マギーの事情・1
「ひもじくない暮らしをする方法が海の向こうに有るかも知れないと、ここから海を見下ろして毎日考えていたそうだ。あまり自分の子供時分の話なんてしない人だったが、ここからの眺めは……特別なものだったんだろうな。貧しく生まれ、惨めに扱われ、孤独に死んだ。ここはそう言う女の人の墓だ」
絶海の孤島の断崖にポツンと立った墓標は祖父が建てさせたもので、それまでは幾つかの大きめの石と粗末な木の杭しか無かったらしい。
あの時の祖父の表情は、哀しいのか辛いのか、あるいは苦しい一生から自分の母が解放された事を喜んでいるのか、あるいはそのすべてであるのか判然としない、そんな顔つきだった。
当時幼かったマギーは祖父の母である人の事を誰も褒めない、それどころか話題にするのも皆が嫌がっているのを知っていた。だが祖父にとっては自分の母がそんな風に死後も扱われ続ける事は、どれだけ辛いだろうかと思って胸が痛んだ。だから祖父の隣で懸命に、曾祖母にあたる人の魂が安らかであるように祈った。
「マギーは優しいし、良い子だ。マギーの顔はこの人にとても似ているのだよ。この人はね、王様が夢中になってしまうぐらいの美人だったんだ……でもマギーとは髪の色が違うな。それにマギーの方がうんとお利口だがね」
「だからお祖父様は、私がお好きなのですか?」
「良くわからないが、生まれたばかりのマギーを見たとき、なんて可愛い子だろうと思ったよ。そして、絶対に幸せになってほしいとも思った」
祖父はマギーをだっこして、ぎゅっと抱きしめてくれた。頭を撫でてくれたり、抱きしめたり、額にキスをしてくれたりするとき、祖父はいつも極上の葉巻の匂いをさせていた。祖父は幼いマギーの知る限り、一番ハンサムで、一番賢い男性だった。それは大人になった今も恐らく変わりないのだと思う。
何しろ社交界で美男子と噂される男性の顔を見ても、気持ちが動いたためしが無いのだから。
祖父は「王様の気まぐれ」の所為で貴族になってしまっただけで、子供のころは貧窮院でいつもお腹を空かせていたのだと言う。そのころから仲良しだった女の子を本当に好きになったので、大人になってから、こっそり結婚した。そうしてマギーの母バーバラと二人の叔父が生まれたのだ。だが、マギーの母方の祖母にあたるその人、祖父の最愛の妻であった人は、三度目のお産の後、体を壊して亡くなってしまったのだと言う。
その後、大人になってから事情を色々知ると、祖父が爵位を賜ったいきさつは、それなりに理由は有ったとも思うが、祖父は今でも「あれは王様の気まぐれだ」と言い続けている。
「マギーのお父さんは立派な男だった。ただちょっと食べ物の好き嫌いが多くて、体が弱かったな。マギーは何でも好き嫌いしないでちゃんと食べて、運動をして夜はぐっすり気持ちよく眠らないといけない。仕事をするにも学問をするにも、体が丈夫じゃないと、長くは続けられないよ」
母のバーバラは、パン屋の息子で当時はまだ駆け出しの作家だった父と結婚した。
かつて祖父の邸の使用人たちの中には「平民の息子が婿君なんて」とか、「バーバラ様がパン屋の息子と結婚なさりたいなんて、冗談かと思った物だが……旦那様がすぐにそれをお認めになったのも、驚き入った」などとヒソヒソ噂する者もいた。そういう連中は、そのうちいなくなってしまったが……
祖父は愛していた祖母の死後、ずいぶん経ってから「色々と義理も有ったし、うまく断りきれなくて」「互いに好きでもないのに」自分の娘と同じ年頃の女性と再婚した。再婚相手は名門貴族の一人娘で、その女性の亡父は祖父に取って恩人だった。その恩人は死の間際に、自分の家と一人で残される娘のために再婚してほしいと願ったそうだ。それを祖父は「とてもじゃないが、断れなかった」という事のようだ。
