困惑・2
ロバートは瞬間、自分の脳裏に浮かんだ映像の破廉恥さ加減に狼狽したのだった。自分の先祖であった騎士は王に寵愛された美貌の持ち主ではあったが、粗暴で傲慢でほとんど文盲のならず者で、気に入った女を見るとどこの誰だろうと略奪して犯して子を産ませた……そんな父に聞いた昔話の所為だろうか。
「ハハハ、ごめん……ともかく、明日、どうだろう? 僕にチャンスをくれない?」
ロバートの顔を目をまん丸くして凝視しているマギーに、本当の事を知られるわけにはいかない。だが、ああした妄想が湧くということは、とりもなおさず自分が普段思っている以上に強い感情が育ちつつあるのかも知れないと改めて自覚したのも事実だ。
「何時になさいます?」
「君に合わせるよ。君の休みって、昼食の後、夕食の準備までの二、三時間ってところなんだろうか?」
その翌朝の朝食は遅めだった。寝疲れずに寝酒を少々飲んだ所為だ。煩雑な領地経営の様々な事柄を本当は放りだしたいが、そうもいかない訳で、悩みの種になっている。
マッシュルーム入りのオムレツに玉ねぎと人参・ひよこ豆とケイパー、オリーブなどの入ったサラダが出てきた。トーストはカリッと焼き、コーヒーは香りのよいものをブラックで飲みたいのだ。最近はインド産の茶葉が入って人気が有るが、朝はコーヒーでないとどうも調子が出ない気がする。習慣と言うのも有るが、大陸に旅をしたときはコーヒーになれていた方が都合が良いと言うのも有る。
「いつか食べたトーストにハムとポーチドエッグを乗せてオランデーズソースを掛けたのも美味かったが、このオムレツとサラダも素晴らしくうまいな。このドレッシングが何だろう」
ラドストックが興味深い事を言った。
「東洋産の豆から作った非常に塩辛い調味料を、隠し味に使う……と言う話はなさっていましたよ。Soyaです。そうそう。醸造の加減でワイン同様様々な等級と品種のものがあるそうです。良いものが手に入ったから野菜や肉の風味づけに使うと伺いましたが……」
「なるほどな。ライムのしぼり汁とオリーブオイルをヴィネグレットソースのようにしてあわせたんだと思ったが、うーん、もしかしてナガサキで出荷されたオランダ経由のものかな。中国のものより美味いって話は聞いた記憶が有る」
マギーの弟は香港で仕事をしているらしいから、東洋の調味料についても彼女が普通より詳しいのは自然な事なのかもしれない。
「本日のご予定は、あの方と御一緒にアフトン公爵のお邸に伺うということで、宜しいのでしょうか?」
ドレス姿のマギーに遭遇した話をして以降、ラドストックはマギーの事を話す場合は丁寧な言葉を使うように心がけているようだ。はっきり名を言わず「あの方」ということが多い。この邸における身分の序列も不鮮明だからと言う配慮なのだろう。
「それにしても、今朝は遅いお目ざめでしたな。お加減はよろしいので?」
「色々考えたら、寝付きが悪くてね」
「あの方の事で?」
「それも有るが、領地経営の事で、色々頭が痛い。爵位なんて抜きにして、純粋に自前の資産だけで生活した方が気楽だけどな」
「歴史有る公爵家でも破産なさいますからなあ……ですが御当家は成り上がり貴族とは事情も違いますから、爵位の返上だの辞退だの、出来るとも思えませんが」
「僕が爵位の継承を拒否して、新大陸に逃げ出してアメリカ合衆国の国民にでもなってしまえば、それでおしまいかもしれんよ」
「ほ、本気でお考えで?」
「不可能じゃないだろう。でもまあ、言わば夜逃げだしな。商売にまで色々差し障りが出そうだ。まあ、僕の代ではしないよ。だからラドストックも心配するな」
貴族の所領は土地を所有するだけではない。土地の資産と同時に住民も管理する立場なのだ。従って地域の道路や河川の管理・補修も教会や学校の運営も領主の責任の範囲だ。
