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Last rewrite  作者: 蒼了一


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距離感[3]

「いやー、面白かったね、今日の歌舞伎」


 山崎教授は上機嫌のまま徳利を傾けた。頬はほんのり赤く、目尻の皺まで楽しげだ。


「はい。私も観覧するのは初めてだったんですけど、思った以上に楽しかったです」


 新地の料亭は、しっとりとした灯りに包まれていた。障子越しの柔らかな光が畳を淡く照らし、庭の水音が遠くに聞こえる。先ほどまでの拍子木や掛け声の熱が、まだ体の奥に残っているようだった。


 今日の観覧席とこの店を手配したのは大坂歌舞伎座の支配人だという。舞台の余韻がまだ胸を満たしているせいか、拓真の意識はどこか現実から半歩浮いている。


「支配人さんはいらっしゃらないんですか?」


「あ、なんか用事があってね。あと一時間くらいだって」


 料理の湯気が立ちのぼる。白身魚の椀から漂う出汁の香りが、静かに鼻をくすぐった。


「ボクだって忙しいんだよ~。来月まで休みなしさ」


「大変ですね」


 軽口を交わしていた山崎教授が、ふっと真顔になった。


 その瞬間、空気がわずかに引き締まる。


「そこで忙しいボクから、工藤先生にひとつお願いがあるんだけど」


 酒を飲み干し、ブリーフケースからファイルを取り出す。紙の擦れる音が、妙に大きく聞こえた。


「これは……」


「加賀大学の樫本先生から問い合わせがあってさ……」


 山崎教授は一枚の写真を指差した。


「金沢城の鼠多門を復元改修するために発掘調査をしたんだけど、土の中から出てきたんだって、これが」


 指の差された写真に、拓真の視線が吸い寄せられる。


 木箱の中に整然と収められた六挺の雷振筒。


 心臓が、どくりと鳴った。


 ──見覚えがある。


 あの木箱は、雷振筒を輸送するために特注させたものだ。寸法、木目、留め具の形。間違えようがない。


「なんでこんなモノが……金沢城から……」


 声がわずかに低くなる。


「雷振筒って偽物も多いでしょ? その可能性が高いと思うけどね」


 教授は気軽に言うが、拓真の内側では別の感情がせり上がっていた。


 もし本物なら──それも未使用なら──どんな物語があったのだろうか。


 難波時代の終盤、石田家に残っていた雷振筒は二〇〇挺ほど。戦災や供出で散逸し、全国で現存する真品は一五〇挺前後とされている。そのほとんどは資料館や博物館で厳重に管理され、市場に出回ることはまずない。


 もっとも、骨董市場では雷振筒は根強い人気を誇っている。そのため贋作や精巧な模造品が次々と作られ、市場には千挺以上の数が出回っているのが実情だ。


「これが本物だったら……えらいお宝ですね」


「写真じゃわからないよね。だからさ、金沢に行って見てきてくれない?」


「はあ……私がですか?」


「君なら一発でわかるでしょ」


 確かに、わかる。


 理屈ではなく、触れればわかる自信がある。


「ゼミから助手を一人付けるから」


 その一言に、拓真はわずかに身構えた。


「そうだな……あ、あの子、垣屋日菜。あの子を付けるよ」


「えっ! 垣屋さんをですか!?」


 思わず声が上ずる。


 教授は面白そうに目を細める。


「垣屋勘兵衛の末裔と、工藤内匠頭の生まれ変わりって呼ばれている先生なら、ちょうどいいじゃないか」


「冗談は……」


 苦笑しながらも、胸の奥がざわつく。


 垣屋日菜。


 史料に向かうときの、あの横顔。


 静まり返ったゼミ室で、窓から差し込む午後の光が頬をかすめる。紙をめくる指先は迷いがなく、真剣なまなざしは文字の奥に潜む時代そのものを見つめているようだ。


 ふと顔を上げた瞬間、無防備にこぼれるあどけない笑顔。


 その一瞬に、胸の奥がわずかに揺れる。


 そして──佐名に似た、あの面影。


 そこに思考が触れた途端、拓真は心の内側を強く締めつける。


 それ以上踏み込むな、と。


 惹かれているのは事実だ。


 彼女と過ごす時間が、静かに、しかし確実に自分の中で重みを増している。だがその感情の奥底に、消えない影がある。


 それは、かつて佐名に抱いた想いと、あまりにもよく似ているということ。


 もし自分が日菜を、失われた誰かの代わりとして見ているのだとしたら──。


 それはあまりにも不誠実だ。


 時折、日菜の視線が自分に向けられる。


 研究の相談とは違う、どこか柔らかな光を帯びたまなざし。


 もしかしたら、彼女もまた同じ方向を見ているのかもしれない。


 そうであれば、これ以上ないほど嬉しい。


 だが同時に、胸の奥に重い問いが落ちる。


 自分は、その想いに応える資格があるのか。


 佐名の面影を重ねてしまう自分が。


 過去と現在を、無意識のうちに重ね合わせてしまう自分が。


 日菜は日菜だ。


 誰の代わりでもない、唯一の存在だ。


 だからこそ、距離を保ってきた。


 必要以上に踏み込まず、言葉を選び、私情を押し殺す。


 一研究者としての立場を崩さないこと。それがせめてもの誠意であり、自分なりの矜持だった。


 それでも、視線が交わるたびに、抑え込んだはずの感情が、静かに胸を打つ。


 だが、数日の出張。遠方への同行。


(……冷静でいられるか)


 願ったりの調査だ。雷振筒の真贋を確かめられる機会など滅多にない。


 それでも、同行者の名を聞いたときのこの動揺は、仕事だけのものではない。


「じゃあ決まりだな。未使用の真品だったら大事件だよ」


 教授は楽しげに笑う。


 拓真は静かに息を吐いた。


 金沢行きは避けられない。


 期待と興奮、そして抑え込んでいるはずの感情が、胸の奥で複雑に絡み合う。


 雷振筒よりも厄介なものを抱えてしまった気がして、徳利の底に残る酒を、無意識に見つめていた。

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