祖父は管理を任された恩人の家を建て直したが、その一人娘レディ・ハリエットは軽はずみな人で色々な男たちとの親密すぎる付き合いを隠そうともしなかった。それだけなら、祖父も知らぬふりを決め込む事も出来ただろう。レディ・ハリエットは「卑しい女の産んだ」継子たちを嫌った。最初のころは使用人を使って嫌がらせをする程度だったが、次第にエスカレートし、ついには虐待行為に走ったのを知ると、祖父はハリエットを自分や子供たちと別居させた。その中には生まれたばかりのトマス叔父も含まれていたのだ。
その後、マギーの父は病気で亡くなり、母バーバラはマギーと双子の弟達を連れて祖父のもとに戻った。そして、まだ若かったヘンリー叔父やアルフレッド叔父の世話をし、マギーと三歳しか違わないトマス叔父に至っては、殆ど自分の子供と一緒に育てたと言って良い。
母バーバラは自分に委ねられたすべての子供たちに愛情を注いだ。そのおかげでトマス叔父は何か有るとすぐに、何でも姉であり育ての親でもあるバーバラに相談するのだ。ただ一つの事を除いては……だが。
母バーバラも深く悩んでいた。それも長い間ずっと。トマス叔父を愛していたからだ。
「私があの子と初めて会ったばかりのころ、あの子は好き嫌いが多くて、やせっぽちで、夜中は何かに怯えて泣いたりしたわ。貴族には相応しくないと言われたけれど、しばらくの間私は、あの子と赤ん坊のお前を一緒に自分のベッドに寝かせていたの。そのうちあの子は『僕は赤ちゃんじゃないから、頑張る』と言って、ちゃんと自分の部屋で寝るようになったし、おねしょも治まったのよ」
母は完全に中産階級のやり方で、幼い弟も子供たちも育てたのだ。
「愛情を子供に確信させる事こそが重要だと思うの。マナーだの格式だのは後付けの勉強でどうにかすれば良いのよ。多少マナーから外れても、人への優しい気持ちが有れば、感じの良い振る舞いは十分できるでしょうし。そもそも私までが貴族のやり方にこだわる必要なんて無いわ」
祖父はその母の養育方針に、全く文句は無いらしかった。
「子供は伸び伸び明るく元気でいるのが一番だ。バーバラの言うようにマナーは気持ちを補う物であるのが本筋だからな」
祖父の方針でどの子どもも読みたい本を読み、やりたい学問をする事を積極的に勧められた。馬に乗りたいと言えば、すぐにそのように手配してくれたし、絵が習いたい楽器を演奏できるようになりたいと言えば、すぐに専門的な教師を招いてレッスンさせてくれた。
「本職と言う程ではないが、そこそこ人を楽しませる程度の心得は有った方が人生は楽しいものになる」というのも祖父の考えで、叔父達もマギーも兄たちもピアノやヴァイオリンの演奏がそこそこ出来る程度には学んだ。楽しい雰囲気で自然に音楽になじむように配慮されたレッスンを受け、皆自然にそうなったのだ。
トマス叔父とマギーはピアノを連弾したりする事も多かった。嗜み程度に出来ないとまずいという事で習ったダンスも、マギーは良く一緒に踊って練習した。優しくてハンサムな叔父とのダンスは楽しかった。だが、ある日母にこんな風に言われてから、無心に楽しめなくなった。
「マギー、トマスはあなたに何か困った事は言わない?」
「別に何もないけど、なぜ?」
「トマスがあなたを見る眼がね。ちょっと気になるの」
「冗談半分に『マギーにプロポーズできないのが、残念だなあ』って言われた事はあるわ」
「冗談で紛らわすって事は、半ば本気という事よ。良いかしらマギー、トマスの気持が暴走したりしたら、あなたにもそしてトマスにも不幸な結果になる可能性が高いわ。だから、万事慎重にしてね。あなたが外国に行って勉強している間に諦めてくれるかと期待していたのだけどね……」
