誑惑[2]
「──やかましいのう! おちおち昼寝もできんわ!」
怒声と同時に、板戸が内側から蹴破られた。
乾いた破裂音とともに朽木が跳ね、埃が舞い上がる。その中から、顔の右半分を布で覆い、破れ衣をまとった坊主が現れ、源次郎の目前でわざとらしく大あくびをしてみせた。
突如現れた異物に、源次郎は息を呑む。
「なっ、なに奴!」
即座に反応したのは佐助だった。腰の刀に手をかけ、半身で若を庇うように立つ。その動きを一瞥しただけで、玄舜坊は気にも留めず、肩を掻きながら悠然と言い放つ。
「見ての通り、ただの乞食坊主よ。せっかく見つけた良いねぐらで昼寝しておったのに、騒がれてはかなわん」
僧侶とは思えぬ横柄さ。
だが、そのあまりの拍子抜けに、源次郎も佐助も言葉を失った。敵意も殺気も感じられぬ。ただ、場違いな僧侶が一人、そこにいるだけだ。
「そ、それは失礼した……。まさか社に和尚がおられるとは思わなんだ」
「神も仏も似たようなもんじゃ。ちょいと親戚の家に間借りしていただけよ」
「左様でござったか……」
返す言葉も要領を得ず、佐助はなおも警戒を解かない。
一方の玄舜坊は、その場にどかりと胡座をかき、面倒くさそうに二人を見下ろした。
「まあ、こんな所で出会うたのも何かの縁じゃ。拙僧でよければ、話くらいは聞いてやらんでもないが?」
「えっ……」
思わぬ申し出に、源次郎は言葉を失う。
佐助は一歩踏み出し、源次郎の袖を引いた。胡散臭さを隠そうともせず、坊主に聞こえぬよう声を落とす。
「若、騙されてはなりませぬ。このような怪しき乞食坊主に耳を貸すは危険にございます」
もっともな忠告だった。
だが源次郎は、その手を静かに振り払った。
廃れた社で、得体の知れぬ坊主と出会う。
願をかけた直後に、まるで応えるかのように現れた存在。理屈では怪しいと分かっていても、胸の奥がざわめく。これは──天意ではないのか。若き心は、そう思わずにはいられなかった。
「和尚。実は拙者、この地を治める真田家の惣領、源次郎と申す」
名乗る声は、わずかに震えていた。
「願をかけていたのは、我が兄のことで……」
「真田伊豆守か」
玄舜坊は即座に名を口にした。
「確か朽木谷に住んでおるはずじゃが。なんぞ病にでもかかったか?」
「い、いえ……病ではございませぬ。ただ、兄を信濃へ呼び戻したいのです」
源次郎は言葉を選びながら、しかし堰を切ったように続けた。
「ですが近江宰相(石田三成)様から、なかなかご容赦をいただけず……困じ果てております」
そこまで言うと、源次郎は無意識のうちに拳を握りしめていた。
ここまで来れば、もはや体裁も立場も関係ない。藁にも縋る思いだった。
「……なるほどのう」
玄舜坊は顎を撫で、わざとらしく唸った。深刻そうな顔を作るが、その眼の奥では、別の光が揺れている。
「それは、確かに一筋縄ではいかぬ話じゃ」
佐助は嫌な予感を覚え、再び源次郎の袖を引いた。
「若。このような乞食坊主に話しても詮無きこと。そろそろ城へお戻りを──」
源次郎が促されるまま背を向けかけた、その瞬間。
「──だが、やりようが無いとも言い切れぬ」
低く、しかしはっきりとした声が背中に投げかけられた。
「なっ……!? 和尚、それは真でございますか!?」
「嘘をついてどうする」
玄舜坊は口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
その笑みは、慈悲深い僧のものではない。長年、修羅の世を渡ってきた者だけが見せる、老獪な笑みだった。
「ぜひ、ぜひとも──その手立てをお聞かせくだされ!」
源次郎は思わず身を乗り出していた。名家の惣領としての体面も、若殿としての矜持も、今はすべて脇へ追いやられている。ただ兄を救いたい、その一念だけが顔に張りついている。
玄舜坊はそんな源次郎を見下ろし、しばし無言のまま視線を据えた。試すようでもあり、量るようでもある。その沈黙に耐えかねた頃、坊主はぽつりと、たった一言を落とした。
「──工藤内匠頭」
「……は?」
思わず聞き返す源次郎の声は、間の抜けた響きを帯びていた。
「その名を、聞いたことは無いか?」
「も、もちろん存じております。しかし、あのお方は関ヶ原でお討ち死に遊ばしたと……」
玄舜坊は、鼻で笑うように息を吐いた。
「世間では、そういうことになっておるな。だが……おかしいとは思わぬか?」
源次郎の胸が、かすかにざわついた。
「内府を討ち取った垣屋勘兵衛をはじめ、龍仙寺衆は皆、生きて戻っておる。それを率いていた工藤内匠頭ただ一人が討ち死に──どう考えても、辻褄が合わぬ」
その指摘は、耳に痛いほどもっともだった。
最強の武装集団、雷振筒で固められた龍仙寺衆。その中で、頭目だけが討ち死にするなど、常識では考え難い。事実、巷では同じ疑念が、今も燻り続けている。
だが、石田家は何も語らなかった。
それがかえって、憶測を深くしている。
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