概ね大貴族の場合、当主の下に総差配人を置く。この総差配人は法律や会計業務の専門家でなければ務まらない。最近はサーの称号ぐらいは賜っているロンドンの弁護士が総差配人である場合が多い。やり手で評判の弁護士の場合、幾人かの貴族の総差配人を兼ねている場合も珍しくない。その総差配人の管理下に各領地の在地の差配人がいて、現地の農民から小作料を取りたてたり、土地の物産を集荷し売買したりする業務を行っている。在地の差配人はロンドンの総差配人とは手紙をやり取りして、その指示を仰ぐ。だがロンドンしか知らない総差配人の命令は地域の実情を無視したものであったり、不適切であったりする場合も多い。
小麦の不作、ジャガイモの不作、河川の氾濫と言った事でどの程度地域の住民が困窮しているか否か、差配人達が見落とした事柄について、純粋に宗教的な……とばかりも言えないが、概ね公正な立場で「領主の良識」「キリスト教徒しての良心」に基づき、何らかの救援策の必要性を申し出てくるのは教区の牧師だ。
特定の弁護士事務所に総差配を依頼している場合、その業務も後継者が受け継ぐ場合が多い。だが、幾人かの教区牧師と在地差配人からの手紙を見る限り、代替わりしたまだ若い弁護士である今度の総差配人は、どうもよろしくない様なのだ。地域の困窮を理解せず、例年通りの徴税を押しつけるらしい。中には地方の小作人がどれほど苦労しているか、ロバート自身の目で確かめてくれないだろうかと言った内容の手紙も有った。皆、もう既にロバートを実質的な当主と見なしているのだった。
領地は金銭を生み出す魔法のポケットでは無い。人間が住む古くからの共同体でも有るのだ。それを管理運営する責任の重さを理解できない令嬢と結婚する気は、ロバートには毛頭無い。
教区の牧師と在地の差配人が言ってきた金額は一千ポンド程度であったので、とりあえずはロバート自身が経営する会社の利益で生じた資金から、困窮者が多い地域に援助資金として早急に送ることにした。牧師も差配人も共に正直の上に馬鹿がつくような老人だから、それなりに計らってくれるだろう。
午後になって、マギーと共にアフトン公爵家に向った。一番乗り心地の良い二頭立ての箱馬車にしたのは、いつもそうだからだが、四頭立て馬車も所有していない訳でもないので、少し迷ったことは迷った。今日は旧知の仲の公爵に会いに行くのであり、孫娘と一緒なのだ。あまり仰々しいとかえって野暮ったくあか抜けない気がする。だから繋ぐ二頭の馬はロンドンでもめったにいない程の良い馬にしている。見る者が見れば、そのぐらいはわかるだろうし、それが分からない様な人間とはさほど深く付き合うつもりもないのだ。
「さあ、どうぞ、お乗りください」
ロバートはマギーをレディとして扱った。絹の手袋をはめた手の甲に恭しくキスすると、それに堂々と応じるマギーはやはり自分の身分にふさわしい令嬢だと感じる。だが、彼女はどうやら世間では到底認められない様な奇妙な情熱を社会的な活動に対して持っているようだ。昨夜少しだけだが、ロバート・オウエンの活動についての彼女の意見を聞き、貧困層に対する医療奉仕活動を続ける彼女の友人について語りあった。
そうした活動に関して、熱意を込めて語る彼女の顔は眼鏡をかけたままでも、十二分に美しかったが、今日は飾りは控えめではあるが身分にふさわしいブルーのドレスを着て愛らしいボンネットを被っている。まさに堂々とした貴婦人だ。ピンとした姿勢のよい背中も、程よい肉付きの肩も病的に細すぎない腰も、ロバートにはすべて好ましく見える。だが、マギーは頑固そうだ。そこが魅力でもあるが。
マギーの目指すものは間違っていないのかも知れないが自分の妻となる人がスラムに入り込んで活動するのは……控えてほしい。ついそう思ってしまうのだが、それを口にするにはロバートは教養が有りすぎた。先進的な思想に理解が有りすぎた。だが、やはり本音では嫌なのだ。
