出会い・1
「やってられないな」
忠実な従僕はシルクのローブにスリッパという格好の主人が立ち上がりざま、最新版のタイムズを乱暴にフットスツールに投げつけたので少々驚いた。いつも落ち着いた挙措動作の主人には全く珍しい。よほど記事の内容が不愉快であったのだと思われた。
彼の主人は三十五歳で決して老人ではないが、若者とは言えない。一昔前の貴族の基準で言うなら、妻子がいて当然な年齢だ。主人は十年以上にわたって多くの高貴な御婦人方をやきもきさせてきた。誰もが認める由緒正しい家柄と申し分の無い財産だけでも十分に望ましい結婚相手には違いないが、主人はそれ以上の良い条件を備えた人物だと言える。何しろ一旦破産状態に陥った生家を建て直し、更には資産を着実に増やしている見事な手腕は、何かとうるさい年配の御婦人ばかりか多くの貴顕紳士からも一目置かれているのだから。
「お前も読んでみるがいい、ラドストック」
主人はコーヒーを飲み終って、寝室を出た。そして支度を整え、素材も仕立ても最高級のフロック・スーツを身にまとうと、キーネス侯爵家のロンドンにおける住まいであるレイストン・ハウスに向った。男らしく均整のとれた健康な肉体と、高い知能をうかがわせる秀でた額、形の良い眉と漆黒の長いまつ毛、軽くウェーブのかかった艶やかな黒い髪、どこか謎めき、時に悪戯っぽくも感じられる鋼色の瞳……ロンドン中のすべての女性が美男子と認める風貌ではないかもしれないが、その魅惑的なバリトンと優雅な挙措動作で多くの人の目を引き付ける特別な存在であることは確かだ。
これから何か相続に関する重要な話し合いがなされるらしいが、従僕であるピーター・ラドストックには細かい事情までは分からない。主人の父・キーネス侯爵マイロン・ボーダナムには嫡男子が二人いるが、主人は次男であるため爵位は無い。ただ、兄のセルビー伯爵クライブ・ボーダナムは幼少期に患った熱病のために子供が望めないらしい事、キーネス侯爵の度を越した浪費で破産しかけた家を実際に建て直したのは、主人であるロード・ロバートである事はかなり知られている事実だ。
つい先日から、セルビー伯爵は高熱を発して寝たきりになってしまったらしい。妻もいない、子もいない伯爵にもしもの事が有れば、主人は兄の爵位を継ぐ。
ロバートは大学を高位の貴族の子息としては珍しく極めて優秀な成績で卒業した後、「いわば一種の運試し」で新大陸に渡り、かの地で幾つかの有望な新しい産業に関わり、適切に投資した事で、大きな富を手にした。事業家としての手腕は、かの高名な欧州を代表する銀行家からも一目おかれていると言う評判を、ラドストックも時折耳にする。
「うっとうしいばかりだと思っていた実家の名前も、金策にはちょっとばかり役に立ったりするんでね、以前ほどは嫌じゃない」などとロバートは笑うが「実家の名前を抜きにしてもロバート・ボーダナムは優れた事業家だ」と言う新聞記事を、ラドストックは切り抜いて保存してある。自分の主人に関わりのありそうな新聞記事を切り抜き保存するのは、執事の仕事を務める上で必要だと思うからだが、ラドストック個人にとっても密かな楽しみであった。
だが、確かに主人が朝刊を投げ出す原因になった女性参政権に関する記事は、実に過激であった。
女王陛下は仰ぎ見る高貴な方だが、輔弼の臣は皆それ相応に有能な男ばかりだから良いのだとラドストックは思っている。国会議員の半数を女にするだの、女の首相も将来は有り得るなどと言うのは、ごく一部の女権論者の過激な妄想としか受け止められない。
その主張は、男女の差別を認めるべきではなく、夫が妻に対する権威を持つべきだとする従来の社会通念こそが全ての社会悪の根源であるとしていた。夫と妻は互いに完全に平等であるべきで、厳密な意味で男女相互に奉仕し、献身するのは性別にかかわらず義務である。幸福な結婚においては『従属』とか『優越』という問題はありえない、と言った具合だ。女ももっと大学への入学を認められるべきであり、相続も男女完全に平等でなければならないと言うのだ。
