いたのは確かだった。


「伯爵様は優しい方ですのね」

「誰だってあなたのような可愛い方には、優しくしますよ」

「まあ、ありがとうございます」


 するとそこへ、赤毛の青年の「それは本当ですか!」という半ば叫ぶような声が響いた。


「ええ。確実ですわ。テムズ河の水質汚濁は酷くなっていますから、あの状態のまま給水するなんて、危険極まりないと思います。あの不衛生な水から伝染する病気が発生する可能性は高いのではないかしら」

「それにしたって、顕微鏡で御覧になったら、そんなに色々な生き物がいたのですか?」

「ええ。明らかに体に有害と思われるものが多いです。でも、ああした顕微鏡でも見えない金属や薬物の混じった工場なんかの排水の方が、もっと危険だと言う方もおいでのようです」


 二人の話は、ますます盛り上がり、声が自然と大きくなってきた。ロンドンでたびたびコレラが流行るのは不衛生な水道水も大きな原因ではないかとか、テムズ河に流れ込む汚水処理は如何にあるべきかとか、人に有害な様々な微生物とか、コレラはどの様に感染するかとか……


「おいおい、二人とも、話題に夢中なのは構わないが、美味しいお茶を飲むにはいささか不適切な話題だと思わんかね?」


 そう苦笑する公爵に言われて、やっとお茶の時間にふさわしいとは言えない話題であったことに二人とも気付いたようだった。二人とも取ってつけたように、中国産の茶葉の話を始めた。確かに非常に素晴らしい茶であるのは間違いなかった。ロバートの見たところでは、マギーはお茶の美味しさを真面目に味わっているようだったが、赤毛の弁護士君の方は、お茶の事はほとんど何も考えていそうも無かった。


「なるほど……ミス・マーガレットは御自宅でイエナの工房製の顕微鏡を使っておいでなんですね」


 ドイツのイエナ大学の教授たちが贔屓にしていると言う優れた工房の噂は、ロバートも承知している。赤毛の青年は将来有望な法律家のようだが、顕微鏡やら微生物やらも気になるらしい。


「ええ。色々気になる物を覗きますの」

「その、宜しければ、そのうちその顕微鏡で御覧になっている物を僕にも見せて下さいませんか?」

「夕方四時までしか時間が取れませんが、今からおいでになりますか?」

「よろしいんですか?」

「ええ、短い時間で申し訳ありませんが、どうぞ」

「ありがとうございます! いやあ、女性で僕と興味の対象がしっかり一致する方がおいでになるなんて、思っても見なかったもんですから」

「テムズ河流域での活動についてのお話も、もっと伺いたいです」

「はい、喜んで」

「おいおい、マギー、帰りはどうするの?」


 公爵はあきれた声を出したが、顔つきを見れば明らかに面白がっている。


「あー、私の足でも十五分ほどですから、歩きましょうか?」


 貴婦人として相応しいとか体裁が良いとかは、マギーにとってはどうでも良いらしいと以前から感じていたが、ここまでこだわらないと、いっそ清々しいとロバートは思った。


「マギー、ロバート君が困っているだろうが」

「僕も歩きますよ」


 ロバートの言葉に、目の前の美少女が明らかに不機嫌な顔つきになった。確かに貴族的ではないだろう。


「あ、あのう……セルビー伯爵はミス・マーガレットとどういった御関係で?」

「私を雇って下さっている雇用主でいらっしゃいます。御主人様ですわ」


 赤毛の弁護士君はマギーの言った言葉が理解できなかったようだった。


「僕の母が寝込んでいるんだが、滋養に富む美味しい食事を作ってもらうんで、特に彼女にお願いしているんだよ」

「なるほど。自然科学的と言いますか、医学・看護学と言った観点から見た病人食という事でしょうか?」

「まあ、そんなところだ」

「では、時間も無い事ですから、参りましょうか」


 マギーは席を立った。すると、公爵がこう言ったのだ。


「これ、待ちなさい。うちの四頭立ての馬車を出すよ。ロバート君の馬車は空で返せば良い。マギーの家からは二頭立ての馬車で時間に間に合うようにロバート君と一緒にお邸に戻りなさい。ジェフェリー君はその後、お宅まで送れば良かろう。御者にも言っておくよ」

「私も行きます。ね、ダメかしら、マギー? 私も顕微鏡って見た事が無いの」

「良いわよ。じゃあ、四人一緒に馬車で、って事ですよね、お祖父様」

「ああ。それで良い。エセルはマギーの言う事を聞いて、お利口にするんだよ」

「いやだわ、お父様、私もう、十六ですのに……」


 公爵家の四頭立ての馬車は、見事な物で、内部の椅子のクッションも申し分ない。馬車をひく四頭の馬も見事な美しい黒馬で、四頭は姉妹なのだそうだ。


「マギーの家に今、住みこんでいる馬丁はボブという老人だが、大した名人でね。四頭を仔馬の段階から育て上げここまで仕込んだのだよ。四頭ともボブが大好きなんだ」


 公爵は孫と娘、ロバートと赤毛の弁護士を機嫌よく見送った。だが、ロバートは釈然としない。公爵が自分を身内に加えて良いと考えてくれているのはわかったが、孫と娘と、どちらの夫になるべきだと考えているのか、どうもやはりわからない。

 馬車の中では赤毛の青年とエセルが隣同士にすわった。ロバートがマギーの隣に張り付いて座ったせいかもしれないが……


「まあ、そうなんですの?」

「ええ、僕の父の事務所のすぐそばなんですよ」


 どうやらモーツァルト一家がロンドン滞在中に過ごした市内の繁華街の建物の話をしているらしい。

 上流の紳士らしい態度になった赤毛の弁護士の眼差しからは、最初に感じた刺すような鋭い光はもはや見られなかった。だがこの青年は敵に回すと厄介そうだ、とロバートは思う。自分とこれからどう関わる事になるのか、つい色々の可能性を考えてしまい、胸の内は複雑だった。

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