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6.豊穣の女神の神殿 上

 朝餉がすむと、馬車は、王城の裏口からひっそりと出発した。

 公主と女官の明霞(ミンシャ)、そして沐陽(ムーハン)を乗せ、宇軒(ユーシェン)が御者を務めた。

 馬車は、中を覗かれぬよう窓や扉をぴたりと閉め、目立たぬように先を急いだ。


 しばらくすると、沐陽は、車内に入り込む空気のにおいが変わったことに気づいた。

 明霞に断って小窓を開けると、ゆったりと広がる農地に、明るい日差しが降り注いでいるのが見えた。幼い頃に暮らした郷の風景が広がっていた。

 懐かしい景色を目にして沐陽が胸を熱くしていると、明霞がぼそっとつぶやいた。


「沐陽どの、まもなく、そなたの育った果樹園が見えて参りますよ」


「えっ、爺ちゃんの果樹園が!? 本当ですか?」


 窓から顔を出しかけた沐陽を、公主が後ろ襟を掴んで座席へ連れ戻した。そして、呆れたように笑いながら言った。


「もう沐陽ったら、慌て者ね! せっかく近くまで来たのだから、果樹園に寄っていきましょう! 明霞、それぐらいの時間はあるわよね?」


「はい。そろそろ、馬を休ませ水を与えた方がようございます。わたくしたちも、果樹園でひと休みいたしましょう」


 明霞は、御者をしている宇軒に、果樹園の前で馬車を止めるように命じた。

 馬が歩みを止め、馬車の扉が開かれると、公主は沐陽の手を取り馬車から飛び出した。辺りには、あの日と同じ甘い桃の香りが漂っていた。

 果樹園は以前よりも広くなり、たくさんの人が桃の収穫にいそしんでいた。

 沐陽は、その中に懐かしい人の姿を見つけて、思わず呼びかけた。


(マー)爺さん!? どうして、爺さんがここに!?」


「おおっ、沐陽坊ちゃん! お久しぶりです! ご出世おめでとうございます!」


 馬爺さんは、桃を入れた籠を降ろすと、ちょうど馬車から降りてきた明霞にお辞儀をした。

 それを見て驚く沐陽に、公主が教えた。


「おまえを王城に連れてきたあと、おかしな庭師を雇ったものだから、梁家の果樹園はすっかり荒れ果ててしまったのよ――。ときどき梁家の様子を見に行かせていた明霞から、馬爺さんも追い出されるらしいと聞いたので、ここへ連れて行くように命じたの。孫のおまえが世話になった庭師だと言ったら、おまえの祖父母は喜んで雇ってくれたそうよ」


「そんなことが――。あ、ありがとうございます、公主様。馬爺さんのことまで――」


 沐陽に礼を言われて、公主はちょっと照れたような顔をした。

 そして、ずっと握っていた沐陽の手を離すと、いつもの調子に戻って彼に命じた。


「沐陽! 急いで桃をもいできてちょうだい! 神殿に行く前に、もう一度桃を食べておきたいわ! それから、果樹園の桃の木にできるだけ触れてきなさい。きっと、おまえが触れた木は、来年はもっとたくさん実をつけるようになるはずよ!」


「はい、公主さま!」


「ここは、王城ではないのだから、わたしのことは若渓(ルォシー)と呼びなさい。いい?」


「あ、はい。ル、若渓(ルォシー)さま――」


「さあ、早く行ってきなさい!」


 馬爺さんの案内で果樹園へ向かう沐陽(ムーハン)を、公主は黙って見つめていた。

 やがて小さなため息をつくと、懐から手巾を取り出した。

 昨日の朝、沐陽は、この手巾に桃を包んで渡してくれたのだった。

 極細の虹色の糸で、草や果実や穀物が美しく刺繍された手巾――。

 顔を寄せれば、甘く優しい桃の香りがほのかにして、公主に昨日の朝のできごとを思い出させた。


「若渓さま――。大丈夫でございますよ。心配はいりません。沐陽どのが育てた桃の実を召し上がったのですから、今回もきっと上手くいきます。これからもいでくる桃も、きっと若渓さまに力を与えてくれるはずですわ」


「明霞――」

 

 明霞は、手巾を握った公主の手を包み、珍しく気持ちのこもった言葉をかけた。

 口が達者で頭が良く回る公主は、幼い頃から彼女を振り回してばかりいた。世話の焼ける(あるじ)であったが、誕生以来ひたすら慈しみ見守ってきた大切な存在だった。


「若渓さまーっ! 良い桃が採れましたよーっ!」


 果樹園から大きな声で呼びかけられ、公主はうつむいていた顔を上げた。

 沐陽が、広げた服の裾に桃を載せ、彼女に向かって嬉しそうに手を振っていた。

 伸び上がったひょうしに桃が転げ落ちかけたので、慌てて馬爺さんが受け止めた。

 沐陽の天真爛漫な笑顔は、公主の胸の奥にわだかまっていた不安や愁いを、きれいさっぱり消し去ってくれた。


 公主は、戻ってきた沐陽はもちろん馬爺さんも馬車に誘うと、神殿ではなく沐陽の祖父母の家へ馬車を向かわせた。

 十年前に比べて、見違えるほど立派になった祖父母の家を見て、沐陽はたいそう驚いた。

 時ならぬ馬のいななきに、慌てて家から出てきた祖父母は、馬車から降り立った沐陽を見て、それ以上に驚いた。


「お、おまえ――、も、もしや、沐陽かい?」


「ああ、そうだよ! 爺ちゃんも婆ちゃんも、元気だったかい!?」


「立派になって――。お若い頃の士大夫様にそっくりだ!」


 沐陽との再会を喜んだあと、祖父母はひざまずいて公主たちにあいさつし、その計らいに心から感謝した。

 そして、広々とした居間で沐陽がもいだ桃を皆で味わうことになった。


沐陽(ムーハン)が梁家へ引き取られた後、気候も安定し豊作が続いたので、果樹園の果実に良い買い手がつくようになった。それで、屋敷や果樹園を大きくできたのだと祖母は言った。

 沐陽が幼い頃の思い出など話すうちに、話題はいつしか、近頃梁家を襲った厄災へと移っていった。祖父は、果実を買い取ってくれる都の商人から聞いた話として語った。


「昨日、桃を買いに来た陳さんの話では、梁家の屋敷が売りに出ているそうだ。士大夫どのは、下役の不正の責任をとって職を辞すことになったらしい。故郷へ戻って、管理登用試験を目指す親族の教育係を引き受けることにしたようだよ。たいした金にはならんだろうけどな――」


義母(はは)上や義兄(あに)上たちも、一緒に行かれたのでしょうか?」


「どうだろうな? 夫人は同行されただろうが、ご子息たちは都に残ったかもしれんな。一番上のご子息は、王城の工部で働いておられるのだろう? 下のお二人も、地方へ行くよりは都で仕事を探すことを選んだのではないかな?」


 どちらにしても、以前のような贅沢はできないし、父親が権威を失っては、あの居丈高な義兄たちとて、人に頭を下げながら暮らしていくしかないと思われた。

 これからは、いろいろと不自由を強いられることになるはずだ。

 沐陽をひどい目に合わせた人々であったが、今はそんな彼らを気の毒に思うほど、沐陽自身は幸せだった。そして、あらためて自分に幸運を運んできてくれた公主に感謝した。




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