毒蛇[3]
栢谷家は、備前に根を張る古い豪族であった。
戦国期の備前は、常に強国の影にさらされてきた地である。西からは毛利、北からは尼子。そして東からは新興勢力の織田。大勢力に囲まれ、踏みにじられかねぬこの国を、長きにわたり支配したのが宇喜多直家であった。
直家という男は、剣よりも策を好み、義よりも利を尊んだ。
自分が生き残るためとあらば、どれほど卑劣と罵られようと躊躇しない。
毒、偽書、密約、謀殺──。
その手にかかった者は敵将にとどまらず、時には主筋、時には縁者すら含まれた。
直家に葬られた人間の数を正確に数え上げることなど、もはや不可能である。
その名は「梟雄」として諸国に轟き、後の世では戦国三大悪人の一人に数えられるほどである。
典膳の父、栢谷弾正は、その直家に仕えた男だ。
表に立つことはなく、しかし影に回って数多の謀を支え続けた。
人を人とも思わぬ策謀の数々。
それに長く身を浸したせいか、弾正の心は摩耗し、そして──その歪みは、子である典膳にも確かに受け継がれた。
典膳にとって、人の価値は「使えるか否か」でしかない。
情や義理は、判断を鈍らせる邪魔物であり、人を欺くことに良心の呵責を覚えたこともない。
むしろそれを「才」と信じて疑わなかった。
(己こそは、知謀に満ちた選ばれし者)
それが、典膳の揺るがぬ自己評価であった。
やがて直家が没し、宇喜多家の家督は秀家へと移る。
ほどなくして、弾正も世を去った。
時代は変わった。
もはや宇喜多家は、謀略のみでのし上がる一介の戦国大名ではない。
秀吉の猶子として育てられた秀家は、五大老に列せられ、宇喜多家は天下に名を連ねる大大名となった。
だが──。
稀代の謀略家が積み上げた家は、決して盤石ではなかった。
家中には、古くからの重臣がはびこり、それぞれが己の利権を守るために水面下で牙を剥く。
若い主君、秀家は軽んじられ、時に蚊帳の外に置かれることさえあった。
忠義を口にしながら、腹の底では互いを探り合う。
宇喜多家の内情は、静かな腐臭を放つ沼のようであった。
典膳は、その只中に身を置いていた。
表では従順な家臣。
裏では糸を引き、耳を集め、謀を張り巡らす。
この世界で生き残る術を、典膳は父の背中から学んでいた。
*
「……蛇のような男だ」
弾正は、生前ふとした折に、息子の典膳をそう評したことがある。
確かに、その容貌は人よりも爬虫類を思わせた。
切れ長の目は瞬きが少なく、口元は常に固く閉ざされている。
喜怒哀楽が顔に浮かぶことは稀で、相対する者はその無表情の奥に何が潜んでいるのかを読み取れず、自然と距離を置いた。
若年の頃から、典膳は冷酷だった。
家中の小者や下働きの者たちは、理由も分からぬまま彼を恐れた。
怒鳴ることも、手を上げることもない。
それがかえって、彼の不気味さを際立たせていた。
ある春の日、離れの軒下に燕が巣をかけた。
卵から孵ったばかりの雛が五羽。
か弱い鳴き声を上げるその姿を、女中や下男たちは微笑ましく見守り、仕事の合間に足を止めては世話を焼いていた。
──だが。
まだ十にも満たぬ典膳は、ある日わざわざ竹棒を持ち出し、無言で巣を叩き落とした。
地に落ちた雛は、逃げる術もなく、次の瞬間には踏み潰されていた。
血と羽毛が散り、悲鳴が上がった。
怒りに震えた乳母が典膳を問い質したとき、彼は眉一つ動かさず、淡々と言い放った。
「……あの巣があるせいで、皆の仕事がおろそかになった。用もないのに離れへ行く者まで出ていた。斯様な怠惰は見過ごせぬ。ゆえに、父上に成り代わり、巣を成敗した」
そこには悪意も、後悔もなかった。
ただ、当然の処置を述べるかのような声。
この話を聞いた弾正は、一瞬だけ目を見開いたが、結局叱ることはしなかった。
やり方は残酷だが、動機は理に適っている。
目的のために手段を選ばぬ──それは、宇喜多直家の下で生き抜く者に必要な資質でもあった。
弾正自身もまた、人として歪んでいた。
*
やがて栢谷の家を継いだ典膳は、その血筋に恥じぬ働きを見せる。
謀略の家の子らしく、重臣たちの懐に巧みに入り込み、表に出ぬ仕事を引き受けていった。
当時の宇喜多家では、長船紀伊守、戸川肥後守、岡越前守──三人の家老が家政を握り、主導権を巡って水面下の争いを続けていた。
彼らは時に対立し、時に手を結びながら、互いの隙を狙っていた。
典膳は、その三人すべてに近づいた。
表向きは中立。
だが裏では、長船紀伊守の配下として他二人の動きを探り、同時に戸川肥後守にも追従し、長船の内情を流す。
二重、三重に張り巡らされた糸。
危うい均衡の上で、典膳は生きていた。
(……俺は、操っている)
気づけば彼は、自らを黒幕のように錯覚し、その幻想に酔っていた。
だが、その夢は唐突に断ち切られる。
慶長三年八月十六日。
伏見の町中で、弟、栢谷将監が惨殺された。
斬ったのは石田家家臣、垣屋勘兵衛。
だがその直前、将監は戸川肥後守との関係を疑われ、紀伊守配下の高橋主膳に追われていたという。
弟の死を聞いた瞬間、典膳は悟った。
次は、自分だと。
その日のうちに、身内とわずかな小者だけを引き連れ、宇喜多家を逐電した。
迷いはなかった。
追及が及べば、もはや逃げ場のない深みまで踏み込んでいたからだ。
あまりにも鮮やかな逃走だった。
まるで、この事態を前から想定していたかのように。
その後しばらく、山城の寒村に身を潜めながらも、典膳は次の仕官先をすでに見据えていた。
──小早川家。
かつて伏見城で、偶然目にした小早川秀秋の顔。
その時の衝撃を、典膳は忘れられなかった。
当時十六の秀秋の容貌が、同い年の弟──小四郎と、あまりにも似通っていたからだ。
(……天が与えた好機だ)
そう確信した典膳は、弟を売ることを躊躇しなかった。
そしてその選択が、小早川家への仕官を現実のものとしたのである。
蛇は、静かに棲み処を変えた。
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