11.巫女姫と果樹番 下
「女神さま、ありがたいお申し出ですが、おれは天の桃園に残るわけにはまいりません。そうなっては、若渓さまのために王城の果樹園で果樹を育て毎朝果実を収穫するという、何よりも大切な仕事ができなくなってしまいます。ですから、いつの日か、もうおれが若渓さまに果実を用意しなくてもよくなる日が来るまで、待っていただけませんか?」
沐陽の答えを聞いた途端、公主は大きな瞳を涙で潤ませた。それから、喜びや不安、感謝や申し訳なさが入り交じった複雑な表情を彼に向けた。
沐陽は、いつまでも公主のそばにいることを誓うように、糸の巻き付いた右手を伸ばし彼女を優しく抱き寄せた。
「ほほほっ、そなたたちが夫婦であることを忘れていました。わかりました――。人には、人としての務めもありましょう。天の桃園へ来るのは、その務めがすんでからでかまいませんよ。そのぐらいの時間は、わたしたちにとってはどうということはありません。ただ、ときどきは桃園の様子を気にかけて欲しいので、これからも巫女姫がここへ来るときには、そなたも一緒に来なさい。よいですね?」
「は、はい、女神さま! ありがとうございます!」
沐陽の人差し指に巻き付いた糸が、風に揺れてきらりと光った。
指先には、いつのまにかあの蜘蛛が止まっていた。
蜘蛛は、いつものキイキイ声で言った。
「おうおう、ようやく話がまとまったようだな! おっと、女神さま、お久しぶりでございます!」
「おや、おまえは以前桃園に住んでいた蜘蛛ですね。しばらく見ないと思ったら、いったいどこへ行っていたのですか?」
「以前、お務めの途中で人間界へ返された巫女姫がおりましたよね? あの者の衣の襟で休んでいたわたしは、一緒に人間界へ流されてしまいました。その後は、人間界の果樹園を風に乗って渡り歩き、様々なことを学びました。このたび、無事にこちらへ戻れましたからには、桃園の世話をお手伝いさせていただきます!」
「それは心強いこと! 巫女姫や果樹番が不在の間は、おまえに桃園を任せることにいたしましょう!」
蜘蛛は、桃の木の枝先へ飛び移ると、沐陽に向かってちょっと偉そうに言った。
「――というわけだよ、相棒! あんたたちが来るまで、桃園はおれがきちんと世話をしておくから、姫さまと一緒に安心して王城へ帰りな! 十年後にまた会おうぜ!」
「ああ、よろしく頼む! またな、相棒!」
沐陽の言葉が終わらぬうちに、目の前に小さな泉が現れた。
神殿の泉と同じように、水面は暗く底は見えない。だが、その先に何が待っているのか、今の沐陽にはよくわかっていた。
沐陽は自分から公主の手を取り、泉の中へ足を踏み入れた。
「さあ、急ぎましょう、若渓さま! 早く王城へ戻って、果樹園の手入れをしなくては! 明日の朝餉には、また美味しい桃をむいて差し上げますからね!」
「沐陽、おまえ、こんな秘密を知ってしまったのに、それでも変わらず、これまで通り王城の果樹番を続けてくれるというの?」
「当たり前ではないですか! 十年後も二十年後も若渓さまのお役に立つように、もっともっと果樹番の腕を磨きます!」
泉に沈むと、天界へ来たときと同じように、二人はとろりとした深い闇に包まれた。
しかし、しばらくすると二人の頭上に、明るい水色の窓のようなものが浮かび上がった。それが、礼拝堂の泉につながる出口だった。
沐陽は、公主の手を引きながら、必死で手足を動かし上昇を続けた。
なんとか泉の水面へたどりつき、二人同時に顔を出すと、公主は大きな声で叫んだ。
「明霞―っ! 今、戻ったわー! 早くわたしたちを引き上げに来てーっ! 王城へ戻ったら、沐陽をわたしの婿にするわよー!」
「む、婿って!? 若渓様、お、おれはただの果樹番で――」
もぞもぞつぶやく沐陽の口を、公主は急いで手で塞いだ。
それから、幸せそうな顔で沐陽にささやいた。
「沐陽、王城の天帝神殿にあの桃を供えたのは《《おまえ》》よね? つまり、おまえは、わたしと夫婦になることを望んでくれたってことよね?」
驚きのあまり再び泉に沈みかけた沐陽を、公主が慌ててぐいっと抱き寄せた。
明霞の両手が伸びてきて二人の後ろ襟を掴み、思いも寄らない力で二人を引き上げた。
それは、二人が泉に身を沈めてから、ちょうど三日後のことだった――。




