美女峠[1]
信濃松本から飛騨へ至る道は二つ。国境の平湯村を抜ける平湯街道と、野麦峠を越える野麦街道。いずれも人の往来を拒む険路であることに違いはないが、道沿いに小さな村が点在する分、野麦街道の方がまだ人心に寄り添っている。もっとも、その分だけ遠回りとなり、旅程は伸びる。安全と日数、どちらを取るか──それは旅人の胸算用次第であった。
真田源次郎信繁と従者の佐助、そして伊達政宗こと玄舜坊の三人が野麦峠を踏み越えたのは、新緑が山肌を淡く染める頃である。尾根筋にはまだ冬の名残りの雪が白く横たわり、吹き下ろす風は冷たい。しかし街道脇では、名も知らぬ草花がひそやかに咲き、土の匂いがやわらかく立ちのぼっていた。凍てついた季節を耐えた山が、ようやく息を吹き返したかのようだった。
人の往来が多いだけあって、関所は平湯街道より多い。だが真田の免状は驚くほど効いた。番士は怪訝そうに三人を見比べるものの、書付に押された朱印を確かめると、あっさりと通行を許す。怪しげな僧形の男と、若武者、そして無口な従者──尋常ならぬ取り合わせであるにもかかわらず、である。片眼狩りの布令がこの山奥に届くのは、まだ少し先のことだろう。
その背後を、黒脛巾衆の忍、眸海が影のように追っていた。距離を詰めすぎず、しかし見失いもせず。彼は政宗の身柄を守るため、片倉小十郎が密かに差し向けた護衛である。旅の折々、玄舜坊と視線を交わし、わずかな合図で状況を共有する。言葉は少ないが、互いの役目は明白だった。主を守るためなら、己の存在など風に溶かすのみ──それが忍の矜持である。
野麦峠は信濃と飛騨の境。峠を越え、さらに五里ほど進めば上ヶ洞の関所があり、そこを抜ければ高山まで大きな障害はない。しかも飛騨と越中はいまや小早川家の支配下、国境とは名ばかりの内地同然だ。すなわち、上ヶ洞を通過した時点で、玄舜坊の「富山湊へ行く」という目論見はすでに成ったも同然であった。
あとは、頃合いを見て源次郎らを巻く──それだけでよい。
「和尚、それにしても飛騨というのは本当に山ばかりだな。信濃も山国とは思っていたが、ここはまるで天地が岩で閉ざされているようだ」
街道脇の石に腰を下ろし、源次郎は大きく息を吐いた。視界の果てまで、うねるような山並みが重なっている。信濃にも似た景色はある。だが飛騨に入ってからというもの、同じ眺めが幾重にも続くせいか、どこか閉じ込められたような、異界に踏み入ったような感覚が胸をよぎる。
「飛騨は鄙(田舎)が転じた名とも申しますからな。都人の目には、よほどの山奥に映ったのでしょう」
「なるほど。これほど人を寄せ付けぬ地なら、工藤内匠頭が隠れ住んでいるという話も、あながち嘘ではあるまい」
無邪気に笑う若殿。その横顔は、疑いを知らぬ光を宿している。
玄舜坊の胸中には、冷えた水が静かに満ちていた。工藤内匠頭の話は、自らが吹き込んだ虚言だ。しかも、自分が旧知であるという出任せまで添えている。ここで姿を消せば、源次郎はこの広大な山中で道標を失うだろう。
だが、良心の呵責は微塵も湧かなかった。
武略の世に生きる者が、この程度の策に絡め取られるのなら、それまでの器量。坊ちゃん育ちの甘さに情をかける理由など、玄舜坊のどこにもない。むしろ、胸の奥では静かな計算が進む。どの地点で別れれば最も自然か。どの道へ逸れれば追跡を断てるか。山の稜線をなぞるように、思考は冷徹に走っていた。
やがて黒川村に差しかかった。飛騨川が運んだ土が、わずかな平地を形作っている。狭隘な土地に、田が刻まれ、苗が風に揺れていた。山に囲まれた小さな命の揺らぎ。人々はこの閉ざされた谷で、黙々と土を耕し、生を繋いでいる。
源次郎はその光景を、どこか眩しげに見つめた。山また山の世界にも、確かに人の営みはある。戦や策謀とは無縁の、素朴な暮らし。己が求める武功とは別の価値が、そこにあるような気がして、わずかに胸がざわめく。
対して玄舜坊の視線は、村ではなく、その先の山道へ向けられていた。
川沿いの平地は徐々に広がり、人煙も増す。美座村を過ぎれば、街道は再び峠へと分け入り、深い木立の中へと消える。その峠を越えれば──高山。
玄舜坊の口元に、誰にも気づかれぬほどの薄い笑みが浮かんだ。
別れの刻は、もう近い。
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