マギーの事情・2
「学問でも研究でも、好きなように好きなだけ思い切りやればいい」
そういう理解のある、使用人たちに言わせれば有りすぎる祖父のおかげで、マギーはアメリカに有る女性のための大学に行き、歴史や芸術の勉強を好きにさせてもらった。大学では一応最優等生ではあったが、就ける仕事は教師以外めぼしいものは無かった。それに飽きたらず、その後プロイセンの都ベルリンやベルギー・イタリアなどで医学や生物学、看護学に関する事柄を学んだ。子供のころからそうした方面には興味が有ったからではあったが……。何か自分にしっくりくる仕事を求めて巡ったヨーロッパでも、求める物は見いだせなかった。献身的に患者を介護する尼僧院であっても結局の目的は布教なのだと思い知らされたり、凄まじく男尊女卑的な学会はよほどの覚悟が無いとやって行けない世界だということが身に染みただけであった。
それでも最先端の微生物学、特に食品の衛生や醸造に関わる分野での見聞を広められた事と、医学を志す尊敬できる女性の知人を幾人か得た事はマギーに取って大きな収穫ではあった。そして彼女たちに触発されて、飢餓状態のアイルランドの現状や、労働者たちの生活改善のための様々な努力に目が向くようになった。そして結局の所、自分のやりたい仕事は自分で作り出すほか無さそうだと言う結論に達した。
「私はね、若いヤル気のあるアイルランド人には新大陸やオーストラリアで思い切り頑張ってもらう方が良いと思っているんだ。一刻も早くアイルランドの食料の輸出を止めさせなければいけないが、国会での話し合いは上手くいかない。このままでは法律の改正を待つ内に犠牲者は増え続けるだろう」
マギーが帰国してすぐにアイルランドのジャガイモの不作による飢饉について話題にすると、祖父はもう、とうの昔に具体的な行動を取っていた。さすがだと思った。カソリック教徒であるアイルランドの貧しい小作民に対する差別的な意識は根強いものが有ったし、「神はアイルランド人に教訓を授けるためにこの災害を起こされた」などと公言する政府高官もいるし、確かに祖父の言うように「政府に抗議したり国会で演説している間に餓死者が増える」のは間違いなさそうだった。
クリスマスの事で母と相談すべきことが色々あり、マギーが祖父の部屋にも挨拶に寄った時にも、一向に収まらないアイルランドの飢饉の話題が出た。
「この件に関しては最近、マギーの雇い主のキーネス侯爵の子息・セルビー伯爵にも協力してもらっている。彼もかなりの船を押さえているからね。だが、正直言って、まだまだ船が足りない」
「まあ、そうなのですか? ならば、私に年金として下さっている分のお金もお役立て下さい」
「資金的には困らないんだ。船そのものの絶対数が足りないって言う話だから。それはそうと、マギーは近頃、彼とは個人的に会話をするのかな?」
「いえ、それほどではないですが……作った料理はちゃんと食べてくれます」
「ほう。好き嫌いせず元気に食べる健康な好男子と言う訳だ。そうは思わないか? マギー」
「そうなんでしょうか」
「その……トマス辺りより、骨太で多少厳つい系統だが、彼の御先祖は勇猛果敢な騎士だったのだ。顔の造作は人によっては男らしい整った顔と言うだろうと思うがな。好みは人それぞれだ。まあ、いい」
その後は、ジャガイモの病気の原因は、何がしかの微生物の可能性が有ると言う話になった。祖父はそうした生物学などの専門教育を受けていなくても、新しい概念を正しく理解できる希有な人なのだ。
「キーネス侯爵夫人の症状は?」
「良くもなりませんが、悪くも無いと言う感じでしょうか」
「なあ、マギー。良い所で、切り上げて自分の家なり、この邸なり、戻っておいで。トマスには結婚したい女性が最近になって、ちゃんと出来たようだよ」
トマス叔父に意中の女性がいると言うのは、好ましい変化だとマギーは素直に思った。やはりトマス叔父を異性として愛していた訳では無いのだと、今ならはっきり言える。
「別にマギーは、ショックでも何でもないよね?」
「ええ。そう言えば、クリスマスの折のドレス姿を……彼に見つかってしまいました」
「経歴詐称かなんかで、怒られたか?」
「いえ。知っていて知らないふりをしてくれていますが……」
「どこの誰なのか、問いただされていないのか?」
「ええ」
「ふーん……マギーの料理が美味かったからかな?」
「かもしれません」
「ちょっと、面白い状況だね。でも、やっぱり切りの良い所で帰っておいで。マギーに似合いのスケールのもっと大きな仕事をさせてあげられそうだし」
祖父は工業地帯の人々の生活の改善、特に食料を改善する活動にマギーが積極的に関われるのではないかと考えているようだった。
「ランカシャーで非常に面白い試みが始まったようだ。思想的にはミスター・オウエンの影響が大きなグループみたいだが、注目に値すると思うよ。これからはこうした自発的な協同組合が様々な産業で大きな意味を持つ様になるかもしれないね」
「ミスター・オウエンの活動は理念は立派ですが、アメリカのインディアナ州での活動は結局構成メンバーのいさかいで、立ち行かなくなったのですよね。アメリカでも話題になってました」
