4.新しい仕事
翌朝のこと――。
夜明けと共に沐陽は、王城の果樹園へ向かった。
果樹園は広く、様々な果樹が植えられていた。
琵琶が、ちょうど食べ頃を迎えようとしていた。それなりに世話はされているようだったが、祖父母の果樹園や梁家の果樹園のものより、実が小ぶりで色も薄いように沐陽は思った。
「前の庭師が、手を抜いてたんだろうね。あんたが来ることが決まって、そいつはお払い箱になったらしいよ。まあ、自業自得ってやつだな。それより、果実をひとなでしてみなよ。たちまち旨そうに色づくよ! あんたにはそういう力があるんだよ!」
沐陽の仕事着の襟元に現れた蜘蛛が、得意げに言った。
半信半疑で沐陽が琵琶の実に触れると、果実はふわっと膨らみ赤味を帯びた。
「おおっ!」
「ほらね! さあ、今日の分を収穫したら、さっさと姫さまに届けて、果樹園の世話を始めようぜ! この果樹園の木はどれも、あんたが面倒を見てくれるのを心待ちにしているようだからな!」
「ああ、まだ細かい事情はよくわからないが、心を込めて果樹の世話をするよ。おれには、旨い果実を作って人を喜ばせる才があるらしい。昔々、おれのことをほめてくれた人に、そんなことを言われた気がする。ここでも精一杯働かせてもらうよ!」
沐陽は、急いで小屋に戻ると、侍従から預けられた可愛らしい籠を持って、果樹園に戻った。
そして、橙色に熟した琵琶の実を公主の朝食分だけもぎ取り、王城の厨房に届けた。
あまりにもつややかで美味しそうな琵琶を目にして、厨房の料理人たちは皆たいそう驚いた。
*
琵琶の次は桜桃、その後は杏、李と次々果樹園の果実は収穫の時を迎える。
沐陽が来てから、どの果樹も生き生きと枝を伸ばし、たくさんの葉を茂らすようになった。枝をしならせるほどについた果実は、沐陽が収穫してくれるのを待っているようだった。
「今日は、おまえとおまえと――、それから、おまえも収穫してやろう!」
沐陽が優しく声をかけ手を伸ばすと、触れられた果実はさらに熟し、嬉しそうに彼の手の中へ滑り込んできた。沐陽は、一つ一つの果実を木々への感謝を込めて丁寧にもぎ取った。
果樹園の仕事は、果実の収穫だけではない。下草刈りや水撒き、害虫駆除などの果樹園の手入れのほか、冬に備えて果実を干したり、蜜煮や果実酒に加工したりする作業もあった。
馬爺さんに教えられたことを思い出しながら、沐陽は毎日仕事に励んだ。
沐陽が、王城での新しい仕事にいそしむ裏で、梁家は困ったことになっていた。
沐陽が王城から戻ってこなかった上、何の知らせもないので、梁家では、やはり彼が何か不始末をしでかして、密かに処分されたのかもしれないという話になっていた。
「あなた、沐陽と一緒に陛下にお目通りできたのではなかったのですか? 沐陽はいったいどうなったのですか? ご存じのことをおっしゃってください!」
「そんなことを言われても――。王城に着いた途端、沐陽だけが謁見の間へ連れて行かれてしまったのだ。もしかするとご処分を受けたのではなく、何か秘密のお務めを言いつかったのかもしれんな」
「秘密のお務め? それは、士大夫の息子としては、公にできないようなことをさせられているということですわね――」
表向きは梁家にはいないことになっている沐陽のことを、他人から聞き出すわけにもいかず、夫人は自分が思いついた答えで納得するしかなかった。
士大夫は、本当は侍従から話を聞き、沐陽が王城の果樹番になったことを知っていたが、夫人や息子たちには言わなかった。彼らに話せば、何か面倒なことを言い出すに決まっていた。
だから、彼は知らぬ存ぜぬを押し通し、とことんとぼけることにした。
屋敷では、沐陽の代わりに馬爺さんの手伝いをする若い庭師を雇ったが、仕事が雑な上、怠け者であったので、梁家の果樹園はたちまち悲惨な状態になってしまった。
李や杏は、みな熟さずに実を落とし、桃もわずかしか結実しなかった。
腹を立てた夫人は、若い庭師をじきにクビにしたが、代わりの者は見つからず、馬爺さんは沐陽がいた頃を懐かしんだ。
老いた爺さん一人では、できる仕事は限られていた。
「母上、わたしの朱家への婿入りの話は、どうなったのですか? いくら手紙を差し上げても、このところ芽衣どのからは、いっさいお返事がありません――」
「父上、わたしの王城文書庫への出仕のお話は、どうなったのですか? 上役に当たる楊様のきもいりだから、決まったようなものだとうかがっておりましたが――」
次男、三男からそのように詰め寄られ、士大夫は大いに困った。
