持久戦[4]
「南から敵は来ない」
政宗はそう断言した。
これは地勢的条件によって、極めて困難だからだ。
まず金沢から南回りで白雲城へ至ろうとすれば、越前と美濃を通過せねばならない。
しかし現在の越前国主は、大谷吉継である。
しかも吉継は、小早川家の目付役も兼ねていた。
監視役たる大谷の領内を、小早川の大軍が無断で通過する──そんな真似をすれば、それはもはや侵攻と変わらない。
越前五十万石。
その大谷家を敵に回す危険を冒してまで、南回りを選ぶ理由はない。
一方、越前とは逆側──高山方面から白雲城へ至る街道も存在する。
だが、こちらはさらに苛烈だ。
飛騨でも指折りの難所。
秀吉の天下統一後にようやく整備された新道であり、街道としての歴史はまだ浅い。
山々は深く、谷は険しい。
切り立った崖に張り付くように道が延び、少し視線を外せば、眼下には底知れぬ谷が口を開けている。
中でも軽岡峠は別格だった。
山襞を縫うようにして続く細道は、人ひとり通るのがやっと。
場所によっては肩を寄せ合わねばすれ違うことすら出来ず、荷駄が立ち往生すれば、それだけで後続すべてが止まってしまう。
まして数千、数万の軍勢など論外である。
馬も槍も隊列も意味を成さない。
大軍であることそのものが、かえって足枷となる地形だった。
仮に敵がこの道を侵攻路として選んだとしても、対処は難しくない。
崖を崩し、数ヶ所を土砂で埋めてしまえば、それだけで道は死ぬ。
復旧には膨大な時間がかかり、その間、狭隘な山道に押し込められた兵は飢えと寒さに晒されることになる。
──敵将が並みの知能を備えているならば、まず選ばん道だ。
政宗はそう断じた。
彼の頭の中では、すでに地形そのものが兵として組み込まれている。
「──荻町から城までの三里を、丸ごと城にする」
その言葉に、一同の目が細まる。
政宗の指が地図上を滑る。
「縄張を置き、要所要所で敵を削る。山と谷を使い、足を鈍らせ兵を喰らう」
それは単なる籠城ではなかった。
白川郷一帯そのものを巨大な防御陣地へ変える構想。
いかにも奥州を制した伊達政宗らしい、雄大で大胆な籠城戦術だった。
「雪が降る前に縄張を済ませる。材木も切り出しておく。雪の間も準備は止めん。雪解けと同時に完成させる」
その言葉に、一同は息を呑む。
雪に閉ざされる冬すら、政宗は時間として利用するつもりなのだ。
だが──。
それでもなお。
万を超える大軍が押し寄せれば、最後まで守り切れる可能性はない。
だからこそのガマン比べ。
裁定が出るまで、どれだけ耐えられるか。
どちらが先に息切れするか。
それはもはや戦ではない。
互いの生存そのものを賭けた削り合いだった。
「それで大将」
賀津が地図を指差す。
「この『爆』って字は……?」
街道の要所に、墨でいくつも書き込まれた『爆』の文字。
政宗は即答した。
「爆弾だ。荻町城でやったろう。お賀津と孫市には、あれをまたやってもらう」
その瞬間。
賀津の顔から、すっと血の気が引いた。
部屋の熱気が遠のく。
耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく鳴っていた。
しばらく黙り込んだ後、賀津はようやく口を開く。
「……それは無理だ……もう、雷汞がねえんだ」
場の空気が止まる。
「あれが無ぇと、長竿じゃ着火できねえ……」
「手に入らんのか?」
「雷汞は……タクミサマしか作れねえ」
賀津は俯いたまま答えた。
「佐和山ならまだある。でも持ち出せるもんじゃねえ……」
今回使った雷汞は、賀津が秘かに蓄えていた分だった。
だが、それもすべて使い切った。
雷振筒も。
長竿も。
遠隔爆破も。
今や白雲城は、その切り札を失っていた。
「そうか……」
政宗は地図を見つめたまま、静かに呟く。
工藤内匠頭。
飛騨にいるというその存在は、川尻平馬が作り上げた虚構。
その真実を知るのは、この場では政宗と慶次郎だけだ。
つまり政宗は今、存在しない男を当てにせず、戦を組み直さねばならない。
「申し訳ねぇ……」
賀津の声は掠れていた。
だが政宗は顔を上げずに言う。
「なら、お賀津にはその分、火薬を山ほど作ってもらう。間もなく文内が硫黄と硝石を運んでくるからな」
「……任せてくれ。玉薬なら、いくらでも作ってやる」
そう答えながらも、賀津の声には力がなかった。
*
胸の奥を、重たい罪悪感が覆っている。
本当は、作れる。
賀津は雷汞を作れる。
いや、これまでの雷汞のほとんどは、賀津自身の手で作ってきた。
拓真は製法を教えただけ。
危険な調合も、精製も、すべて賀津が担っていた。
だが。
あの日、龍仙寺を出陣する日、拓真は珍しく真剣な顔で言ったのだ。
──俺のいないところで雷汞は作るな。約束だぞ。
あの声が、今も耳に残っている。
命令など滅多にしない男だ。
だからこそ、その言葉は重かった。
賀津にとって、もはや掟となっていた。
もし破れば。
それは裏切りだ。
二度と、拓真の前に立てなくなる。
そう思っている。
だが──。
本当に、このままでいいのか。
雷振筒は使えない。
遠隔爆破もできない。
皆は命を懸けて戦おうとしている。
なのに、自分だけが真実を隠したまま。
それで弓月を守れるのか。
欄干へ出ると、冷たい秋風が頬を撫でた。
山々は深く色づき、紅葉が夕陽に燃えている。
谷には薄い霧が流れ、空はどこまでも高かった。
その美しさが、かえって賀津の胸を締めつける。
「タクミサマ……」
震える声が、風に溶ける。
「どこにいるんだよ……」
握った拳に力が入る。
「早く出てきてくれよ……俺を……みんなを助けてくれ……」
だが、答える者はいない。
ただ秋風だけが、色づく山々を静かに渡っていった。
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