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Last rewrite  作者: 蒼了一


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大黒天[3]

「工藤先生、この前の調査のレポート、持ってきました」


 研究室のデスクに座り、先ほど渡された注釈に黙々と目を走らせていると、扉の向こうから女子学生の声が届いた。


 聞き覚えのある声だと分かった瞬間、拓真の胸がわずかに強張る。意識しないようにしながら、ゆっくりと息を吸い、吐いてから返事をした。


「ご苦労さん。入って」


 声の主は垣屋日菜だ。


 城州大学四回生にして、山崎教授のゼミ生。扉が開かれると同時に、初夏の風が研究室をすり抜け、紙と埃と、外の青い匂いを運び込んでくる。


「また、窓全開ですか?」


「自然の匂いが好きなんだよ。特にこの季節は、閉めてると勿体なくてさ」


 拓真は少し照れたように笑い、開きすぎていた窓ガラスをほんのわずかだけスライドさせた。


 一六〇〇年から帰還した拓真の身体には、いくつかの変化が残っていた。どれも日常生活に支障をきたすほどではない。だが、嗅覚だけは以前よりも明らかに鋭くなっている。


 木の匂い、湿った土の香り、流れる水の気配──ふとした瞬間、それらが無性に恋しくなるのだ。


「突風が来たら、どうするんです?」


 日菜の視線が室内を一周する。


 研究室には資料やペーパーが無秩序に積み上げられ、全体としては、きれいに見せようとする努力を放棄した空間だった。片づけなければならない一歩手前で、奇跡的に均衡を保っている。


「大丈夫。要所要所に重しを置いてあるから。台風クラスじゃなきゃ飛ばないよ」


 実際、風の通り道になる場所の資料の上には、石や分厚い辞書が無造作に置かれている。


 それは龍仙寺にいた頃、幾度も山中での生活を経験する中で身につけた感覚だった。今では、窓の位置と大きさを見るだけで、風がどう流れるかをほぼ正確に読み取れる。


「そうですか……まあ、先生がいいなら、それでいいんですけど」


 呆れと諦めが混じった表情で、日菜はレポートを差し出した。拓真はそれを受け取り、軽く礼を言う。


 垣屋日菜は、かつて拓真と共に龍仙寺衆を創設した垣屋勘兵衛元綱の末裔だ。


 その容姿は、勘兵衛の妹──佐名に、驚くほどよく似ている。


 初めて彼女と対面したときのことを、拓真は今でも鮮明に覚えている。


 もう二度と会えないはずの佐名の面影が重なり、抑えていた感情が一気に溢れ出した。気づけば彼は、人目もはばからず、その場で泣き崩れていた。


 初対面としては最悪の醜態だった。


 だが、災害に遭ったことによるPTSDだと説明すると、日菜は事情を深く汲み取り、拓真に同情の眼差しを向けてくれた。


 当時は城州大学の一回生だった彼女も、いまでは四回生。


 同じ研究室で机を並べるようになった今でも、拓真は時折、彼女の横顔に過去と現在が重なって見える瞬間がある。


 そのたびに、胸の奥で、名もつけられない感情が静かに疼くのだった。


「それ、教授に頼まれたんですか?」


 日菜の視線が、拓真の手元にある紙束へ向けられる。


「え、ああ……目を通してほしいって言われて」


「また教授の無茶振りなんでしょ?」


「ん……まあ……教授にはいろいろ世話になってるからさ」


 言いながら、拓真は自分でも言い訳めいた響きを感じていた。


「教授って、工藤先生のこと本当に便利に使ってますよね~」


「まあ、城州大学(ここ)|にいられるのも教授のおかげだし。それに、龍仙寺の資料もたくさん見せてもらってるから……」


「……先生って、ほんと変わってますよね」


「そ、そうかな?」


 戸惑うように笑う拓真を見て、日菜は小さく肩をすくめた。


「そういえば、資料といえばなんですけど。今度、清蓮寺ってお寺が蔵を建て替えるらしくて、垣屋家に関係する収蔵品がいろいろ出てきたみたいなんです」


「清蓮寺って、たしか仙寿院の脇寺だったっけ。一度、連れて行ってくれたよね」


 その名を口にした瞬間、胸の奥にかすかな重みが生まれる。


 仙寿院──彦根にある古刹で、龍仙寺衆とも縁が深い。垣屋家の菩提寺であり、院内には工藤広真の墓がある場所だ。


「あの時は、人がいっぱいで大変でしたよね。普段は、あんなに騒がしいところじゃないんですけど」


「あの日、ちょうど工藤広真の命日だったって言ってたからね。でも、旧暦だと本当はもう少し後なんだけど」


 拓真は、言葉を切った。


 自分の墓を、生きたまま拝むことになるとは──当時の自分には、想像すらできなかった。


 日菜に連れられて仙寿院を訪れたのは、九月十五日。


 関ヶ原の戦いが起き、工藤広真が討ち死にしたとされる日だ。四百年が過ぎた今もその人気は衰えず、境内には数百人の参拝者が集まり、墓前で祈りを捧げていた。


 墓の周囲は丁寧に掃き清められ、千羽鶴や花束が絶えることなく供えられている。


 呆然と立ち尽くしていた拓真は、墓参りに来た中年女性から「早くどいて」と叱られた。


 それ以来、仙寿院を訪れることに、どうしても気が進まなくなっている。


「今度の週末、一緒に行きませんか?」


「えっ、今週?」


「あ、予定とかありますか? そうですよね、先生、忙しいですもんね」


 日菜の声が少しだけトーンを落とし、表情に残念さが浮かぶ。


「いや、空いてるよ。ただ……いきなり行って大丈夫かなって」


「実は、父に先生を連れてきてくれって、何度も言われているんです」


「お父さんが?」


 垣屋日菜の父、誠司。


 彦根市役所で課長を務める傍ら、郷土史研究に並々ならぬ情熱を注ぐ人物だ。特に龍仙寺衆の話題になると歯止めが利かず、拓真もまた、彼の中に勘兵衛の面影を見出してしまい、いつまでも話し込んでしまう。年齢差はあっても、互いに研究者として敬意を払える相手だった。


「清蓮寺から出てきた史料を、ぜひ見てほしいって……もう、しつこくて」


「……そっか。それなら、行かない理由はないな」


 清蓮寺は仙寿院の脇寺で、尼寺だ。


 史料的な裏付けは乏しいが、垣屋家の菩提寺に連なる以上、佐名と無関係とは考えにくい。もし今回発見された史料の中に、彼女につながる手がかりがあるとしたら──。


 拓真は、期待しないよう自分に言い聞かせながらも、その可能性を思わずにはいられなかった。


「じゃあ、週末はOKってことで。父に連絡しておきますね。土曜の九時に、私の車で迎えに行きますから!」


 弾むような日菜の声に、拓真は静かに頷いた。


 胸の奥で、過去と現在が、またひとつ交差しようとしていた。

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