「だが、恐らく、彼は大きな失敗から色々学んだ、と私は思う。彼が根絶べき三大悪として『私有財産』と『既成宗教』を上げたのには必ずしも賛成しかねるが、『愛無き結婚』を上げたのは大賛成だ。従って私は部分的にでは有るが、彼の思想も受け入れることが出来そうだよ」
そう言って祖父は笑った。ひとしきり話し終ると、マギーは自分自身の家に一時的にだが、戻った。
学業を終えて帰国すると、祖父はロンドン市内に小さいが使い勝手の良い家をくれた。その家は完全にマギーの財産で「祖父と母が亡くなった後なら」という条件付きだが、マギーの考えでどう処分しても構わないのだった。その家には管理人兼番人のような感じで、マギーに調理の基本を仕込んだ元キッチンメイドのミリーと馬丁で御者役も兼ねるボブの夫婦が住みこんでいる。メイドは祖父の邸から通う形で、いつも三人ほどが来ているらしい。らしいと言うのは、マギー本人が夏以降、キーネス侯爵家のロンドンの邸に寝泊まりしているからだ。
「よそのお宅で料理人なんぞなさらず、お戻り下さい」とミリーが言うのは分かっている。しかし、あのハーグリーブス夫人と言うか、かつてサラ・ブラウンと名乗っていた頃は母バーバラの腹心であった彼女が、困っていると聞いて、手伝ってみようと思ったのだった。それが事の発端だったのだが……
久しぶりに戻った自宅で、マギーは入浴した。最新型の浴槽とシャワーを備え付けた浴室を気兼ねなく使えるのは気分が良い。今いる、キーネス侯爵家では、ハーグリーブス夫人の特別な配慮で毎日ヒップバスを使い、髪や体の手入れのために湯を頼める状態ではあるが、辺りにしずくがはね飛ぶのを気にしながら、湯の追加も誰かに依頼しないといけない状態なのだ。
それこそ入浴なんて馬鹿馬鹿しい贅沢と、世間一般にはまだ受け止められている。こうした入浴をしたいとついつい思ってしまう自分は、やはり「上流階級の堕落した生活」になじんでいると、労働者階級の活動家あたりに言われてしまいそうだ。そう思って、マギーは苦笑した。
「自分の手で何も稼ぎだせない」と非難されるのが嫌で、アメリカにいた時も食堂でアルバイトをしたことが有る。だが「大学に通うような上流のお嬢さんにふさわしくない職場」と、当の食堂のおかみさんに言われてしまったのだった。マギーの料理は受けが良く、客の入りも良かったのだが……。そんなわけでアルバイトは夏休みの半分の期間で終わらせざるを得なかった。
マギーの父方の従兄弟たちは、ひたすら美味しいパンを追及している。ああいう迷いのないキッパリした姿勢で、一つの仕事に打ち込める彼らがうらやましい。それでも少しでも条件の良い結婚相手を探す事ばかりに時間を費やす令嬢たちの群れに加わらずに済んでいるのは、間違いなく祖父のくれる年金と邸のおかげなのだ。
「ともかくも複数の使用人がいて、自家用馬車が維持できる程度の年金は必要だろう。必要なら、今の倍額までなら、すぐに出すよ」
そんな風に祖父は言うが、五千ポンドの年金でも十分すぎるとマギーは思う。
確かに爵位も領地も持ったそれらしい貴族は一万ポンドほど必要だろうが、それは体裁やら格式のための費用が大半だと思うのだ。そこそこの地主階級の年収が三千ポンド、やり手の医師や弁護士なら千ポンドといったあたりが通り相場だろう。これが庶民となると熟練工でも百ポンド、普通のメイドは十ポンド、それを思えば結構な金額だと言える。
「まともな使い方を考え付くなら、金は多い方が良いに決まっている」というのが祖父の金銭哲学らしい。
祖父は自分より若くて才能が有る人物の話を聞くのが好きで、好奇心が強い。そして将来有望な産業や人材に投資し応援するのが生きがいらしい。めがねに適った投資先の鉄道会社や船会社・商社・銀行も農場も醸造所も工場も、皆、良い業績を上げている。どうやら「一昔前の貴族の骨董趣味より、良い趣味だと思っている」らしいが、確かにその通りだとマギーは思う。
あのロバートは、そうした祖父のめがねに適った人物の一人のようだ。あのキスは……嫌では無かった。いや、それは正直な感想ではないかもしれない。宗教的には恥ずべき事かもしれないが、生物学なら「生理的反応」とでもいうのだろうか? 自分の体がこれまでにない様な反応をしたのは、紛れもない事実だった。
マギーはベルリンで解剖学の講座を聴講した折、人間の脳の標本を見た。
「人の脳の下の部分は、もっと下等な動物と極めて似通っているのです」
そう言われてみると、確かに一番下の方の部分は犬や猫やワニやトカゲとさして違わない形をしていた。基本的な欲求は、それらの動物と人間は大した違いが無いと言う事でもあるらしい。犬の場合、嗅覚によって大きく感情が左右されるらしいが、人はどうなのだろうか? ある研究者は「仮説ですが」と前置きして、人の場合も相手の異性の体臭が好みか否かで、好きか嫌いかが決まる部分が大きいかも知れない、と言ったのだ。
自分は、あの、ロバートに抱きしめられた時、彼の香りを好ましいと感じたのではなかったか?
「私の脳の原始的な部分は、彼を好ましいと感じているらしいわ」
マギーは真っ白いバスタブにのんびり浸かりながら、そんな事を考えたのだった。