7.豊穣の女神の神殿 下
祖父母や馬爺さんに、必ず再訪することを約束して、沐陽は馬車に乗り込んだ。
神殿での務めがなんであろうと、公主の恩に報いる働きをしたいという思いを胸に、沐陽は身を固くして馬車の揺れに耐えていた。
豊饒の女神の神殿では、たくさんの神官たちが公主一行を出迎えた。
公主は神殿の食堂で最後の食事をとり、湯浴みをしてから巫女姫の衣装に着替えた。
支度を整え、湯殿の控えの間から出てきた公主を見て、沐陽は、あんぐりと口を開け手燭を取り落としかけた。
薄青色の衣装を身にまとい、長い髪を背に垂らした公主は、庭の篝火の灯りを受けて美しく光り耀いていた。「巫女姫」と呼ばれるに相応しい神々しさに包まれていた。
「沐陽どの! 何をぼうっとしているのですか!? しっかり手燭を持って、若渓さまの足元を照らしてください!」
「は、はい!」
見とれる暇もなく明霞から叱責を受け、沐陽は慌てて手燭を握り直しながら、石畳の上を歩き出した。
辺りに注意を向けながら先頭を歩いていた宇軒が、礼拝堂の扉を静かに開けた。そして、三人が中へ入るとお辞儀をして扉を閉めた。
彼は、おこもりが終わるまで扉の前に残り、礼拝堂の警護役を務めるのだ。
沐陽は、手燭を掲げながら、礼拝堂の内部を見回した。
堂の中央には祭壇があり、そこに巨大な豊饒の女神像が立っていた。
沐陽は、明霞に命じられ、祭壇を囲む燭台に手燭の火を点して回った。堂内全体がうっすらと明るくなり、天井に描かれた色鮮やかな植物画がはっきり見えるようになった。
豊饒の女神像は、萌葱色の宝玉を右手に載せ、礼拝堂の丸天井に向かって掲げていた。円天井の中心からは、四方八方に向かって蔓が描かれていて、その先に果実や穀物、花々などが精密に描写されていた。
沐陽が極彩色の天井画に目を奪われている間に、明霞は、祭壇の前の敷物に公主を座らせた。そして、沐陽の袖を引っ張ると、公主の後ろに一緒にひざまずかせた。
公主は、何度も床にひれ伏し、豊饒の女神像へ祈りを捧げた。
やがて、礼拝堂の床が微かに揺れ、ひたひたと水が打ち寄せる音が聞こえてきた。
服の裾を直しながら立ち上がった公主は、くるりと振り返ると明霞と沐陽に言った。
「《《道が通じた》》ようだわ。二人とも、わたしがきちんとお務めを果たせるよう、一緒に来て《《見送って》》ちょうだい」
若渓は、祭壇に沿って歩き、女神像の裏側へ回り込んだ。
明霞と沐陽は、急いでその後を追った。
「おおっ! こ、これは!?」
目の前に現れた意外なものに驚き、沐陽は大きな声をあげた。
女神像の後ろの床には、直径一間ほどの水盤のようなものが現れていた。水面は暗く、底は見えない。少しずつ水が溢れ出している様は、まるで小さな泉のようだった。
「それでは、行ってくるわね。三日三晩で戻って来るつもりだけど、女神さまのお考え次第だからはっきりとは約束できないわ。沐陽は明霞と一緒にここで待っていてね。食べ物は、宇軒が運んでくれるから大丈夫よ」
「ル、若渓さまは、いったい何を――」
明霞は、再び沐陽の袖を引っ張り、自分の隣に引き寄せた。
「お戻りの際は、お声をおかけください。すぐに引き上げますので」
「頼んだわよ、明霞。ではね、沐陽。本当は返さなくてはいけないのだけど、お守り代わりにこれを持って行くことを許してね!」
若渓は、懐から沐陽の手巾を取り出し、そっと頬ずりした。
そして、それを胸に抱え、静かに泉の中へ入っていった。
沐陽は、事情がさっぱりのみ込めず、立ったまま泉に吸い込まれるように沈んでいく公主を、泉の縁でおろおろしながら見つめていた。
何か神秘的で恐ろしいことが、彼の目の前で始まろうとしていた。
(いったいおこもりとは、巫女姫の務めとは何なんだ? 若渓さまは何をしようとしてるんだ? 夢で見たように、このままどこかに行ってしまうのだろうか?)
公主の髪が水面に広がり、その顔が水中に消えようとした瞬間、沐陽は我を忘れて泉の中へ飛び込んでしまった。
彼女がどこへ行こうとしているのか見当もつかないが、眉を寄せ悲しそうな顔をした公主を、どこであろうと一人で行かせてはならないと思ったのだった。
「ム、沐陽どのーっ!?」
明霞の悲痛な叫びが聞こえたが、もう後戻りはできなかった。
真っ暗な空間で息苦しさにもがきながら、沐陽は公主の姿を探した。
右も左も上も下もわからない状態で、心の中で公主の名を呼んでいると、七色の細い糸が水中から伸びてきて、沐陽の指に絡みついた。
その途端、不思議な安心感が胸に湧き、沐陽は眠るように意識を失ってしまったのだった――。