3.果樹番は王宮へ
小屋に戻ってきた沐陽は、井戸から水を汲んできて、髪や顔を洗い、体を拭いて身ぎれいにした。襟元で髪を結び直してみて、彼は気づいた。
「王城へは、何を着ていけばいいんだろう?」
服だけではない、靴とか帽子など――、帝に謁見するとなれば、失礼のない身支度が必要だと思われた。服装がおかしいからといって、義母が言うように処罰されることはないだろうが、父が王城の人々の笑いものになるのは嫌だった。
無責任で立場の弱い父であったが、沐陽が祖父母のところにいるときから、彼の愛情を感じる機会は度々あった。
屋敷の使用人を通して、新年の贈り物が届いたことがあったし、果樹園の果実を相場よりかなり高く買い取ってくれたこともあった。沐陽が祖父母のもとで何不自由なく暮らせたのは、父の密かな支えがあったからにほかならない。
「義母上や義兄上たちがあの様子では、父上にお願いすることはできないよな。どうしたものだろう?」
沐陽が思い悩んでいると、馬爺さんが、もぎたての琵琶を載せた籠を抱えて小屋へ入ってきた。爺さんの麦わら帽には、蜘蛛の巣が絡みついていて、逃げ場をなくした一匹の蜘蛛が帽子のつばに貼り付いていた。
沐陽は、蜘蛛の巣を掻き取り、蜘蛛を捕まえると小屋の外へ放り出した。
果樹の葉や幼果を狙う虫を駆除してくれる蜘蛛を、沐陽は大切にしていた。
「わたしもおまえのように、糸を自由に操って布でも織れたなら、衣服のことで思い悩んだりしないですむのになあ!」
草むらに潜り込む蜘蛛を見ながら、沐陽は、溜息混じりにそう言った。
「どうかしましたか、坊ちゃん? いつも元気なあなたが、そんな辛そうな顔をするなんて――。わしで、お役に立つことがあるなら、何でもおっしゃってくださいまし」
心配した馬爺さんに尋ねられ、沐陽は王城に呼ばれたが着ていく服がないことを話してしまった。
すると爺さんは、ほこりをかぶった長櫃の中から、何十年も前に友達の結婚式に着ていったという一張羅を探し出してきた。同じ箱から、古びた靴も見つかった。
どういうわけか、どちらも沐陽にぴったりの寸法だったので、それらを身につけ王城へ向かうことにした。
それなりに上等な服ではあったが、ずっとしまわれていたので、しわだらけな上にかび臭かった。そこで、外に干し湿気や臭いを飛ばすことにした。
靴も丁寧に磨き、軒下に置いて風にさらした。夜になったら取り込むつもりでいたが、疲れていた二人は、忘れてそのまま眠ってしまった――。
翌朝のこと――。
「おおおっ! うわわわわわっ! こ、これは、どうしたことじゃあ!?」
いつものように、夜明けとともに起き出し、小屋の井戸へ向かった馬爺さんの叫び声で、沐陽は目を覚ました。
何ごとかと慌てて寝床を出て、扉を開けてみると――。
小屋の外では、爺さんが尻餅をついて軒下を見上げていた。
そこには、夕べ片付け忘れた古い礼服が吊されていたのだが――。
古着は、繊細な刺繍でおおわれ、朝日を浴びて七色に光り輝いていた。花と果実が描かれた豪華な刺繍は、靴の表面にも施され、同じ刺繍の手巾がその上に載っていた。
沐陽は、驚きのあまり声を出すこともできなかった。
理由はわからないが、何か奇跡が起きたのに違いなかった。沐陽は、爺さんと一緒に造物主である天帝へ感謝の言葉を唱え、大急ぎで身支度を整えた。
出発のあいさつをするために沐陽が本邸へ赴くと、父はもちろん義母や義兄たちもその美しさに言葉を失い、あまりのまぶしさで悶絶しかけた。
まんざらでもない気分になった沐陽は、王城からの迎えの馬車がやって来ると、父と一緒に意気揚々と乗り込んだ。
「これが、都ですか! 屋敷に来て十年になりますが、こんなに賑やかな場所だとは知りませんでした。この景色を見られただけでも、王城に召し出されて良かったです!」
屋敷の敷地から出ることを禁じられ、果樹園と小屋を行き来するだけの生活を送ってきた沐陽にとっては、目にするもの全てが物珍しく、窓外を流れ去る風景にいちいち歓喜の声を上げた。
やがて、馬車は、金色に耀く門を抜け王城に到着した。
美しい刺繍で飾られた少し古風な衣装を身にまとった沐陽が、優雅に馬車から降り立つと、出迎えた侍従や女官は皆その美貌に目を奪われた。
父である梁茗沢を知る者たちは、若き日の彼に勝るとも劣らぬ麗しいその子息に感嘆の声をもらした。
侍従たちは、夢見心地のまま彼を謁見の間に案内し、帝と引き合わせた。
「梁家の四男、梁沐陽よ。本日は、ご苦労であった。そなたを……」
―― バーン!!
