2.梁家の四男
領地の郷にある果樹園を訪れた士大夫の梁茗沢が、果樹園の娘をたいそう気に入り、侍女として身近に置いたあげくできてしまったのが沐陽だった。
沐陽にとって不運だったのは、彼が、眉目秀麗な父とそっくりな容貌をしていたということだ。
夫人と同じ丸顔にキツネ目で、父親と似たところがほとんどない三人の兄と違って、沐陽は生まれたときから光り輝く美童であった。
それをまた父がたいそう喜び可愛がったものだから、夫人は、よりいっそう母子を憎らしがり、使用人部屋からも追い出して、古い物置小屋へ押し込んでしまった。
沐陽は、目立ちすぎてはいけないと言われ、人前に出るときは髪や顔に泥を塗りつけさせられた。
だが、どんなに汚れていても粗末な服を着ていても、天与の美貌は人々の心を引きつけた。
もちろん、その人々の中には沐陽の父も含まれた。
表だっては、親子に関われない主の意を汲んだ使用人たちは、こっそり沐陽と母親に便宜を図り二人を支えた。
沐陽が三歳の時、流行病で母が亡くなった。
あまりにも幼かったので、夫人は沐陽を下僕として屋敷におくことをあきらめた。
そして、夫を説き伏せ、母の亡骸と幼い沐陽を祖父母に引き取らせることにした。名門である梁家の家譜に名前が載ることもなかった沐陽は、こうして表舞台からはいったん姿を消すことになった。
梁家の夫人は、沐陽の父親は誰だかわからないと祖父母に伝えたが、果樹園がある郷に暮らす人々は、沐陽が梁茗沢の子であることを疑わなかった。
そして、彼がここへ連れてこられた事情を察し、皆、余計なことは口にせず、平穏な暮らしが続くよう彼のために祈った。
祈りが通じたのか、沐陽は、祖父母の元ですくすくと成長した。
そして、五年もたつ頃には、幼いながらも果樹園の立派な働き手となっていた。
ところが、沐陽が八歳の時、彼は再び都にある梁家に連れ戻されることになった。
沐陽を梁家に迎え入れたいと言いだしたのは、誰あろう夫人だった。
それというのも、成長してますます父親に似てきた沐陽の噂が、果樹園と取り引きしている者の口から都の役人や豪族たちの間に広まり、「士大夫にそっくりな美少年がいるが、彼はいったい何者か?」という問い合わせが、梁家にまでくるようになってしまったのだった。
「あの美しさは、いつの日か必ず災いを呼び寄せることでしょう。世間の目に触れさせぬよう我が家に引き取り、沐陽の生まれに相応しい静かな生涯を送らせてやります。これより、あの者は行方知れずになったことにしなさい。居場所を尋ねる者があっても、そのように答えるのですよ!」
夫人は自ら果樹園に乗り込むと、祖父母にそう言ってわずかばかりの金を渡し、無理矢理沐陽を引き取った。そして、屋敷の庭の果樹園にある小屋に住まわせ、肥やしや下草まみれの暮らしをさせることにした。
八歳になった沐陽は、今度こそ屋敷の下僕として、ただ働きが期待できそうな少年に育っていた。
長年小屋に住み、一人で果樹園の手入れをしていた庭師の馬爺さんが、沐陽の世話係となった。しかし、八歳の沐陽は、すでに郷の果樹園で一通りの仕事を学んでいたので、彼が来たことで、むしろ爺さんは楽ができるようになった。
故郷を離れ祖父母とは別れることになったが、毎日、果樹の世話ができるだけで沐陽は幸せだった。
沐陽には、確かに果樹を育てる才があり、彼が世話をした樹は、びっくりするほど美味しい実をつけた。それは、不遇な彼に神が与えた、特別な力であったのかもしれなかった。
彼が来たことで、屋敷の果樹園は見る間に立派なものに変わった。
食卓に並ぶようになった自家製の立派な果実に、梁家の人々は目を見張った。
しかし、めったに果樹園など見に行かない夫人や息子たちは、若木だった果樹が育ち、良い実が採れるようになっただけだと思っていた。
そうして、十年の歳月が流れた――。
その朝、沐陽は、屋敷の家令に呼ばれ、あわてて果樹園での仕事を切り上げ本邸に駆けつけた。
居間に入ってみれば、父はもちろん、自分を忌み嫌う義母や三人の義兄までもがそこに並んでいた。
(こいつは、『この家を出ていけ!』って話かなあ? もう、子どもじゃないんだし、一人で生きて行けってことか――。まあ、そうなりゃあ、爺ちゃんのところに帰って、果樹園の手伝いをしてもいいわけだよな――)
沐陽は、泥まみれの顔を伏せ、これから起こるであろうことをいろいろと思い描いた。
士大夫は、壮年となった今も人を引きつけずにはおかない、美しい顔をかすかに上気させ、どこか誇らしげに沐陽を見つめていた。しかし、ほかの四名は、そばかすだらけの非常によく似た丸顔をそろってしかめ、くやしそうに沐陽から目を逸らしていた。
(おやおや、父上は何だか嬉しそうだが、義母上や義兄上たちは、恨めしそうにおれを見ているぞ? どうやら、おれにとって好都合な話が、父上から告げられるらしいな――)
沐陽は、五人の表情や雰囲気から、これから起こることを大筋で理解した。
彼は、すばやく父の前にひざまずき、頭を下げてその言葉を待つことにした。
