龍影顕現[1]
「それにしても、又兵衛殿と六左殿の目当ても工藤内匠頭とは思いませんでした」
高山の旅籠は、山気を含んだ夜気に包まれていた。障子の外では虫が細く鳴き、遠くで川音がかすかに響く。囲炉裏の火が赤くはぜ、灯りが揺れるたびに、男たちの影が壁に大きく伸び縮みした。
湯で垢を落とした又兵衛と六左は、ようやく人心地ついた様子で胡坐をかいている。とはいえ、傷だらけの身体と節くれ立った手は、どれだけ洗っても隠しきれぬ修羅場の名残を宿していた。
「御坊は酒を飲まぬのか?」
六左が徳利を差し出す。とくとくと、白濁した酒が猪口に満ちる音が心地よい。
玄舜坊はわずかに首を振った。
「これでも飲酒は戒めに触れるのでな」
「殺生はしても酒は飲まんか。変わった坊様だ」
六左は豪快に笑い、酒をあおる。喉仏が上下し、酒気がふっと立ちのぼった。
玄舜坊は静かに座したまま、火の揺らめきを見つめている。
胸中では、すでに算盤が弾かれていた。
(今夜だ)
高山に入った以上、源次郎と行を共にする理由はない。しかも又兵衛と六左──同じく内匠頭を追う者が現れた。自分が姿を消しても、源次郎は彼らと動くだろう。追っては来ぬ。
だから酒は飲まない。酔いは判断を鈍らせる。
決行は、今夜。
「それにしても……」
又兵衛が盃を置き、低く唸る。
「工藤内匠頭の噂が、飛騨では当たり前のように飛び交っているとは思わなんだ。そのくせ、誰一人姿を見た者はおらぬとは」
道中、彼らも人々にそれとなく探りを入れていたらしい。農夫も商人も、まるで季節の話題のようにその名を口にする。だが顔を見た者はいない。
実在するのか、それとも虚像か。
火がぱちりと爆ぜる。
「それにしても、馬借の茂吉に会えたのは僥倖でしたな」
源次郎は頷きながらも、どこか浮き立つ心を抑えきれないでいる。工藤内匠頭──兄の運命を左右するかもしれぬ人物。その背に手が届きそうなところまで来ている。
だが六左は盃を回しながら眉をひそめた。
「出来過ぎじゃねえか? 親方の知り合いに内匠頭に詳しい奴がいる、だと。話が早すぎる」
疑いはもっともだ。
瓢箪屋という酒店を根城にしているという「詳しい人物」。源次郎たちはその到着を待っている。渡りに船。だが船底に穴がないとは限らない。
「又兵衛殿と六左殿は、なぜ内匠頭を?」
源次郎の問いに、又兵衛の眼差しが一瞬だけ冷えた。
関ヶ原。
その二文字が、空気をわずかに重くする。
「痛い目を見たからな。一度その面を拝んでみたいだけよ」
軽く言うが、声の奥に微かな棘がある。
「俺も似たようなもんだ。仇筋ではあるが、顔も知らん」
六左も笑っているが、その笑みは浅い。
源次郎の胸に、不安がよぎる。
(もし……害するつもりなら)
仲介を頼む相手を失うわけにはいかぬ。
「お二人は、内匠頭を害されるお積もりか?」
又兵衛は苦笑した。
「若よ。戦でも喧嘩でもないのに、いきなり斬りかかるほど無法ではない」
「噂じゃ八尺の大男で鬼の豪傑だって話だぞ。そんなのに喧嘩売るかよ」
「いや、俺が聞いた話では虫も殺せぬ青瓢箪だと」
「じゃあどうする兄ぃ。才気あふれる八尺の大男だったら」
「そしたら俺もお前もあの世行きだな」
二人は声を立てて笑う。
その豪放さに、源次郎は奇妙な安心を覚える。
この男たちは、無闇に血に飢えた獣ではない。
玄舜坊はその様子を横目で見ながら、胸の奥で別の計算を重ねていた。
(この二人がいれば、源次郎も心強かろう)
それでよい。
火が揺れ、酒が進み、笑い声が宿の梁に染み込んでいく。
そのとき、襖ががらりと開いた。
「お客さんがた、あんたらに会いたいって人が来たよ」
飯盛り女のお品が、ぶっきらぼうに告げる。働きづめの彼女の目には、昼から酒盛りを続けている男たちはどう映っているのか。
源次郎の胸が、どくりと鳴った。
来たか。
内匠頭へ繋がる糸か、それとも──。
囲炉裏の火が、ひときわ大きく揺れた。
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