白雲城[4]
弓月の母の名は、アナスタシアといった。
雪原を渡る風のように澄んだ響きを持つその名は、遠い北の大地の匂いを帯びていた。
彼女が日本へ辿り着いたのは、今から二十年ほど前。
その頃の大陸では、毛皮を求めるロシアの征服が荒々しく進み、黒い土を踏み荒らす馬蹄の響きは、ついには極東の果てにまで及んでいた。
アナスタシアは、コサックの首領、イェルマークに連なる一族の娘であった。征服の行軍に従い、凍てつく河を越え、針葉樹林を抜け、血と硝煙の匂いに満ちた日々を歩んだという。だが、何が彼女を海へと向かわせたのか──追放か、裏切りか、あるいはただ運命の悪戯か──それを知る者は誰もいない。
ただひとり、小舟に揺られ、荒れ狂う波に翻弄され、やがて富山湊へと流れ着いた。
異国の浜辺に倒れ伏したその姿は、まるで雪の精が迷い込んだかのようであったという。
彼女は越中を治めていた佐々成政に保護され、やがて縁あって飛騨の国主、姉小路秀綱の側室となる。
異国の血を引くその美貌は城中の噂となったが、彼女自身は常にどこか遠くを見つめていた。夜毎、窓辺に立ち、北の空を仰いでいたとも伝わる。
やがて一女を産む。
弓月──と名付けられたその子は、母の透きとおる瞳と、美しいの黄金の髪を受け継いでいた。
だが幸福は長く続かなかった。アナスタシアは産後まもなくこの世を去り、弓月が歩み始めるよりも早く、姉小路家は豊臣秀吉の侵攻によって滅亡する。秀綱もまた命を落とし、乳飲み子だった弓月は両親を失った。
やがて金森長近の養女として迎えられ、大切に育てられはしたが、その胸の奥には、言葉にならぬ孤独がいつも沈んでいた。
だからこそ、幼馴染であった氏頼の存在は、彼女にとって救いそのものであった。
十八歳。まだ少女の面影を残す年頃。両親のぬくもりを知らずに育った弓月にとって、氏頼はただの夫ではない。失われた世界を埋める、かけがえのない半身であった。
*
「さらに大納言様は、我らを脅すために……雷振筒で、罪なき村人をなぶり殺しにされたのです……!」
平馬の声は、押し殺した怒号のように震えた。奥歯を噛みしめすぎて血が滲みそうなほど、その顎は強張っている。拳は白くなり、指先がわずかに震えていた。
巡行の折、秀秋は村の老いた者たちを河原へ集め、氏頼らの目前に並べたという。
乾いた冬風が吹くなか、六挺の雷振筒が一斉に火を噴いた。
轟音は山を震わせ、硝煙が川面を覆う。
一瞬で、すべてが終わった。
命の火が消える速さは、あまりにも無慈悲であった。
それこそが恫喝。見せしめ。
逆らえばこうなる──そう言わんばかりの、冷酷な示威である。
「無辜の民を殺し、奥方様まで奪おうとは……金吾め、聞きしに勝る外道ぶりよ……」
慶次郎の瞳にも、怒りの火が宿る。
無関係の身とはいえ、その所業を聞いて黙していられる性分ではない。
沈黙を破ったのは氏頼だった。
「あまりにも理不尽。ゆえに──我らは大納言様と戦う覚悟を決めました」
声は静かだった。だが、その奥に燃えるものは明らかである。
それは怒りだけではない。領主としての責任、そして愛する者を守る決意。
武士であるならば、ここまで愚弄されてなお膝を屈することは、己を殺すに等しい。
だが領主は、ただ一人の武士ではない。家臣も領民も、その背に背負う。
一歩誤れば、すべてを地獄へ道連れにする決断だ。
その重さを、氏頼は理解している。
それでも、選んだ。
「されど……我らには戦の術がござらぬ。ゆえに天下より腕利きの浪人を集めようと……」
「なるほど。そのための工藤内匠頭、というわけか」
慶次郎は頷いた。
名は旗である。強者を呼び寄せる灯火だ。実際、その噂に引き寄せられ、彼自身がここ白雲城へ足を運んでいる。
「慶次郎様! どうか……どうか我らをお助けくだされ!」
平馬、氏頼、そして弓月までもが深く頭を垂れる。
弓月の肩が、わずかに震えていた。
彼女の脳裏には、河原に倒れた老いた人々の姿が焼き付いて離れない。
そして次に並ぶのが自分であるかもしれぬという恐怖。
だが、それ以上に──氏頼を失うことへの恐れが、胸を締めつけていた。
「……これは、参ったな」
慶次郎は苦笑する。
本来の目的は、工藤内匠頭生存の真偽を確かめること。
少なくとも直江兼続への義理は果たした。
あとは自由。
だが──小城を背に秀秋と戦う。
無謀。分の悪い賭け。常識で考えれば退くべきだ。
それでも胸の奥が、久しく忘れていた疼きを覚える。
世は定まり、もはや血の匂いに満ちた戦場は遠い過去。畳の上で穏やかに死ぬのだろうと、半ば覚悟していた身だ。
だが今、目の前には火種がある。
命を削る覚悟をした若者たちがいる。
「……金吾と戦して、その後は?」
「戦の事実をもって大坂に訴え出ます。近江宰相様に仲裁を願い出る所存」
破れかぶれではない。
勝算を織り込んだ策。
ならば──最初の一太刀が、すべてを決める。
「…………承知した。儂はもはや隠居の身。この老骨に出来ることであれば、如何様にもお使いくだされ」
その言葉に、三人は涙を流した。
慶次郎は悟る。
己の死に場所は、ここだ。
*
慶次郎はその日の内に筆を取り、直江兼続へ書状をしたためる。
秀秋の所業、内ヶ島の覚悟、そして六挺の雷振筒。
本来二挺のはずの兵器が六挺。
それをもって村人を虐殺した事実。
上杉が見過ごすはずもない。
まだ証はない。だが火種は確かにある。
筆先が紙を走るたび、慶次郎の胸に久方ぶりの昂揚が満ちていった。
老骨が軋む音さえ、どこか心地よい。
再び、戦の匂いがする。
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