距離感[2]
闇を裂くように落ちた一条のスポットライトが、檜舞台を白く浮かび上がらせる。磨き抜かれた床板が光を弾き、そこに立つ主役の姿をいっそう大きく見せていた。
赤銅色の衣装を翻し、工藤内匠頭がぐっと足を踏み鳴らす。客席の空気がぴんと張り詰めた。
「おお、この内匠頭、不肖ながら江戸の内府を討ち果たし、晴れてご家門の誉れ、御目に掛けましょうぞ。それまでは、佐和山の城にて、とくと、とくと……お待ちくだされい!」
大見得を切るその姿は、まるで英雄そのものだった。誇張された隈取、豪奢な衣装、朗々と響く声。観客の熱が一斉に舞台へと注がれる。
隣では、絹のような衣をまとった姫がしなだれかかり、袂で顔を覆っている。
「内匠頭様、この静、いついつまでも御帰還を、千秋の思いで待ちわびておりまする。願わくば、武士の本懐、遂げさせ給え……!」
拍子木が鋭く打たれ、三味線が鳴り渡る。
──住吉屋!
──待ってました!
大向こうの掛け声が飛び、場内が揺れる。
歌舞伎舞台「龍仙寺衆関ヶ原之大戦」。工藤内匠頭が関ヶ原へ向かう、別れの一幕。しかもこの芝居では、三成の娘、静姫との悲恋が物語の軸だという。
客席でそれを見つめる拓真は、膝の上でそっと手を組みながら、なんとも言えない気分でいた。
(……身に覚えは、ないんだけどな。静姫なんていないし……)
誇張された勇壮さも、恋に殉じるような台詞も、どこか遠い。
だが、舞台の上の「工藤内匠頭」が刀を掲げる姿を見ていると、胸の奥に微かなざわめきが生まれる。理屈ではない、説明のつかない感覚。懐かしさにも似た、しかし掴めない影。
終演後。
華やかな余韻を引きずったまま、大阪歌舞伎座のラウンジに足を運ぶと、山崎教授が満面の笑みで待ち構えていた。
「どうだった工藤先生、この舞台の衣装ね~、ボクが監修したんだよ~」
少年のように胸を張る姿に、拓真は思わず肩の力を抜く。還暦をとうに過ぎているはずなのに、その目はいたずらっ子のように輝いている。
(本当に、この人は……)
呆れ半分、愛嬌半分。思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、拓真は素直に口を開いた。
「カッコいい衣装でしたね。鎧兜を使わなかったのも、史実に沿っていて。それでいて舞台映えする工夫があって」
「昔はねー、もっと野暮ったかったんだよ。それを派手に一新したいって言うからさー、ボクに声がかかったわけ」
得意げな口調に、周囲の研究者たちも苦笑する。
「凄いじゃないですか。さすが龍仙寺研究の第一人者」
「だからねー、君にも見てもらいたかったんだよ。気に入ってもらえて嬉しいよ」
「それはもちろん……はは」
舞台は虚構だ。
史実を脚色し、観客の心を震わせるための物語。まして歌舞伎は現実とはかけ離れている。
それでも──あの大見得を切る姿を見たとき、ほんの一瞬だけ、自分の中の何かが応えた気がした。
拍子木の残響が、まだ耳の奥に残っている。
*
この世界に「江戸時代」という呼び名は存在しない。
代わりに人々は、中世から近代へと移り変わる平和だった歳月を「難波時代」と呼ぶ。
石畳を踏みしめながらその言葉を口にすると、どこか潮の匂いが混じる気がする。海運と商いが時代を押し広げ、武と政がせめぎ合いながら形を変えていった時代。歴史書の紙面の向こうに、喧騒と熱気が立ちのぼる。
歌舞伎の起源が出雲阿国であることは変わらない。だが、その花はまず大坂で咲き誇った。
道頓堀の芝居小屋に灯る無数の提灯。三味線の音に混じる観客の笑い声。商人たちの懐の深さが、舞台を豪奢に育てた。
やがて江戸でも独自の歌舞伎が育つ。
荒々しく、粋で、どこか挑戦的な江戸歌舞伎。豊臣家の連枝が治めるその地は、十七世紀半ばには大坂を凌ぐほどの発展を遂げた。第二の首都として人も物も流れ込み、諸大名の屋敷が競うように建ち並ぶ。
とりわけ江戸の強みは、その広さだった。
大坂は埋め立てによって面積を広げながらも、どうしても限界がある。対して江戸は、空と大地が果てしなく続き、拡張の余地をいくらでも抱えていた。街路は放射状に延び、川は整備され、城を中心に都市は膨張していく。
政治の中枢はあくまで大坂が握っていた。
だが文化と商業において、江戸は決して従属する存在ではなかった。むしろ、対抗することで互いを高め合っていたとも言える。二つの巨大な都市が、見えない綱を引き合うように、時代を前へ押し出していた。
難波時代が終焉を迎えるころ、新たな政府は首都を江戸へ移す構想を打ち出す。
だが政治的な均衡は繊細で、各地の利害が絡み合い、結論は容易に出なかった。結局、首都機能は京都に置かれ、大坂は商業の中心地としての道を歩むことになる。
江戸は副首都の地位を保ったまま、しかし一度は「遷都候補」として名を挙げられた誇りを刻むように、その名を「東京」と改めた。
名が変わっても、街の底流にある気概は変わらない。
政治に届かぬなら、文化で示す。商いで示す。
そうして積み重ねられた自負が、いまの東京を形づくっているのだと思うと、ただの都市史の一節が、急に血の通った物語のように感じられる。
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