このような事がまかり通れば、長子相続で受け継がれてきた英国貴族の伝統は崩壊し、紳士淑女の有りようも自ずと変質してしまうと言う点は、ラドストックにも十分理解できた。そして、そのような変化は彼には耐え難いものに思われたのだった。
「幸福な従属こそ多くの御婦人方の求める理想であり、権威を備えた夫の妻となって夫の優越を心穏やかに受け入れられるような状況は、妻にとってむしろ望ましいはずだ」と言う主人の意見は、ラドストック自身の意見でもあった。男は男らしく、女は女らしく有る事の何が宜しくないのか、さっぱり彼には分からないのだ。
尊敬できる立派な夫に大切に扱われる事こそ、レディの、いや女の幸せなのではないかと……ラドストックは思うのだ。だが「女の権利」や「婦人参政権」を強く主張するレディは少しづつでは有るが、増えてきている。彼女たちは頭でっかちで理屈っぽくて、地に足がついていない危うさが有る。確かに男にこびて春をひさぐ女などよりは学問も有って立派なのかもしれないが、レディらしい優雅な美しさを損なうような行動や言葉に対しては、どうしたってラドストックは否定的になってしまう。
サミュエル・ジョンソンの「男というものは、普通、食卓で御馳走にありつける方が、自分の妻がギリシア語を話すことよりも嬉しいものだ」という言葉は全く正しいとラドストックは思う。正直な話、そのように思う男が大半だろう。そして「結婚は多くの苦悩を生むが、独身は何の喜びも生まない」という言葉も……。
もうすぐ三十五歳と言う主人の年齢は、どうしたって周囲は結婚を意識せざるを得ない。これが更に子のいない兄の後継者と決まったりすれば、結婚は重大な義務だと言える。
「何とかして素晴らしいレディを奥方様にお迎え頂くように、力を尽くさねば」
結婚適齢期の令嬢方に関する情報を収拾するのも自分の役目だとラドストックは考えている。
主人は迷惑がるだろうが、確実に目的を果たすべく、積極的な活動を始める事にしたのだ。従僕とはいえこの独身の主人が住む快適だが小ぶりな邸では、ラドストック以外の使用人は三十代の御者と料理から家の清掃・洗濯一切を行う年配の姉妹だけであり、実質彼が執事の役を果たしているのだった。
主人の実家はロンドンでも有数の大邸宅であって、かつては奉公人が三百人ほどもいたが、今は百人程度だ。それでも執事の上に家令がおり、調理人はフランス人という最上流の貴族の格式は今も守られている。それが出来るのも、主人のおかげなのだが、最大の功労者である主人は爵位を一種の枷のようなものと見なしているようだし、伝統ある大邸宅も「給湯設備が無いし、使い勝手が悪い」と好まないようだ。侯爵家の従僕であることに誇りを持っているラドストックには、その事が少々残念でもある。
「まずはアフトン公爵様のお邸に伺わねば」
公爵家の家令はラドストック自身の親戚筋にあたり、普段から様々な事を相談している仲だ。更にはアフトン公爵の長女であるレディ・バーバラは交際が広く、本人が見識の高い優れた夫人で二人の子息たちも将来有望な人物だ。そして公爵家で家政を見てきたスワン夫人も控えめだが温かい人柄で、信頼できる。つまりアフトン公爵邸は一か所で三人の優れた人物の意見が聞ける希有な場所でもあるのだ。
「御不幸があってからでは、身動きが取れないからな」
主人の力量と資産なら爵位が無くても十分立派な花婿候補だが、好むと好まざるとに関わらず、主人が爵位を継ぐ日は迫っていると、ラドストックは感じていた。
料理ねたが多くなるのは、間違いなさそうです。
公爵・侯爵家の嫡出で後継者では無い男子に慣習として使用される
ロードって称号は、名前に付けるだけが正しい。でOKでしょうか?