実は、沐陽が来てからの十年間、梁家では、屋敷の果樹園で採れる美味な果実を、「付け届け」として上級役人や富裕な商人に定期的に贈っていた。
沐陽がいなくなった今年は、それが全くできなくなってしまった。
代わりの品物を贈りはしたが、高級な果実を出し惜しみしたように思われ嫌味を言われた。
当然、付き合いは減り、次男や三男の婿入りや役付きの話も立ち消えとなっていた。
そんなこんなで馬爺さんも、とうとう暇を出され梁家を去ることになった。
よろよろと荷箱を引きずり屋敷の門を出たところで、どこからか現れた小綺麗な馬車が爺さんを乗せ去って行ったことを、梁家の人々が気づくことはなかった。
世話をする者が誰もいなくなった梁家の果樹園は、もはや廃園同然だった。
沐陽が、王城に召し出されて、三か月あまりが過ぎた頃――。
朝食の席へ運ばれてきた、もぎたての瑞々しい李の実を見た公主が、そばにいた沐陽に尋ねた。
「沐陽! そろそろ、桃が採れる頃よね? 果樹園にも桃の木があるはずだけど、今まで一度も収穫できたことがないの。今年はどうかしら?」
言い終わると公主は、沐陽を上目遣いに見ながら口を大きく開いた。
沐陽は、ちょうど良い大きさに切り分けた甘い李の一切れを、楊枝に刺して公主の口元へ運んだ。公主は、パクッとそれをくわえると、幸せそうな顔になって李を味わった。
ここは、王城の公主専用の食堂である。
一か月前、沐陽は、直接ここへ朝食用の果実を運んでくるように命じられた。公主から、果樹園の様子をあれこれ聞かれたので、知っていることを丁寧に説明した。
二週間前には、持ってきた果実を、公主の前で皮を剥き切り分けることになった。公主の近くで刃物を扱えるほどに信用されたのだった。
そして、昨日は、切り分けた果実を楊枝に刺し、公主の口元へ運ぶように言われた。間接的にだが、公主に触れることが許されたのだった。
沐陽には、相変わらずわからないことだらけだったが、これは大変な大出世であるらしかった。侍従や侍女たちは、いつのまにか彼のことを、「沐陽」ではなく「沐陽どの」と呼ぶようになっていた。
「明日の朝には、今年最初の桃を収穫できると思います。たくさん採れたら、乾果や蜜煮も作るつもりです」
沐陽は、公主に李を食べさせた後、種を片付けながら静かにそう言った。
公主は、手巾で口の周りをふきながら、うれしそうに沐陽を見つめていた。
桃が収穫できると聞いて、いつも以上に機嫌が良いようだった。
その笑顔によって、沐陽の心の片隅にある思い出の引き出しがカチリと鍵をあけたのだが、彼はまだそのことに気づかずにいた。
翌朝、涼風が吹き抜ける果樹園に、沐陽は一人で立っていた。
こんなことが、ずっと前にもあったような気がしていた。
何本もの桃の木が、たわわに果実を実らせていた。
「やっぱり、桃の香りは最高だなあ! さすが王城だ! 士大夫の屋敷の果樹園よりも、丸くて大きな実がなっているぞ! さあ、そっと撫でてやれよ。女の子のほっぺたでも包むように――」
いつもの蜘蛛が、沐陽の肩から桃の木に飛び移って面白そうに言った。
沐陽は、微かに頬を染めながら、桃の実に優しく手を伸ばした。
まだ、少しだけ固そうな実も、沐陽が触れてするりとなでると、さっと赤らみ食べ頃になった。
公主の朝食に必要な分だけを、丁寧にもぎ取り籠に入れていると、下草を踏みしめ誰かが果樹園へ入ってきた――。
「公主さま!?」
「おはよう、沐陽!」
沐陽は、初めて明るい光の下で公主を見た。
彼女は、彼が届ける果物を毎朝欠かさず食べていたためか、肌も髪もつやつやと輝き、これ以上ないほど健やかな姿をしていた。
美しい人だなあ――と、沐陽は思った。公主は、物言いは乱暴なところもあるが、表情豊かで気取りがなく、独特の愛らしさを感じさせる人物だった。
(おかしいな? おれは、王城以外の場所で、公主さまに会ったことがあるような気がする――)
都に来てからは、一度も梁家の屋敷の敷地から出ることはなかった。
出会っているとすれば、それ以前のことで、沐陽が、まだ祖父母の元にいた頃ということになる。
あんな田舎に、公主が来ることなどあるのだろうか、と沐要は首を傾げた――。
沐陽がいろいろと思い巡らせていると、公主の白い手がすっと伸びてきて、かごの中の桃を一つ掴んだ。
声をかける間も与えず、公主は握りしめた桃にそのままかぶりついてしまった。
公主の指を伝う桃の果汁、果樹園に広がる甘い桃の香り――。
沐陽の心の奥にある、幼い頃の記憶の引き出しが、静かにゆっくり引っぱり出された――。
「ああっ! こ、公主さまは、あ、あのとき、果樹園で桃を籠ごと買ってくださった――」