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Last rewrite  作者: 蒼了一


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誑惑[1]

 夜が白み始め、町に人の気配が滲み出す刻限を見計らって、眸海は己の輪郭を朝の喧騒に溶かすように社を後にした。足音ひとつ残さず去っていくその背を玄舜坊は見送らず、ただ一人、社の薄暗がりに座り込んだ。


 静寂が戻ると、胸の内で去り際の言葉が何度も反芻される。


「ねぐらを変える?」


「常ならばここも悪くはないんですがね……」


「何か不都合でもあるのか?」


「いえね、真田の若様がここのところ松本の寺社巡りを盛んにしてましてね」


「こんなあばら家にも来るというのか?」


「万が一と言うこともありますから……」


「……そうか」


 その一言で、玄舜坊は納得した。


 眸海が口にする「万が一」は、決して軽くない。人の噂、流れ、偶然を拾い集め、危険の芽を摘むことを生業としてきた男だ。人目につかぬはずの朽ちかけた社であろうと、可能性がある限り切り捨てはしないのだろう。


「わかった。それでは待つとしよう。それにしても……」


「まだ、何かご懸念が?」


「いや、真田の若殿がそこまで信心深いとは知らなんだ。願でも掛けておるのか?」


 問いに、眸海は小さく息を吐いた。呆れとも、憐れみともつかぬ色がその表情をかすめる。


「若殿の兄上、伊豆守様のことでございますよ」


 その瞬間、玄舜坊の中で点が線になる。


「なるほど……伊豆守は近江に取り籠められていると言っていたな。それを救い出すためか」


「大谷刑部様や直江山城様に頼み込み、あれこれ手を尽くしておられるようですが……」


「うまくはいくまいな。少なくとも、真田の親父が生きている間は」


 玄舜坊は、この手の話には慣れきっていた。


 魑魅魍魎が蠢く政の底で、理と情が絡み合い、人が簡単に切り捨てられる世界。石田三成が抱くであろう懸念も、痛いほど分かる。真田源次郎──若殿にいくら才覚があろうと、この局面を覆すには、知恵も胆力もまだ足りぬ。


「もはや神頼みしか手は無し、というわけか。そうなると……このあばら家に足を運ぶやもしれぬな」


「左様で」


「まあ、来るとしても今日ということはあるまい。俺はお前が戻るまで、ここで寝そべっているさ」


「日暮れ前には戻りますので。しばし、お待ちください」


 そう言って眸海は去り、静けさだけが残った。


 玄舜坊は社の床に身を横たえ、右腕を枕にする。天井板の隙間から差し込む朝の光が、埃を孕んで揺れていた。


 世は動き、人は祈り、策は巡る。だが今は、何も出来ぬ。


 やがて、思考はゆるやかにほどけ、玄舜坊は浅い微睡みへと沈んでいった。


 *


「若! このようなボロ(やしろ)がお目当てだったのですか?」


「そうよ。昨日、馬屋番から聞いてな。廃れてはおるが、由緒ある社だそうじゃ」


 くぐもった声が、戸の向こうから滲み込んできた。


 玄舜坊は息を殺し、腹ばいの床板を擦るようにして社殿の奥から扉へと近づく。板戸の一部は風雨に晒されて裂け、指一本ほどの隙間が空いていた。そこから外を覗く。


 幸いにも、社殿の内は昼なお薄闇に沈み、外から人の気配を探ることはできない。


 視線の先に立っていたのは、身なりの整った若侍と、その背後に控える従者らしき男。従者はあたりを気にする様子で落ち着きがないが、若侍の方は迷いなく、まっすぐに社殿を見据えている。


(……これが真田源次郎か)


 噂に聞く若武者の姿を確かめながら、玄舜坊は内心で頷いた。


 まだ角の取れぬ顔立ち。武門の子としての気概はあるが、どこか世間擦れしていない、貴人の公達らしい初心(うぶ)さが残っている。


 眸海が懸念していた事態が、まさか今日この場で起ころうとは思っていなかった。だが玄舜坊の胸には、意外にも焦りより先に安堵が広がった。


 真田の若殿が参るとなれば、もっと供回りを連れて来るものだと思っていたが、今のところ従者は一人きり。この程度なら、万が一見つかったとしても逃げ切る算段は立つ。


 それに──この参拝をやり過ごせば、この廃社はしばらくは誰も近寄らなくなるだろう。皮肉なことに、それはこの身を守る盾となる。


「我が名は真田源次郎!」


 源次郎は社殿の前に立ち、腹の底から声を張り上げた。


「なにとぞ我が兄、源三郎をお助けくだされ! もし願いが叶いましたら、この社を真田が祀り、社殿を寄進いたしまする!」


 天に届けと言わんばかりの大音声。


 言上を終えると、源次郎は力任せに拍手を打った。その乾いた音が、荒れ果てた境内に虚しく反響する。


 その様子を裂け目越しに見つめながら、玄舜坊は奇妙な感慨を覚えていた。


 かつて伊達政宗であった頃、己は弟、政道を誅した。長年にわたる兄弟の確執の果てであり、ためらいはなかった。七代にわたる勘当を言い渡し、法要すら禁じるほど、怨恨は深かった。


 大名家において、兄弟ほど厄介な存在はない。


 血を分けたからこそ、いつ寝首を掻かれるかわからぬ。


 それなのに──この源次郎は、跡継ぎの座を奪った相手である兄を、神仏に縋ってまで取り戻そうとしている。


 その無垢とも言える在り方に、玄舜坊は思わず口元を緩めた。


 同時に、その胸の奥で、ひとつの企みが、静かに、しかし確かな熱を帯びて芽吹いていくのを感じていた。

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