侵入者[2]
「で、騒動って何があったんだ?」
おてんはしばらく黙り込んだが、心配そうに見つめる賀津の顔に、意を決したように口を開いた。
「……五日前、宿の前で刃傷沙汰があったんです」
「刃傷沙汰!? そりゃ穏やかじゃねえな。どうしてそんなことに?」
「加納のお殿様の御家来が……ウチに泊まっていた御浪人に、切られて……」
賀津は思わず眉をひそめた。
「うわ……とんでもねえな、そいつは」
「でも、違うんです!」
おてんは思わず声を強め、慌てて言葉を継いだ。
「その御浪人さんたちは……お侍に絡まれていた私を、助けてくれただけで……」
六左に斬られた槇村彦之丞は、殿の覚えもめでたい若侍だった。だがその寵愛を笠に着て徒党を組み、町では悪名の方が先に立つ存在だった。今回の一件に、胸のすく思いを抱いた町人が少なくなかったのも事実だ。
しかし、家臣を一方的に殺された織田家としては、見過ごすわけにはいかない。すぐに捜索が始まり、東山道や東海道に追っ手が放たれた。だが、浪人の足取りはいまだ掴めていない。
又兵衛の始末が手際よかったおかげで、鮎屋は咎められることはなかった。とはいえ、店先が事件現場になった以上、しばらくは積極的に客を取らぬよう申し合わせがなされた。今は細々と営業を続けながら、又兵衛が残していった一両の小判と、町人たちの同情で寄せられた米や野菜で、なんとか日々を凌いでいる。
「──そっか。じゃあ、その浪人たち、悪い奴じゃねえんだな」
賀津の声は、先ほどまでの軽さを失い、少し落ち着いた響きを帯びていた。
「はい……とっても、優しくて……」
おてんは胸元で指を絡め、小さくうなずく。その表情には、まだ恐怖の名残と、それ以上に強い感謝が入り混じっていた。
「でもさ……いきなり首を飛ばすってのは、おっかねぇ話だなぁ」
「本当に……私なんかのために……」
言葉の端が震える。自分が呼び水になった出来事を思い返すたび、胸の奥が締めつけられるのだろう。
「おてんちゃんは悪くねえよ」
賀津はきっぱりと言った。
「それに、そのうちほとぼりが冷めりゃ、宿も元通りだ」
慰めのつもりだった。だが、その言葉を受けた瞬間、おてんの顔に、ふっと翳りが落ちる。
「……実は、他にも困ったことがあって……」
「他にも?」
おてんは答えず、静かに立ち上がると、窓の方へ歩み寄った。行灯の灯りを背に、障子越しに外を見やる。
「裏の蔵が……」
賀津も視線を追う。宿の裏手、斜め向こうに立つ蔵は、闇の中でもはっきり分かるほど傾いていた。柱は歪み、屋根は沈み込み、今にも重力に負けて崩れ落ちそうだ。
「あれが、いよいよ危ないみたいで……。もしウチに倒れてきたら大変だって、宿場でも問題になってて……」
戦で焼け落ちた商家。家主一家は行方知れずのまま、崩れかけた母屋と蔵だけが取り残されている。危険なのは誰の目にも明らかだが、解体する人手も金もない。問題を先送りにした末、朽ちた蔵は、今や鮎屋に覆いかぶさる寸前まで迫っていた。
夏はどうにか越えられるかもしれない。だが、秋の嵐が来れば──持ちこたえられる保証はない。
「だから……おかあ……女将さんと一緒に、鮎屋を閉めようかって話になってて……」
「ふうん……」
賀津は低く唸り、窓越しに蔵を見つめた。歪み、傾き、支えを失った木組み。その形は、どこかで見た光景を思わせる。
しばらく、何も言わない。頭の中で、距離や角度、倒れる方向を無意識に測っていた。
「……もしかしたらさ」
ぽつりと、独り言のように漏らす。
「あの蔵を、うまく倒すくらいなら……俺にできるかもしれねぇ」
「えっ!?」
おてんは思わず声を上げ、賀津を見た。冗談を言っているようには、とても見えない。
「美味い鮎の礼ってわけじゃねえけど」
賀津は軽く肩をすくめる。
「明日、ちょっと蔵を見せてくれよ」
「は、はぁ……」
侍姿の女というだけでも十分に珍しい。その上、宿場の大人たちが長年手を出せずにいた蔵を倒す。などと言い出すとは──おてんの頭は追いつかない。
その夜、賀津は荷を解くと、黙々と作業を始めた。
道具を広げ、火薬の量や導火の長さを思案しながら、夜更けまで。行灯の灯りの下、彼女の横顔には、先ほどまでの旅人の気安さはなく、仕事師の静かな緊張だけが宿っていた。
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