野心昇騰[1]
武者の羽織る南蛮渡来の猩々緋羅紗は、血潮を思わせる深紅を湛え、背に染め抜かれた違い鎌の紋が、吹き抜ける風を孕んで妖しくうねっていた。布は重く、しかしどこか生き物めいて、鎧の背に吸いつくように揺れる。
頭に戴くのは三鍬形後立小星兜。本来、額の上に誇示されるべき立物が、あえて後ろに据えられた異形の兜である。その異様さが、武者の背中に言い知れぬ不吉をまとわせていた。
次の瞬間だった。
武者は、まるで内側から突き破られたかのように喉元を反らし、噴水のごとく鮮血を噴き上げた。赤黒い飛沫が宙に散り、鈍い音を立てて地に落ちる。呻き声すら上げる間もなく、武者は膝を折り、鎧の重みを引きずるように前のめりに崩れ落ちた。
その光景を、ただ茫然と見つめていたのが金吾中納言、小早川秀秋である。
思考は凍りつき、心臓だけが耳を打つほど激しく脈打った。理解が追いつくより先に、恐怖と錯乱が胸を焼き尽くす。
──来たのだ。
徳川家康と交わした、あの密約を咎めに。
秀秋の脳裏には、死してなお睨み据える義父、豊臣秀吉の影がよぎった。あの世から誅を下されたのだ、自分は──。そう思った瞬間、理性は砕け、獣じみた衝動が身体を突き動かした。
彼は約を破り、餓狼のごとく徳川勢へと襲いかかった。
錯乱した秀秋に家臣達が叫ぶ。
死んだのは自分ではない。影武者だ。
ならば──殺される前に、全てを賭して豊家に尽くさねばならぬ。
その思いは狂気じみた忠義となり、結果として秀秋は四ヶ国を統べ、九十八万石を領する大大名へと上り詰めた。
だが、栄華は過去を塗り潰してはくれなかった。
喉から血を噴き出し、音もなく崩れた影武者──栢谷小四郎の死に様は、いまなお秀秋の網膜に焼きついている。
忘れようとすればするほど、鮮明に蘇る。
月に幾度となく、同じ夢を見る。
血の匂い。兜の影。喉を押さえて倒れる小四郎。
そのたびに秀秋は息を荒げ、兄の典膳を呼ぶのだ。
「典膳……また、小四郎が現れたぞ……」
掠れた声で訴える秀秋の背を、典膳は黙ってさすり、何もない中空を睨みつける。
「小四郎! いつまでそこにおる! 殿は必ずや貴様の無念をお晴らしくださる! 殿を信じてさっさと成仏せい!」
そう叫び、厳かに九字を切る。
無論、ただの茶番に過ぎない。だが、この儀式だけが、秀秋の心を一時の安らぎへと導く。
やがて秀秋は再び眠りに落ちる。
典膳はその寝息を確かめると、表情を消し、そっと控えの間へと身を引いた。
闇の中、誰にも見られぬ場所で、彼だけが知っている。
あの血の噴き上がる光景が、決して消えぬことを。
*
三年前、関ヶ原の戦場で小荷駄方の足軽頭に過ぎなかった栢谷典膳は、いまや主君、小早川秀秋の側用人として、城中に確固たる居場所を得ていた。
弟の縁故で拾われた新参者と蔑まれていた男が、今は畳敷きの奥座敷を音もなく歩く。その変貌は、誰の目にも異様に映った。
俸禄は三千石。家老や年寄衆に比べれば決して高くはない。だが、秀秋に直接言葉を届け、命を取り次ぐ役目を担う以上、その影響力は数字では測れなかった。
城内では囁かれる──「典膳に嫌われれば、殿への道は閉ざされる」と。
なぜ、ここまでの出世が許されたのか。
まず外せぬのは、影武者として死んだ栢谷小四郎の兄であるという一点だ。あの血塗られた忠義の記憶が、秀秋の心に深く食い込んでいることを、典膳は誰よりも知っていた。
だが、それだけではない。
最も重く見られたのは、この男だけが秘めている「力」であった。
──栢谷典膳は雷振筒を調達できる。
小早川家でも、ごく限られた者しか知らぬ極秘である。
石田家が独占する超兵器、雷振筒。それを、なぜかこの男だけが手に入れられる。
その始まりは、関ヶ原の混乱の最中だった。
死と叫びが渦巻く戦場で、典膳は偶然にも六十挺の雷振筒と、二万一千六百発もの弾丸を手に入れた。奇跡とも、悪運とも言える出来事だった。
だが典膳は、それを天からの授かり物とは思わなかった。
──これは天佑だ。
己が這い上がるための、唯一の助けだと確信した。
雷振筒に興味を抱かぬ大名など存在しない。
戦が終わるや否や、諸大名は血眼になってこの鉄砲を欲した。しかし、保有しているのはただ一人──石田三成のみ。
戦後処理が落ち着くと、雷振筒の譲渡を求めて諸侯は三成のもとへ殺到した。だが、分け与えられた数はごくわずかで、戦力と呼べる代物ではない。
五大老の中でも最上位に位置する毛利と上杉、この双璧の両家に四挺ずつ。宇喜多と小早川には二挺ずつ。
その他の大名は原則として一挺のみ。それも東軍との戦で功績を挙げた者に限られた。
五大老以外で二挺を譲られたのは、大谷吉継と真田昌幸、この二名だけである。
その価値は、もはや黄金を超えていた。
市場に出回ることはなく、石田家からの譲渡以外に入手の道はない。雷振筒とは、力そのもの──そして禁忌だった。
しかし。
その不可能を、栢谷典膳だけが成し遂げた。
誰にも知られぬ経路。誰にも見せぬ取引。
雷振筒の黒光りする銃身を前に、典膳はただ静かに思う。
──力とは、掴んだ者のものだ。
忠義も、名誉も、恐怖さえも、すべてはその先に従うに過ぎない。
こうして栢谷典膳は、主君の寝所に最も近い場所に立つ男となった。
血で得た地位は、血でしか守れぬことを、誰よりも深く理解しながら。
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