母の心配をよそに、アメリカやヨーロッパでの遊学を済ませて帰国して以来、幾度かトマス叔父には会ったが、常に紳士的で節度ある態度だった。「マギー、何か困った事が有ったら、何でも相談に乗るよ。僕にできる事なら何でもするし」と言う言葉も、家族としての愛情の表れと思っていた。母は心配する必要がない事を心配している、そうマギーは思っていたのだ。この夏までは。
トマス叔父は二十歳を過ぎた時点で、母方の先祖の土地を受け継ぎ、リズモア侯爵となった。その時点で祖父と一緒に過ごした邸を出ている。だが、今も三日に一度は母バーバラを訪ねてくる。夏のあの日もそうだった。母と話をしてから、庭先でハーブを摘んでいたマギーに声をかけたのだ。叔父の顔が暗いのがマギーにも気になった。
「僕は本来、ここに住む権利だって無かったんだ。でも父さまもバーバラも僕を分け隔てなく扱ってくれたし、愛情を傾けてくれた。でも、今や僕は大人で、真実を知ってしまった。辛い真実ってやつをね」
辛い真実とは一体何なのか、マギーには見当がつかなかった。だから次の叔父の言葉を待った
「だが、結婚できないと思っていたマギーと、ひょっとすると出来るのかも知れないぞ」
トマス叔父は冗談めかしてそう言って笑ったが、悲しそうだった。自分はレディ・ハリエットと不倫相手との間にできた子であって、本当は爵位を受け継ぐべき立場に無い。そう叔父はマギーに告げたのだった。マギーはそんな話を全く知らなかったので、驚き、何と慰めれば良いのか、分からなかった。
「マギーと結婚できれば良いんだが、無理だよな。世間的には姪と叔父だってことになっているし……僕の実母のハリエットは生きているし……第一、バーバラや父さまが反対なさるだろうからな」
「爵位は嫡出子しか、原則的には継げませんでしょう?」
「僕は、本当は領地も爵位もいらない」
「でも、亡くなられたリズモア侯爵との御約束があると……」
「そうだね。マギーの言うとおりだ。父さまは、その為に僕の母と再婚なさったようなものだから、無下にはできないんだなあ」
時折冗談半分に「マギーと結婚したい」とは聞かされてきたが、一種の挨拶か親愛の情の表現だと思って深く考えては来なかった。母の言う事は大げさだと思っていた。だが、事情を知った今、叔父とは会わない方が良いだろうとマギーは思っている。少なくとも叔父が結婚するまでは……。マギー自身は結婚なんて考えた事も無かったのだ。
その日トマス叔父が居なくなってから、祖父はマギーに言ったのだ。
「しばらくトマスに会わない方が良い。マギーがどうしてもトマスと結婚したいなら別だが。だが、その為に払う犠牲は大変に大きなものになる。だから、良く考えてほしいのだ」
祖父が願わない事をしたくない。それがマギーの正直な気持ちだった。トマス叔父を愛していると思うが、家族としての愛であって、異性に対する愛では無いように思う。
「トマス叔父様は兄のような方で、結婚を考えた事は有りません。それに、私、以前お祖父さまのおっしゃっていたように、結婚はしない方が良いのかも知れないと思っています。ずっと自分なりに打ち込めるものを探して来ましたが、やはり食べる事に関わりのある仕事を続けようと思います。看護や医学と言った方面で、懸命に活動している人達の仲間に入る事も考えたのですが、私は彼女たちみたいに深い信仰も無いですし、ひたむきになれません。だから、そうした方たちを外から支える様な活動を、美味しい食べ物と絡めて、何らかの形でやってみたい……そんな風に思います。例えば『食事と健康』なんて課題は、一生研究するに値するように思うのです」
すると祖父はホッとした顔になって笑った。
「そういう事なら、大いに応援するよ。年金の増額もしようか」
「いえ、年に五千ポンドでも頂きすぎです」
そんな時だった。キーネス侯爵家からの話が舞い込んできたのは。
設定上の矛盾になりそうな点を訂正しました。
遺言云々を10月25日に更に訂正しました。