アフトン公爵邸の車寄せで馬車を降りて、ロバートはマギーと連れだって公爵が待つ客間に入った。普段なら書斎で気軽な世間話をするのだが、今日は様子が違う。マギーと一緒に伺うとは、事前に申し入れてあるわけだが、その意味合いについては何も無論言っていない。公爵は明るい温室に面した部屋にいた。冬の寒さが嘘のような暖かさで、沢山の花々が咲いている。
「やあ、ようこそ。堅苦しい挨拶は抜きにして、一緒に中国から届いた極上のお茶を楽しんではどうかと思ってね。二人ばかり君に紹介したい人がいるんだ」
「えっと、公爵、僕は……」
「君もマギーも大人だし、二人とも良識は十分有るだろうから、節度を持って交流をしてくれる分には、一向に構わないと私は考える。君たちそれぞれの人生は、それぞれの物で、私がどうこう言うべき物じゃないと考えている。この今現在のこの国では……少数派の考え方だろうが」
「でしたらお祖父さまは」
「マギーは法律に適う範囲でだが、誰と結婚しても、あるいは全くしなくても、完全にマギーの自由にしたら良いと思うよ。マギーはやりたい事も有ってすぐに結婚というわけにも行かないだろうが、ロバート君はすぐにも花嫁が必要だ。な、そうだろう?」
「はあ……ですが……」
「幾人か君にふさわしい令嬢の心当たりも有るが、今日は私の末娘が、久しぶりに邸に戻ったのでね。社交界に出たい希望が有るようだから、君にも紹介しておこう。入っておいで」
公爵の声に応じて、一人の女、いや、ほっそりした十五歳程度かと見える少女が入って来た。まだ未成熟で未完成だが……華やかなブロンドの髪と菫を思わせる様な紫色の瞳は、妖精のような雰囲気を醸し出している。将来は大した美人になりそうだ。
「レディ・エセル・ウィルモアだ。孫より年下だが、確かに私の娘だ。母親は君も知っているシルビアだよ」
紹介されたエセルは完璧な恭しい態度で礼をしたので、ロバートも礼を返した。
「シルビア・スワン夫人とは……」
「その、ハリエットが居た頃には互いにこうなるなんて思っていなかったが……子供らも大きくなって寂しかったのと、ハリエットとの離婚が法律的にちゃんと成立したのでね。バーバラに言われて秘密ではあるが結婚したのだ。子供らに譲るべき財産はちゃんと譲るように法律的な厄介ごとは片付けてあるし、皆もう大人だから、すんなり認めてくれたよ。まあ、息子らは皆バーバラには逆らえんのだがな。シルビアはああ言うつつましい性格だし、社交界での付き合いもしてこなかったからね。でも、この子は違うようなんだ。な?」
「何だか、そんな事をおっしゃると……私が軽薄な馬鹿みたいだわ。でも、学校の同級生の子たちが皆、デビューするって言うから、私もって……思っただけですの」
聞けばエセルは母親の考えで、国内のとある女子寄宿学校に入っていたらしい。ロバートはその学校の名前を聞いて、エセルの受けた教育の内容の察しがついた。貴族や裕福な地主、医師、弁護士、将校などの令嬢たちの教養を高め、ダンスやマナー、楽器の演奏などの一通りと、多少の外国語やギリシャ語やラテン語を教えて、上流社会にふさわしい女性に仕上げようと言う所だろう。腐ってもロバート・オウエンの話などしそうに無いし、婦人参政権運動も危険な思想活動だと考える人種しかいない学校のはずだ。
「この子が嫁入りするときは、しかるべき持参金と多少の領地ぐらいつけるつもりだ。誰か良い婿さんはおらんかな? 何なら君でも、私は一向に構わんが」
公爵は悪戯っぽい視線でロバートを見て、笑っている。エセルは公爵に促されてピアノを弾きはじめた。モーツアルトの曲だろうか、軽やかで華やかな曲だが……。済ました表情で紅茶を飲むマギーと笑みを浮かべた公爵の間で、ロバートの背中には冷や汗が滲んでいる。
その時、従僕が客の来訪を告げたのだった。
脱字部分、補いましたー