旅立[1]
慶長六年(一六〇一年)三月。紀伊雑賀、片男波の浜辺には、まだ春浅い潮の匂いが満ちていた。
鈴木藤四郎秀勝は、砂に腹ばいとなり、「長竿」の先に据えられたターゲットスコープを覗き込んでいる。視界いっぱいに広がるのは、揺らめく陽炎と、その奥に浮かぶ豆粒ほどの的。二百間先(約三百六十四メートル)──常識外れの距離だ。
だが藤四郎の胸には、不思議なほどの静けさがあった。呼吸は深く、波と同じ律動で整えられている。照準十字の中心に、的を「合わせる」のではない。揺れる世界ごと、己の内に取り込む感覚だった。
背後には百を超える人々が詰めかけていたが、誰一人として声を発しない。ざわめきは消え、聞こえるのは寄せては返す波音と、時折きしむ幔幕の布擦れだけ。無数の視線が背に突き刺さっているはずなのに、藤四郎の意識は銃と的の間に細く張られた一本の線にしか向いていなかった。
太陽がちょうど真上にかかり、海面の反射が一瞬だけ静まる。
──今だ。
思考が言葉になる前に、引き金は落ちていた。
乾いた銃声が浜に炸裂する。遅れて、遠方の的がかすかに跳ねた。
一拍の沈黙。次の瞬間、人々の間にどよめきが走り、やがて歓声が爆ぜる。
「当たりよった! ホンマに当たりよったでぇ!」
「ホンマや! 二百間の的当てなんぞ、ワイは初めて見たわ!」
「内匠頭っちゅうんは、えらいゴツいもんをこしらえよったんじゃのう!」
「藤四郎もどえらい腕前や! 藤弥の倅だけのことはあるわい!」
歓声の渦の中で、藤四郎は静かに息を吐いた。張り詰めていた糸がほどけ、遅れて指先にわずかな震えが走る。長竿に付いた砂を丁寧に払い落としながら、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じていた。それは誇りであると同時に、雑賀の名を背負う者としての重みでもあった。
人々に囲まれながら、藤四郎はやがて幔幕の前へ進み出る。中央に床几を据え、悠然と座る首領格の男の前で、深く頭を下げた。
「実に見事であった。誠に天晴れである」
「はっ。ありがたき御言葉、痛み入りまする」
片膝をつき、頭を垂れたままの藤四郎に、首領の脇に控えていた白髪の老人が、懐かしむように声をかける。
「お主の父が雑賀を出ていったのは、もう二十年も昔のことじゃ。あの時は毛利様の加勢に向かったが……ついに藤弥は戻らなんだ。その息子が、これほど立派になったとはのう」
老人の目元には、潮風とは別の光が滲んでいた。その言葉が胸に落ちた瞬間、藤四郎の脳裏に、幼い頃に聞いた父の背中の記憶がよみがえる。
「宗右衛門様のことは、父から幾度も聞いておりました」
藤四郎は顔を上げ、まっすぐに答えた。
「今の御言葉、父もきっと喜んでおりましょう」
その声音には、確かな自負と、失われた時への静かな弔いが滲んでいた。
藤四郎に声を掛けた首領の名は、鈴木孫三郎重朝という。
豊臣家の旗本にして、雑賀衆を束ねる男。関ヶ原の前哨戦となった伏見城攻略では先鋒を務め、死を覚悟して籠城した鳥居元忠を討ち取った武名は、今なお語り草となっている。
その脇に控えていた宗右衛門と呼ばれた老人は、雑賀衆の長老の一人であり、同時に藤四郎の祖父──藤弥の父であった。
年老いた背は小さくなっていたが、鋭さを失わぬ眼差しの奥には、かつて戦場を渡り歩いた者だけが持つ重みが宿っている。
思えば、雑賀衆が天下にその名を轟かせていたのは、織田信長と刃を交え、毛利家と同盟を結んでいた頃のことだ。
鉄砲の射手たちは毛利方として各地の戦場に派遣され、その凄腕ぶりは織田方の将兵に恐怖を植え付けた。藤四郎の父、藤弥もまた、その中の一人だった。
本能寺の変によって信長が討たれ、毛利家の戦いが終わると、藤弥が戦場に立つ理由も消えた。
それでも彼は帰らなかった。
毛利家の家老、小早川隆景──その温厚で懐の深い人柄に惚れ込み、そのまま小早川家の家臣となる道を選んだからだ。
その頃、藤四郎と母は紀伊雑賀に残されていた。やがて藤弥から呼び寄せられ、二人は安芸広島へと移り住む。
こうして藤四郎は祖父、宗右衛門と別れて以来、実に二十年もの歳月を経ることになる。
「……世が世ならば、雑賀衆の武名を大いに上げたじゃろうに」
宗右衛門は、潮風にさらされた浜を見渡しながら、懐かしむように、そして悔いるように呟いた。
雑賀衆は特定の主君を持たず、郷の有力者たちによる合議で成り立つ異色の武装集団だった。織田信長とも真っ向から戦い、「最強の鉄砲集団」として名を馳せたその名声は、今なお人々の記憶に残っている。
だが、豊臣秀吉による紀州征伐によって雑賀は壊滅した。
今や組織としての実態はなく、「首領」とは言っても、重朝に特別な権限があるわけではない。残っているのは、誇りと記憶、そして寄る辺なき名残だけだった。
龍仙寺衆の組頭として雷名を轟かせた藤四郎は、この日、長老たちに招かれ、雑賀の人々の前で長竿の試し撃ちを披露していた。
それは技を見せる場であると同時に、失われた雑賀の魂に火を灯す儀式のようでもあった。
「工藤内匠頭は雑賀の出と聞いたが……そのような者、儂には心当たりがないのじゃが……」
重朝は長竿を手に取り、木肌や金具を確かめるように、じっくりと眺めながら呟いた。
その視線には、武器そのものへの興味と同時に、それを生み出した人間への探究心が滲んでいる。
「御実家は紀伊様(かつての紀伊国主、畠山高政)にお仕えしておられたと聞きましたが……それ以上のことは、私も存じませぬ」
「左様か……儂も一度、内匠頭に会うてみたかったわ」
重朝はそう言って、名残惜しそうに長竿を藤四郎へ返した。
「何にせよ、雷名轟く龍仙寺衆に雑賀の者がおる。それだけで、雑賀衆の誉れよ。藤四郎には何ぞ褒美を遣わさんとな」
「そのような、滅相もない……」
「なに、雑賀衆に金穀はない。遠慮はするな」
「はっ……」
重朝は一拍置き、浜に集まる人々をぐるりと見渡した。その目に、かつての雑賀を率いた首領の光が宿る。
「今日より、お主は“雑賀孫市”を名乗るがよい。龍仙寺衆には相応しき名じゃ」
「──なんと!」
藤四郎は思わず息を呑み、目を見開いた。
雑賀孫市──その名は雑賀衆随一の名人にのみ受け継がれる称号であり、当代では重朝自身が名乗る、まさに象徴の名だった。
「なんと目出度い! 藤弥の息子が、孫市様とは……なんたる誉れじゃ!」
宗右衛門の震える声を合図に、周囲に集まっていた元雑賀衆たちが、一斉に歓声を上げた。
その叫びは、ただの祝福ではない。滅びたはずの雑賀が、確かにここに息づいているのだという、魂の叫びだった。
藤四郎──いや、新たに孫市と呼ばれた男は、その喧騒の中心で、胸の奥が熱く満ちていくのを感じていた。
それは名誉であると同時に、雑賀という名を背負う覚悟を、否応なく刻み込む重みでもあった。
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