5.巫女姫の務め
何もかも思い出した沐陽は、驚きの声を上げた。
公主は、桃を持った手を下ろし、微笑みながら彼に告げた。
「フフフッ、ようやく思い出したようね、沐陽――。まったくおまえときたら、わたしのことをすっかり忘れているんだもの。腹立たしいったらなかったわ!」
「も、申し訳ありません。こ、子どもの頃のことは、よく覚えていないこともあって――」
公主は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、桃を美味しそうに食べ終えた。
そして、桃の種をぽいっと果樹園の草むらに投げ込むと、両手を胸に当て捨てた種の発芽を祈った。祖父母の果樹園がある郷では、種まきのあとで、みんなが同じ祈りを捧げていたことを沐陽は思い出した。
籠を置いて、自分と同じように祈る沐陽を見ていた公主は、唇をひとなめすると籠からもう一つ桃を取り出した。そして、楽しそうに桃をもてあそびながら言った。
「いいわ! この美味しい桃に免じて許してあげる。わたし、ずっとこんな桃を食べたかったの! 沐陽、その籠を持って、わたしと一緒に来てちょうだい!」
公主に言われるまま、沐陽は、桃を盛った籠を抱えて後をついていった。公主は、王城の庭園の奥にある天帝神殿の前へ沐陽を案内した。
神殿に丁寧に祈りを捧げた後、公主は言った。
「十年前、わたしは巫女姫として、おまえがいた郷にある豊饒の女神の神殿にこもり、三日間飲まず食わずで女神に祈りを捧げたわ。それが、この国に公主として生まれた者の務めなの――。
神殿へ行く途中、馬車の窓から見えた果樹園が気になって、馬車を止めさせ行ってみたのよ。あの桃を食べたおかげで、わたしは、途中で倒れることもなく神殿で祈り続けることができた。おまえとおまえが収穫した桃には、今でも感謝しているわ!」
あの年は、確かに作物がうまく育たず、果実の実りも少なかった。
その次の年からは、作物の出来は元に戻ったようだった。沐陽が世話を始めた梁家の屋敷の果樹は毎年良く実っていたし、厨房で働く使用人たちから、穀物が不作だという話を聞くことはなかった。
それもこれも、幼い公主が命を賭けて女神に祈りを捧げたからだと思うと、沐陽は、自分の方こそ彼女に感謝せねばならない気がした。
「女神の加護は、十年間しか続かない――。だから、今年はまた豊饒の女神に祈りを捧げなければならないのよ。わたしは、神殿に行く前に、もう一度おまえが育てた桃を食べておきたかった。おまえの桃の力を信じていたからね――」
公主は、持っていた桃へ愛しげに頬ずりした。
「でも、おまえから買った桃の種から芽生えた桃の木には、いつまで待っても桃はならなかった。十年前に訪ねたあの果樹園へ侍従を行かせてみたけれど、おまえは姿を消していた。果樹園を営む老夫婦に居所をきいても、どこに行ったかわからないと言うばかり。だから、残念だけどおまえの桃を食べずに神殿へ行くしかないと思っていたの――」
公主は、ちょっと悲しげな顔をして見せたあと、手にしていた桃を一口かじった。
そして、おまえも食べろというように、沐陽に差し出した。
沐陽は、彼女がかじった場所の反対側を、遠慮がちに小さくかじった。
桃の甘味が口いっぱいに広がり、沐陽は幸せな気持ちになった。
その様子を見ながら、公主は嬉しそうな顔になって言った。
「でもね、わたしの願いを知ったお父様が八方手を尽くし、小さな噂を拾い上げ、ようやくおまえの居場所を突き止めてくださった。そして、とうとうおまえを王城へ召し出すことができたのよ! わたしは、こうして今、夢にまで見たおまえの桃を味わっている。わたしの願いは叶えられたの!」
沐陽は、やっと自分が王城へ連れてこられた理由を知ることができた。
十年前に彼が果樹園で売った桃が、公主と自分を繋いでいたとは思ってもみなかった。
「公主さまは、なぜそれほどおれの桃にこだわったのですか? 帝の力をもってすれば、もっと高級で美味な桃を、いくらでも手に入れることができますでしょうに」
「そうね。ほかの桃でもいいのかもしれない――。でも、十年前わたしを救ってくれたのは、おまえが育てた桃だったから、今度もその力に頼ってみようと思ったの。さあ、籠の桃を天帝神殿に供えなさい! わたしは、明日、豊饒の女神の神殿に詣でるわ。無事に巫女姫のお務めを終えられるように、沐陽も祈ってちょうだい!」
「わ、わかりました」
沐陽は、神殿の前に籠を置き、二人で一口ずつかじった桃を一番上に載せて供物とした。
そして、公主と共に、彼女の旅の安全と務めの成功を祈った。
「ありがとう、沐陽! そうだわ、今日の朝食用の桃をもいでいきましょう!」
果樹園に戻った二人は、一緒に桃を選び二つずつもぎとった。
沐陽は、たまたま懐に入れていた、蜘蛛の糸の刺繍の手巾でそれを包んだ。
公主は、幸せそうな顔でそれを抱えて王城へ帰っていった。
その晩、沐陽は不吉な夢を見た。
神殿でおこもりをしていた公主が、いつの間にかいなくなってしまい、二度と王城へ戻ってこなくなる夢だった。眠れずに寝台に座っていると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「へへへっ、どうしたよ相棒? 昼間、姫さまと楽しい時間を過ごしたことを思い出して、眠れなくなっちまったのかい?」
天井からぶら下がってきた蜘蛛が、月明かりを浴びながら揺れていた。
蜘蛛がにやけた顔で自分を見ているような気がして、沐陽はあわてて言い訳した。
「そうじゃないよ! 何だか、嫌な予感がするんだ。公主さまの身が心配だ――」
「心配なら、そばにいてやることだ。あんたも、おこもりについていけばいいじゃないか?」
「それは、おれの仕事じゃない。おれは果樹番だ。勝手にここを出て、公主様を追いかけていくわけにはいかないよ」
「ふうん。じゃあ、姫さまについていくことが、あんたの仕事になりゃあいいんだな? わかったよ、任せときな相棒!」
蜘蛛はそう言うと、するすると糸をたぐり、さっさと天井へ戻ってしまった。
沐陽は、蜘蛛が何をしようとしているのか気になったが、なぜか急に眠くなってきて、寝台に倒れ込むようにして寝てしまった――。
*
――ドン、ドン、ドン!
