無苦庵殿[2]
だが同時に、その噂を放置しておくことも出来なかった。
万が一——ほんの万が一でも、それが事実であったなら。工藤内匠頭という名は、あまりにも強すぎる。野心と不満を抱えた者どもを引き寄せ、再び天下に大乱をもたらすには、これ以上ない火種となるだろう。
兼続は降り積もる雪の向こうに、まだ見ぬ騒乱の影を見た気がして、無意識のうちに拳を握り締めていた。
「これは一つ……無苦庵殿のお力を借りる他あるまい……」
独りごちた兼続の声は、障子越しに差し込む冬の光に吸い込まれるように、静かに消えた。思案に沈むほど、脳裏に浮かぶ顔は一つしかない。
常道では辿り着けぬ場所に、軽々と足を踏み入れてしまう男。
理と算盤の届かぬところを、天衣無縫に踏み越えてくる男。
無苦庵とは、春日山の麓、人の往来からわずかに外れた場所にひっそりと佇む小さな庵である。萱葺きの屋根は風雨に晒されて色褪せ、土壁はところどころ剥げ落ちている。その素朴さはいかにも田舎で詫び棲まう隠居所に相応しく、ここに五千石取りの身が住まうとは、事情を知らぬ者には想像もつくまい。
庵の周囲には手入れの行き届いた畑と数本の古木があるばかりで、耳を澄ませば、風に揺れる葉擦れの音と、遠く城下のざわめきがかすかに混じるだけだ。
庵主は齢六十二。上杉家から五千石の扶持を受けながら、世事に煩わされぬ気ままな隠遁生活を送っている。だが、その正体を知る者は少なくない。
かつての名は、前田慶次郎利益。前田利家の義理の甥にして、織田信長の重臣、滝川一益を大叔父に持つ、由緒正しき血筋の持ち主である。
前田家に仕えていた頃から、その奇矯な振る舞いは天下の耳目を集め、「傾奇者」として名を轟かせた。豪放磊落にして型に嵌まらず、武辺話は枚挙に暇がない。
一方で、前田家を出奔してからは連歌や古典、茶の湯に深く親しみ、多くの文化人と交わることで、文人としての評価もまた高めていった。武と文、そのいずれにおいても常人の枠を軽々と越える——それが前田慶次郎という男であった。
関ヶ原の戦いを目前に控え、徳川による上杉征伐が始まった折、その慶次郎が突如として上杉陣営に姿を現し、「加勢いたそう」と一言、呵々と笑って申し出た光景を、兼続はいまも鮮明に覚えている。
旧知の仲であったとはいえ、その申し出は意外であり、同時に心強いものでもあった。兼続はこれを喜び、新規浪人で編成した集団「組外衆」の筆頭という地位を与えたのである。
戦が終わってからは、春日山のほど近くにこの庵を設け、表舞台から距離を置いた暮らしを送っている。
折に触れて兼続は無苦庵を訪れ、碁を打ち、世間話に興じる——その語らいの中で、兼続は何度となく救われてきた。理を尽くせば尽くすほど行き詰まる局面において、慶次郎の奔放な一言が、思わぬ道筋を照らすことがあるからだ。
常道の外に身を置きながら、なお天下の流れを肌で感じ取る男。今回の件もまた、その力を借りねばならぬ——兼続はそう確信し、静かに立ち上がった。
*
「こんな雪の中、お一人でお越しとは……さては、いかな風の吹き回しで?」
庵の戸を開けた慶次郎は、肩に積もった雪を払う兼続の姿を見て、愉快そうに目を細めた。吐く息は白く、庭も山肌も一面の銀世界である。春日山の冬は容赦なく、人を寄せつけぬ厳しさを帯びていた。
「いやなに、たまには無苦庵殿と雪見酒でもと思いましてな」
そう言って兼続は、右手に提げた酒瓶を軽く掲げてみせた。その所作には、役目を背負う重臣の堅さではなく、旧友を訪ねる一人の男としての柔らかさが滲んでいる。
「これはありがたい。昨日ちょうど酒を切らしましてな。今日にでも小僧を町へ走らせようかと思っていたところです」
慶次郎は大仰に笑い、酒瓶に視線を落とした。生来の酒好きである彼にとって、雪深いこの季節は嬉しくもあり、同時に悩ましくもある。外出を億劫がっているうちに、気づけば酒壺が空になるのだ。ましてや、それを携えて訪ねてきたのが直江兼続となれば、中身が上等であることは疑う余地もない。
「ささ、まずは一献と参ろう」
まだ日が高いにもかかわらず、二人は早々に盃を重ねた。背に火鉢を二つ置き、障子を少し開け放つ。向こうには、音もなく降り積もる雪が白く輝き、時折、枝から落ちる雪がさらりと静寂を破るだけだ。火鉢の炭がはぜる音と、盃が触れ合うかすかな音が、庵の中に心地よい間を作っていく。
酒が進むにつれ、肩の力は自然と抜けていった。城中では決して見せぬ、兼続の人としての素顔が、盃の底に揺れる。慶次郎もまた、いつもの奔放さに柔らかな陰影が混じり、雪景色を肴に盃を傾けていた。
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