9.天の桃園 下
きょろきょろしている沐陽を面白そうに見つめながら、公主は近くの木に手を伸ばし、さっそく桃をもぎ始めた。
いつの間にか萌葱色の大きな籠が、樹間にいくつも置かれていた。公主は、もいだ桃を次々とかごへ投げ入れた。投げた桃は、音もなくかごの中へ吸い込まれていった。
「十年前、初めてこの桃園を見たときは、一人では絶対に無理だと思ったわ。でも、ここは天の桃園だから、不思議なことが起こるのよ。一つもげば、ほかの木の桃も同時に収穫できているようなの。一生懸命もいでいると、いつのまにかどの木からも桃が減っていくのよ。今年はおまえもいるから、もっと楽に桃取りができると思うわ」
「そうなのですか――。わかりました、お役に立てるように頑張ります!」
「ありがとう、沐陽。でも、一つだけ気をつけないといけないことがあるの――」
「気をつけないといけないこと? どんなことですか?」
若渓は、もぎ取った桃を左手に載せると、右手でするりと一撫でした。
桃の実から漂う芳醇な香りが、沐陽の鼻や舌や喉を刺激し、今すぐ桃にかぶりつきたい気持ちにさせた。若渓は、急いで桃を籠に投げ込むと言った。
「どんなにお腹が空いても喉が渇いても、絶対にこの桃園の桃を食べてはだめ! 食べたが最後、罰せられて二度と人間界へは戻れなくなってしまうと教わったわ。ここの桃は、天人や神々しか口にできないものだから――」
「そ、そんな、恐ろしいことが――。わ、わかりました! おれは、絶対に食べません!」
二人は、懸命に桃を取り続けた。二人を結ぶ糸は、どんなに離れても決して切れることはなく、つねに互いを意識させ二人を勇気づけた。
沐陽は、慣れた手つきで次々と桃をもいでいるうちに、ここでも彼が触れた桃はさらに熟し、自ら彼の手に滑り落ちてくることを知った。桃をもぐついでに木の枝を撫でてやれば、桃の枝はすっと伸び若葉を揺らした。
桃の木は、まるで沐陽が世話をしてくれるのを待っていたかのようだった。
桃でいっぱいになった籠は、いつの間にか姿を消し、代わりに空の籠が現れた。
公主と沐陽は、夢中で桃をもいでいたが、終わりの見えない仕事に、やがて疲れを覚えるようになった。
高い枝に腕を伸ばすのが辛そうになった公主に、沐陽が優しく声をかけた。
「若渓さま、ここらで一休みいたしましょう!」
「だめよ、沐陽! 一度休んでしまうと空腹を意識して、その後かえって辛くなるの!」
「大丈夫ですよ、少しぐらい腹が空いても! おれは、《《いいもの》》を持ってますから!」
「《《いいもの》》?」
興味深そうに近づいてきた若渓の前で、沐陽は、懐から布袋を一つ取り出した。
袋の口を開くと、中から果物の甘酸っぱい香りが溢れてきた。
沐陽は、袋の中に指を入れると、何かを摘まんで取り出した――。
それを見た途端、若渓の顔がパッと明るく耀いた。
「干し杏ね! おまえ、どうしてそんなものを!?」
「神殿へお供することになったとき、途中で口寂しくなることもあるかと思って小屋から持ってきたのです。果樹園の世話をするときも、疲れたり腹が空いたりしたときに備えて、おれはいつも乾果を持ち歩いているんです」
「沐陽――。おまえときたら、本当にもう――」
沐陽は、摘まんでいた干し杏を自分の口に放り込んだ。ザクッと噛めば、杏の甘味と酸味が口いっぱいに広がって、体や心の疲れをあっという間に癒やしてくれた。
それを見た公主が、プウッとふくれっ面になったあと口を大きく開けたので、沐陽は慌てて干し杏を一つ摘まみ、笑いながら彼女の口にも入れてやった。公主は、嬉しそうに干し杏を噛みしめ飲み込んだ。
杏のほかに木苺の乾果も入っていたので、その後も交代で乾果を食べ、二人はすっかり元気を取り戻した。
そうやって、桃をもいでは籠に入れ、疲れると乾果を食べて休み、二人は楽しく収穫の作業を続けた。果てしないと思われた桃取りは、着実に終わりを迎えようとしていた。
「若渓さま、あなたの前は、どなたがこのお役目を務めておられたのですか?」
「お父様の妹の春鈴叔母さまよ。叔母さまは、十三年前に隣国の王族に嫁がれたわ。嫁がれる前に、この務めの引き継ぎをしたの。二十年前のお務めのときに、叔母さまは、桃を取り終える前に疲れて眠ってしまい、天界から返されてしまったそうなの。そのせいで、基国の豊作は十年続かないだろうと言っていたわ――」
巫女姫は、基国の王族の女性から選ばれる。結婚しても、年を取っても続けることができるが、基国を離れてしまうときは後継者を決める必要があった。
若渓は、五歳で叔母から巫女姫の務めを引き継いだ。
そして十年前、叔母に変わって、初めて豊穣の女神の神殿へ詣でたのだった。