小屋の扉を叩く音で、沐陽は目を覚ました。ようやく日が昇り始めたという頃合いだ。
なんの用だろうと思い、急いで起き出し扉を開けると侍従が立っていた。
「沐陽どの、朝早くから申し訳ありません。大至急、王城までお越しください!」
「こ、こんな時刻に!? 王城へ!? 公主さまの朝餉には早すぎるし――。いったい、おれになんの用ですか?」
「詳しいことは、王城で! とにかく、お急ぎください! 服は、いつもの仕事着でかまいません!」
思いっきり急かされながら大慌てで着替えをすませると、沐陽は、取る物も取り敢えず侍従と一緒に王城へ向かった。
早朝だというのに、王城内はやけに騒がしかった。
侍従に案内された部屋には、沈痛な面持ちの帝と公主が椅子に座って待っていた。
そして、二人をはさむようにして、沐陽にも見覚えのある男女が立っていた。
二人とも、十年前、祖父の営む果樹園で見かけた顔だった。当然だが、二人は十年分年を取っていた。
男の方は、宇軒とか呼ばれていた護衛役だ。
女の方は、一番年嵩であの場を仕切っていた人物だ。公主付きの女官らしい。
どうやら、公主の神殿でのおこもりには、今回もこの二人が付き添うようだ。だが、あのとき見かけた従僕の姿はここにはなかった。
帝が、申し訳なさそうな顔で沐陽に言った。
「朝から呼び立ててすまぬな、沐陽。実は、そなたの力を借りねばならぬことが起きてな」
「王城の果樹園で、何かあったのでしょうか?」
「そうではない。それなら、もともとそなたの仕事だから、わざわざ呼び立てたりはせぬ」
「それでは、いったい――」
――カタン!
会話をさえぎるように、大きな音を立てて立ち上がったのは、公主だった。
公主は、まっすぐに沐陽を見ながら、苛立ちを滲ませた声で彼に命じた。
「沐陽! わたしの従僕として、神殿に同行しなさい! 一緒に行くはずだった従僕が、急に腹を下して行かれなくなったの! おまえは、あの辺りに住んでいたこともあるし、神殿のことも知っているでしょう?」
「は、はい。十年以上前のことになりますが、神殿にも行ったことはあります」
「父上、お聞きになりましたでしょう? 沐陽はまさに適任ですわ。どうぞ、この者を従僕として神殿へ連れて行くことをお許しください!」
公主に押し切られ、帝はしかたなく沐陽の同行を許した。
なにより、神殿への出発が迫っており、これ以上悩んだりもめたりしている暇はなかった。
王城内では、昨日の夕餉で何かにあたったのか、腹を下す者がたくさん出ていた。その手当てで、朝から大騒ぎになっていたのだ。
従僕の代わりを務められる者は、小屋で自炊をしていた沐陽ぐらいしか残っていなかった。
こうして沐陽は、公主の従僕として神殿へ赴くことになった。
一度小屋へ戻り簡単な旅支度を整えていると、天井からするすると蜘蛛が降りてきた。
蜘蛛の姿を見て、沐陽には何となく合点がいった。
「おまえ、王城の厨房へ潜り込んで、何かおかしなことをしたな? 毒でも盛ったのか!?」
「さあね? でも、良かっただろう? 姫さまのお供ができることになって――」
「そりゃあそうだが――。おれなんかが従僕になって、何か公主さまのお役に立てるんだろうか?」
「どうかな? でも、まずは姫さまの朝餉のために、大急ぎで桃をもいでこないとな!」
「ああ――、そう、そうだよな!」
蜘蛛の言葉を聞いた沐陽は、果樹園へ行くと、朝露に濡れた桃の実を四つもぎとった。
それを小屋から持ってきた籠に入れると、落とさぬようにしっかり抱え王城へ向かって走り出した。