8.天の桃園 上
―― 沐陽! 起きて、沐陽!
体を揺すりながら、必死で呼びかけてくる声を聞き、沐陽は意識を取り戻した。
桃の香りを含んだ温かな風が、彼の頬をかすめるように吹いていく。
穏やかな光に誘われるように目蓋を開けると、目の前に心配そうに彼を見つめる公主の顔があった。
「ル、若渓さ、ま――」
「ああ、良かった、目覚めてくれて――。このまま起きなかったら、どうしようかと思ったわ」
二人は、桃園の中にいた。終わりが見えないほど、広大な桃園だった。
たわわに実をつけた数え切れないほどの桃の木が、甘い香りを漂わせていた。
「こ、ここは、いったい、どこなのですか?」
神殿の泉に沈んでいった公主をつかまえようと、思わず飛び込んだ沐陽の手に水中から細い糸が伸びてきてからまり、彼も泉の底へ引き込まれた――。
沐陽が覚えているのは、そこまでだった。
桃の木に囲まれてはいるが、彼が座っているのは地面の上ではなかった。
綿や羽毛のようなふんわりしたものが、彼の尻や足の下に広がっていた。
「ここは、天界にある桃園よ。実は、神殿の泉は天界と結ばれているの」
「天界!? じゃ、じゃあ、若渓さまとおれは、死んじまったということですか!?」
「違うわよ! 巫女姫の務めというのは、本当は天界の桃園へ来ることなの。豊饒の女神の神殿におこもりするのは、そのためよ――。ごめんなさいね、沐陽。手巾の刺繍糸がほつれておまえの指に絡みつき、心ならずもおまえを一緒に連れてくることになってしまったようだわ――」
公主が手にした手巾からは、七色に光る細い糸が伸びていて、その先が沐陽の右手の人差し指に巻き付いていた。
沐陽は、少し力を入れて引いてみたが、糸は解けることも切れることもなかった。
公主は、すまなさそうな顔をして沐陽を見ていた。だが、彼はむしろ嬉しかった。
糸が繋いでいてくれる限り、二人が離されることはないと思えた。若渓の務めの詳細はわからないが、そばにいられれば、いくらでも彼女を手助けすることができるはずだ。
風に乗って、どこからか玲瓏な楽の音が聞こえてきた。
萌葱色の光の固まりが、桃園の奥から沐陽たちのもとへ近づきつつあった。
それは、見る間に人の形に変化した。呆然としてたたずむ沐陽の前に、神殿に祭られていた像とそっくりな豊饒の女神が、衣を揺らしながら立っていた。
「良く来ましたね、巫女姫――。おや、今年は一人ではないのですね? その男は、何者ですか? うっかり神殿に忍び込んだ盗人なら、わたしが始末をいたしましょう!」
女神がすっと印を結ぼうとするのを見て、公主は慌てて叫んだ。
「女神さま、そうではありません! この者は、わ、わたしの――、お、夫でございます! わたしの身を案じるあまり、わたしと糸でつながって一緒にこちらへ来てしまいました!」
公主は、彼女から「夫」などと言われ赤くなっている沐陽の右手を掴み、その指に絡みついている糸を女神に示した。
女神は、糸に目を留めると、たおやかに微笑みながら言った。
「ああ、そうでした。そなたらは、天帝さまの神殿に二人でかじった桃を供えていましたね。確かにあれは、夫婦の誓いを立てた証――。一緒にここまで来てくれるとは、良い夫だこと! それで、そなたの夫はどんな役に立つのですか?」
「夫は、王城で果樹番をしております。幼い頃から果樹に親しみ、誰よりも美味しい果実を実らせる力を身につけました。夫がもげば、どんな果実も甘く熟します!」
「それは、助かります! これ果樹番、巫女姫を助けてしっかり仕事に励むのですよ――」
沐陽が返事に困っていると、女神は萌葱色の光に戻って、どこかへ飛び去ってしまった。いつの間にか、楽の音も止んでいた。
天界へ来てしまった理由ものみ込めないうちに、豊饒の女神と出会い、さらには公主の夫と誤解され、沐陽はひどく混乱していた。
そんな彼の気持ちを察して、公主は、ことさら明るい声で告げた。
「さあ、仕事を始めましょう、沐陽! わたしたちの時間で十年に一度、天の桃園の桃は収穫の時を迎えるの。神々や天人は桃の宴を開いてそれを食し、不老長寿を保っているのよ。宴にそなえて桃を収穫するのが、巫女姫の務めなの。基国の建国に際し、初代の帝が豊饒の女神さまと約束して以来、ずっと続けられてきたことよ。巫女姫が桃の収穫を手伝うことで、向こう十年間、女神さまは基国の作物を豊かに実らせてくれることになっているの――」
「な、なんと! そ、そんな約束があったとは、露ほども知りませんでした」
「そうね、これはいちおう基国王家の秘密だからね――。お務めの意味がわかったなら、おまえも桃取りを手伝ってちょうだい!」
「は、はい。しかし若渓さま、そうは言っても、これほど広い桃園の桃を、たった二人でどうやって収穫するのですか?」