無苦庵殿[3]
「さて……そろそろ、お話を伺いましょうかな」
酒瓶の封を切ってから、すでに小一時間。互いの口元がすっかり緩み、場の空気が温まった頃合いを見計らって、慶次郎がふと声を落とした。冗談めいた調子の裏に、鋭い勘が覗く。
「なに……つまらぬ噂なのだがな……」
兼続は盃を置き、雪の向こうに一瞬だけ視線を投げた。白一色の景色が、かえって胸中の不穏を際立たせる。やがて静かに口を開き、集めた情報の断片と、それを繋ぎ合わせた自身の見解を、噛みしめるように語り始めた。慶次郎はただ黙って盃を傾け、その言葉の行間に潜む重みを、雪の静けさとともに受け止めていた。
「工藤内匠頭……」
慶次郎はその名を、噛みしめるように呟くと、手にした盃を一息に干した。面識などない。だが、その名と結びつく“力”は、嫌というほど身体に刻まれている。
雷振筒——戦後、上杉家に譲渡されたのはわずか四挺、弾丸も二百四十発に過ぎない。実戦で使えば一戦も持たぬ数だ。だが、威力を誇示するには十分すぎる代物だった。
その試し撃ちの日、慶次郎は兼続と並んで立ち会っている。引き金が引かれた瞬間、空気を引き裂く轟音が山々に反響し、放たれた弾丸は標的を無惨に砕き散らした。
粉々に弾けた鎧と木片と土埃を前に、胸の奥に湧き上がったのは、単なる感嘆ではない。衝撃と恐怖が、底知れぬ混濁となって入り交じる感嘆——それを、慶次郎はいまも昨日のことのように覚えている。
石田三成は、この雷振筒を五百挺以上保有している。そのうち百挺ほどを諸大名や豊臣家に譲渡したとはいえ、石田家がなお天下最強の武力を有していることに疑いはない。
「これほどの筒があるのなら、治部殿が天下人を目指しても、おかしくはなかろうに……」
試し撃ちの折、慶次郎が思わず漏らしたその一言を、兼続が即座にたしなめたことも思い出す。だが、その感想は何も慶次郎一人のものではなかった。雷振筒の威力を目の当たりにした大半の武人が、同じ思いを抱いたはずだ。
しかし三成は、その力を己の野心のために使うことは、ついぞなかった。あくまで己を律し、豊臣家の家臣としての分を弁え、異様なほどの潔癖さを貫いた。その姿勢こそが、平懐者の平懐者たる所以であり、だからこそ諸大名もまた、三成が龍仙寺衆を抱えることを是認し、ある種の安堵すら覚えたのだ。
「近江宰相様以外の者が、大量の雷振筒を手にするとなれば……それは、天下の一大事ですなぁ」
慶次郎は深いため息とともにそう呟いた。兼続は、その言葉を否定することなく、静かにうなずく。
「この噂の出所が、また厄介でしてな…………飛騨にござる」
「……飛騨。それはまた……」
本州の中央、深い森と険しい山々に囲まれ、平地は信濃よりもはるかに少ない。石高は三万八千石——国土の広さに比して、ほとんど無きに等しい土地である。
かつては豊臣秀吉の幕下として知られた金森長近の支配下にあったが、長近が東軍に属したため、関ヶ原後にその領地は没収された。そしていま、飛騨を治めているのは五大老の一人、小早川秀秋である。
「金吾様と工藤内匠頭……それは、あまりよい食い合わせではありませぬな」
「然り」
金吾——小早川秀秋は、関ヶ原において阿修羅のごとき働きを見せ、大谷吉継とともに徳川勢を打ち破った。その戦功から、己は関白にまで昇るものと信じて疑わなかったが、戦後ほどなく家康との内通が露見し、その望みは霧散した。
それでも、加賀、能登、越中、飛騨の四ヶ国、石高九十八万石を与えられ、五大老に列する大大名となり、いまや加賀大納言と呼ばれている。
中納言から昇進した以上、もはや「金吾」ではない。だが、世間はいまなおそう呼び続ける。その呼び名には、人品の軽薄さへの軽い嘲りと、拭いきれぬ不信感が入り交じっていた。少なくとも——信用に足る人物ではない。それが、小早川秀秋に対する世評である。
「無苦庵殿には、ぜひこの噂の根を探っていただきたく……」
兼続の声は低く、しかし切実だった。
「待て待て、城州殿。この年寄りに、そんな仕事を任せるのか? 儂は仮にも隠居の身だぞ」
慶次郎は肩をすくめ、半ば冗談めかして応じる。だが、その目はすでに、話の重さを測っていた。
「無苦庵殿ほど世知に長け、信の置けるお方は、天下を探してもおりませぬ。どうかこの兼続を助けると思って、なにとぞ……」
兼続が拝むように頭を下げると、慶次郎は「参ったな」と言わんばかりの表情を浮かべた。天下の直江兼続に、ここまでされては、断れるはずもない。
「…………探るだけでござるよ。工藤内匠頭は探さぬよ。それでよいか?」
「おお、それで十分。無苦庵殿が飛騨へ赴いてくださるなら、拙者は枕を高くして眠れまする」
「大袈裟な……」
慶次郎は苦笑し、再び盃に口をつけた。若き親友のために一肌脱ぐのも、悪くはない。退屈な隠居暮らしに差し込んだ、久方ぶりの刺激でもある。
こうして前田慶次郎利益は、なお雪深い飛騨路を下り、その首都、高山へと向かった。
——工藤内匠頭が、飛騨にいる。
その噂が世間に広まる、数ヶ月も前のことである。
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