10.巫女姫と果樹番 上
「あのときは、叔母さまのように疲れて眠ったり、うっかり桃を食べてしまったりするのではないかと思うと、お務めが怖くてたまらなかった――。でもね、礼拝堂へ行く前に、おまえから買った籠いっぱいの桃を全部食べたら、なぜか力が湧いてきてお務めも上手くいきそうな気がしたの!」
「あれだけの桃を、全部お一人で召し上がったのですか!?」
「ふふふっ! おかしいわよね、でも本当よ! あまりにも美味しくて、途中でやめられなかったの。桃でお腹をいっぱいにしてここへ来たら、喉が渇くこともお腹が空くこともなかったわ。おまけに、ここの桃を見ても、おまえの桃の方が絶対に美味しいと思ったから、食べる気にならなかったしね! わたしは、おまえの桃のおかげで、初めての巫女姫の務めを無事に果たすことができたのよ!」
少し恥ずかしそうにうつむいて、十年前の話をする公主の笑顔は、初めて果樹園であったときのように愛らしく、沐陽の心を温かなもので満たした。
二人は、一緒に手を伸ばして、最後の桃をもぎ取った。
桃の実がするりと籠に収まると、萌葱色の光が優しく二人を包んだ。
二人の前には、豊饒の女神が立っていた。
「ご苦労でしたね、巫女姫! 桃の収穫は無事に終わりました。今年は桃の出来がことのほか良かったので、天帝さまはたいそうお喜びです。そなたの夫が、一緒に来てくれたおかげかもしれませんね」
「はい! 神々がお喜びになるようなお務めができましたのも、夫が手伝ってくれたからこそです!」
公主は、誇らしげな顔でそう言うと、沐陽に向かって微笑んだ。
沐陽も、自分が公主の役に立てたことが嬉しくて、彼女に笑顔を返した。
女神は、そんな二人を満足そうに眺めていたが、そのあと驚くべきことを申し出た。
「まことにそなたの夫は、果樹を育てる才に恵まれています。そこで相談なのですが、そなたの夫をこの桃園に残していってはくれませんか?」
「えっ? そ、それは、どういうことでしょうか?」
「そなたの夫に、天の桃園の果樹番をさせたいのです。もしそれを承知してくれたなら、この先ずっと、基国の豊作を約束しましょう。もう、巫女姫が天の桃園へ来る必要もありません。果樹番が、桃の収穫もしてくれますからね。どうですか、巫女姫? 基国の王家にとって、たいそう良い話でありましょう?」
豊饒の女神は、慈愛に満ちた表情で公主を見つめていた。
神が嘘を言うはずがない。沐陽を天界へおいていけば、今後、何があろうと基国は不作に悩まされることがなくなるのだろう。そして、人が増え国力も増し、国は大きく栄えることだろう。
公主として、選ぶべき答えは決まっていた。
だが、彼女はすぐには返事ができなかった。
公主は、基国の繁栄よりも、これまで自分に尽くしてくれた沐陽の幸福を願っていた。
天人になれば、死への愁いから解放される。だが、不老不死の身となり未来永劫天の桃園で働くことを、沐陽は幸せと感じるだろうか?
公主は、いずれ自分が巫女姫の務めから解放されたら、多額な礼金を与え、沐陽を王城から自由にしてやるつもりだった。
沐陽にとってどちらがより幸せなことなのか、公主にはわからなかった。
沐陽は、女神と公主のやりとりを黙って聞いていた。人差し指に絡みついた糸をしきりに親指でこすり、気持ちを落ち着けようとしていた。
やがて公主は、その手に自分の手を重ね、じっと沐陽の顔を見つめたあと、いつものきっぱりとした口調で彼に言った。
「沐陽、おまえの好きにしなさい! 不老不死になって、天の桃園でおまえが好きな果樹番の仕事に携わってもいい。人間界へ戻って、これまで通り王城で果樹番を続けてもいいわ。わ、わたしはどちらでもいいから、おまえが決めなさい!」
「若渓さま――」
人間に生まれた沐陽が、この摩訶不思議な天の桃園で神々のために桃を育てるというのは、たいへん名誉なことではあった。
それによって、彼の愛する人々が住む基国が永遠に栄えるのなら、それは悪い選択ではなかった。
だが、彼は、今一番大事にしたいものを選び取ることにした。