こういうときは、できるだけ動かずしゃべらず目立たずにいるに限るのだ。
この屋敷に来たばかりの頃は、思ったことを口にするたびに、「生意気だ!」「調子に乗るな!」と義母や義兄たちから責められた。
そのあげく、冷たい地下の貯蔵庫に閉じ込められたり、庭の池に突き落とされたりしたこともあった。そのたびに、沐陽は高熱を出した。
そのせいか、今ではここに来る前の記憶は、心の引き出しにでもしまい込んだように、ずいぶんとおぼろげなものになってしまっていた。
屋敷から逃げだそうと考えたことも、何度かあった。
しかし、祖父母のもとへ行っても迷惑をかけるだけだし、連れ戻されたらもっとひどい目に合うかもしれないと思えば、行動に移すことはできなかった。
そもそも、知り合いもいない都で、金も持たずに町へ飛び出しても路頭に迷うだけだ。
そうなれば、屋敷にいるときよりも、もっと悲惨な暮らしが待っている。
引き取られてから十年。
沐陽は、身も心も大人になった。そして、この屋敷で平穏無事に暮らす知恵を身につけた。
ここ数年は、祖父母の果樹園にいた頃のように、収穫前に落ちた果実を拾って、こっそり出入りの商人に安く分けたり、果実と引き替えに欲しい書物を届けさせたりしていた。
いつかこの屋敷から解放されたときのことを考えて、彼なりに準備を進めていたのだ。
(今はもう、何があろうと大丈夫さ! 行けと言われれば、どこへでも行ってやる! そして、またそこで果樹を育てて、おれは生きていくんだ!)
胸に湧き上がってきた希望を義母や義兄たちに悟られぬように、沐陽はますます頭を低くした。
やがて、士大夫が、誰もがうっとりするような美声で沐陽に語りかけた。
「沐陽よ、喜びなさい! 今さっき王城より、陛下がそなたを召し出してくださるとの知らせが届いた。名誉なことに、我が梁家の四男であるそなたに、王城での職務が与えられたのだ! 次男や三男でさえ、そのような栄誉にあずかることはまれだ。これは、奇跡とでもいうべきできごとなのだよ!」
頭を垂れたまま沐陽は、父の言葉にどう答えようか悩んでいた。
確かに名誉なことであるが、あからさまに喜べば、義母や義兄たちから、「田舎者はこれだから!」「卑しい出の者が図々しい!」と、聞きたくない言葉を投げつけられるに決まっていた。
たいていの悪口雑言は、聞き流し忘れるすべを身につけてはいたが、それでもまったく心が傷つかぬわけではない。
「ははっ! 慎んで敬愛する陛下のお召しに従います!」
迷ったあげく、帝の召喚に応じることだけを宣言して、自分の感情はいっさい表に出さないような返答をした。
どんな職務かわからなかったが、四男とはいえ、士大夫の子息を召し出すのだ。まさか、厩の掃除や掃き溜めの片付けを命じられることはあるまい、と沐陽は考えていた。
「うむ。明日の朝には、王城から迎えの馬車がつかわされる。職務の詳細については、陛下より直接お話くださるとのことだ。どのようなお役目であっても、心してお務めするのだぞ、沐陽!」
「はい、父上!」
床にこすりつけんばかりに頭を低くした沐陽に、長兄から心ない言葉が浴びせられた。
「この厄介者が我が家にいることは、世間には秘密とされているはずです。いかがして、陛下はこやつの存在をお知りになったのでしょうか? 例の果樹園の爺婆が、金でも掴まされ、誰ぞに漏らしてしまったのでしょうか?」
それを聞いた次兄や末兄が、ここぞとばかりに言いたい放題を口にして騒ぎ立てた。
「いったいこやつは、どうやって自分を王城に売り込んだのでしょうか? こっそり仕事をさぼって町にでも出かけ、梁家の者であると吹聴していたのではありませんか?」
「たいした働きもできない上、礼儀もなっておりませんから、すぐにお払い箱になることでしょう。我が家の不名誉にならねばよいのですが!」
極めつけは、最後に放たれた義母の言葉だった。
「何かの間違いに決まっております! 陛下の御前でそれが明らかになったときは、なんらかのご処分を受けることとなりましょう。やはり、この者はこの家に厄災を運んできたのです! そうならないようにひっそり生かしておいたのに! 何といまいましい! 今のうちに勘当し、我が家との縁を切っておいてはいかがでしょうか?」
いやいや、そもそもこの家に来てから、梁家の子息として扱われたことなど一度もない。今さら、勘当も縁切りもないものだ――と、沐陽は思ったが、とにかく黙っていることにした。
士大夫は、「何も、そこまではせずとも」と言いながら、夫人をなだめ、明日の出発に備え準備をするように沐陽に命じた。
なぜ、沐陽が召し出されたのか、士大夫自身もさっぱりわからなかった。
しかし、自分にそっくりな沐陽が可愛くて仕方がなかった彼は、帝から沐陽の名が出て、その所在を尋ねられたとき、何も考えず「沐陽は、今、我が屋敷におります!」と答えてしまったのだった。
士大夫は、あえてそのことを夫人には言わなかった。
沐陽の出自が出自ゆえ、なにかにつけて彼は、夫人に気を使わないわけにはいかなかったからだ。
いかなる美丈夫といえども、火遊びの代償は大きかったのである。