帝の言葉を邪魔するように、突然、大きな音を立てて扉が開かれた。
そして、一人の人物が、謁見の間へ駆け込んできた。
この国の公主だった。
公主は、驚いた顔で自分を見つめている帝の横に歩いてくると、その前でひざまずいている沐陽をじろじろと観察した。ほかの者とは違って、公主は沐陽の美しさには全く興味がないようだった。
「やけに身ぎれいにしているわね。おまえは、本当に沐陽なの?」
「はい、さようでございます……」
「梁家の息子なのに、どうして丸顔キツネ目じゃないの?」
「そ、それは……」
「果樹園で働いていて、おいしい果実を実らせることができるというのは、真実でしょうね?」
「えっ? いったいどうして……」
「いいわ! それは、仕事に携わる中で明らかになるでしょう。もし、偽りなら、そのときはおまえやおまえの父親の首をはねればいいだけのこと――」
「へっ? く、首を……」
「梁沐陽、おまえに、わたしの朝食用果物栽培役を命じます! おまえは今日から、王城の果樹園にある小屋に寝泊まりし、果樹の世話をしなさい! そして毎朝、その日最高に美味しい果物をわたしの朝食に供しなさい! いいわね!」
「あ、あの……えっ、えっ、ええーっ!?」
公主は、沐陽の顔をねめつけた後、ぷいっと顎を逸らし、つかつか歩いて扉から出て行ってしまった。謁見の間にいた人々は、扉が閉まるといっせいに安堵の溜息を漏らした。
帝も、ようやく声を出せるようになり、すまなそうに沐陽に言った。
「沐陽よ、聞いたとおりだ。公主のために、毎日朝食用の果物を用意するのがそなたの仕事だ。詳しくは言えぬが、この国の未来はそなたの働きにかかっておる! これより王宮の果樹園に向かい、さっそく果樹の世話に励め! よいな!」
「ははっ!」
こうして沐陽は、理由も知らされないまま謎めいた職務を与えられ、王城の果樹園の小屋に住み、果樹の世話をすることになった。
侍従に案内された「小屋」は、さすがに王城の「小屋」だけあって、梁家の「小屋」とは全くの別物だった。小綺麗な寝室のほかに居間や厨房、井戸まであった。
寝室の衣装箪笥には、様々な服が用意されていたが、仕事着になりそうな物を三着ほど選び、後は侍従に引き取ってもらった。
厨房のとなりの食料庫には、とりあえず必要な食材や調味料が十分に揃えてあった。
作業しやすい服に着替えようと、刺繍をあしらった上着を脱ぐと、袖口から何かが這い出してきた。
沐陽は、つまみ上げて目の前にぶら下げた。
蜘蛛だった。どこかで見かけたような気がして、沐陽が首をひねっていると――。
「沐陽、昨日はありがとうよ! おれのことを潰さないで逃がしてくれて」
小さな小さなキイキイ声で、蜘蛛が沐陽に話しかけた。
沐陽は一瞬驚いたが、蜘蛛の言葉を聞いて思い出したことがあった。
「おまえ、昨日、馬爺さんの帽子にくっついていた蜘蛛だな?」
「ああ、そうさ! 命を助けてもらったんでな。あんたの服にちょっとばかしお礼をしておいたんだ。一晩中働いて、うっかり袖口で眠っちまったら、こんなところへ連れてこられたってわけさ!」
「服や靴にあんな立派な刺繍をしたり、言葉をしゃべったりできるってことは、おまえ、ただの蜘蛛じゃないな?」
「へへっ、まあね――。どうやら、しばらくの間、あんたとここで暮らすことになりそうだ。仲良くやろうぜ、相棒!」
「わかったよ、よろしくな!」
蜘蛛が相棒というのもおかしな話だったが、ひとりぼっちは退屈だし寂しいので、沐陽は蜘蛛の申し出を快く受け入れることにした。
沐陽が、寝室の窓辺に置いてやると、蜘蛛はするするっと窓枠を上っていった。