関ヶ原[1]
そこは地獄だった。
神も仏も関与しない、人の手で作り上げられた地獄。
大地は無惨にも踏み荒らされ、騎馬武者の骸、鎧ごと潰れた足軽の屍が折り重なっている。血と泥が混じり合い、もはや土の色すら判別できない。鼻腔を刺す血と鉄と硝煙の臭いに、喉の奥がひくりと引き攣った。
足の踏み場も見つからない。
どこへ視線を向けても、そこにあるのは死だけ。
男はただ一人、その惨状の中心に佇んでいた。太刀を握るでもなく、逃げ出すでもなく、抜け殻のように立ち尽くし、呆然とその光景を見渡している。
「……兵衛ェ──」
どこからともなく、掠れた声が聞こえた。
「……イショォ──」
「……ごろうろぉ──」
聞き覚えのある声。
呼ばれるたびに胸の奥が締めつけられ、息が詰まる。
次の瞬間、地面が蠢いた。屍の隙間から、無数の腕が伸び上がり、男の足首へ、脛へと絡みつく。冷たく、重く、逃がすまいと縋りつく指。
それでも男は動かなかった。
恐怖も拒絶も、もはや意味をなさない。
ただ、両の眼から滂沱の涙が溢れ落ちる。
嗚咽は喉の奥に沈み、声にならぬまま、地獄の底へと吸い込まれていった──。
「…………はっ!?」
喉を引き裂くような息とともに、男は跳ね起きた。
夜明け前の今須宿。旅籠の一室は薄暗く、障子越しに白み始めた空が、ここが現実であることを辛うじて告げている。全身は汗で濡れ、心臓の鼓動が耳鳴りのように響いていた。
「……なんだ兄ぃ、また悪ぃ夢でも見たのか?」
隣で横になっていた男が、両目を閉じたまま眠たげな声を投げかける。
「えっ……ああ……そんなところだ……」
そう答えながら、男は視線を彷徨わせた。天井、柱、畳。どれもありふれた旅籠の景色。それでも、先ほどまでの血の色が、まだ視界の端にこびりついている気がしてならない。
「今日は加納まで行くんだぜ。もう少し休まねぇと、しんどいぜ」
「……ああ、そうだな」
男は再び横になり、重い瞼を閉じた。
だが眠りは遠い。
かつて目にした地獄の光景は、今もなお、脳裏に焼き付いたまま居座り続けている。
*
「しっかし、今日はよい天気じゃ。まさに日本晴れじゃのう」
春の日差しが容赦なく降り注ぐ関ヶ原を、二人の男が並んで歩いていた。
六左は、隣を行く又兵衛にも、あるいはこの地そのものにも聞かせるかのように、わざとらしく朗らかな声を張り上げる。
柔らかな光に包まれた野は、芽吹いたばかりの若草が風に揺れ、どこまでものどかだ。三年前、この場所で十万の兵が刃を交えたとは、とても思えぬほどの静けさである。
「何がそんなに楽しいものかよ、六左」
又兵衛は低く言い、軽く眉を寄せた。
この地を踏みしめる足裏に、いまだ消えぬ記憶がまとわりついて離れない。
関ヶ原。
天下の趨勢を決した大戦の地。いまだに鍬で掘り返せば骨が出るような場所だ。吹き抜ける春風が、ふとした拍子に血の臭いを運んでくる錯覚に、又兵衛は無意識に鼻をしかめた。
「今日は加納宿じゃぞ。ここしばらく、しみったれた宿場ばかりで楽しめなんだ。あそこは美女揃いと聞くぞ。兄ぃも楽しみじゃろ?」
「……儂はそんな気には成れんわい……ここは関ヶ原じゃぞ」
言葉はそっけなく、感情を押し殺すように吐き捨てた。
陽光の眩しさが、かえって胸の奥を冷やす。
二人は古い馴染みではない。深い縁があるわけでもない。
出会ったのは二月ほど前、大坂の酒場だった。酒の勢いで意気投合し、気まぐれのように連れ立って旅を始めただけの関係だ。互いの素性も、過去も、深くは語っていない。
そして又兵衛には、六左にまだ語っていない名があった。
後藤隠岐守基次。
関ヶ原の戦いにおいて黒田家の先鋒を務めた武将。
手塩にかけて鍛え上げた兵たちは、開戦と同時に龍仙寺衆の前に立ち、そして、瞬く間に潰えた。
明け方に見た悪夢の光景は、決して誇張ではない。戦いが終わり、夕暮れの黒田陣跡地に戻った又兵衛の眼前に、確かに広がっていた現実そのものだった。
雷振筒──未知の兵器の存在を知らなかったとはいえ、先鋒ならば持ち堪えると過信したのは、自身の不覚にほかならない。
主君、黒田長政に撤退を進言せず、独断で陣を引く決断をしなかった。
もし、あの時──。
後悔は思考の隙間に入り込み、決して離れようとしない。
長政は関ヶ原を離脱した後、桑名で東軍総崩れの報を聞き、そのまま高野山に登って出家した。
師であり、長政の父である黒田官兵衛──如水は、九州の地で東軍の旗を掲げ、大友義統を破るなど武功を挙げたが、関ヶ原の結末を知るや、即座に降伏し蟄居した。
その結果、黒田家は改易。
如水には一万五千石の隠居料が与えられ、住まいは京都山科の郊外に移された。
主家を失い、家臣も、同輩も、守るべき名もすべて失った。
後藤又兵衛は、ただの素浪人となり、春の関ヶ原を歩いている。
穏やかな陽光の下、過去だけが、今もなお彼の足を重く縛り続けていた。
読んでくださり、本当にありがとうございます!
この作品を「続きが気になる」と思っていただけたら、
ぜひブックマークとポイント評価をお願いしますm(_ _)m
応援が増えるほどヤル気が爆上がりします……!
感想も一言でもくれたら即返信+X(旧Twitter)で感謝ポストします!
次回もよろしくお願いします!




