1.プロローグ ~果樹園での出会い~
それは、基国の都・東蔡に近い、小さな郷でのできごと――。
沐陽がまもなく八歳になろうという頃のこと――。
その朝、沐陽は、悔しさで奥歯を噛みしめながら、果樹園の中を歩いていた。
昨晩の風によって落ちた食べ頃の桃が、いたるところに転がっていた。
一つ一つ丁寧に手で拾い、背中のかごへ収めていく。
傷ついた桃は、村の市場に出しても安値でしか売れない。
今年は、季節外れの強く冷たい風が何度も吹き、開花を待つ果樹たちを痛めつけた。
桜桃や杏も、いつもの年ほどは実らず、畑の作物も不作が続いていた。
富裕な商家や大地主などと高値で取り引きできる桃は、どれだけ採れるのだろう――。
桃の木を見上げながら、沐陽は大きな溜息をついた。
そのときだった。
沐陽の視界の端を小さな人影が横切った。
桃泥棒!?
風のせいで収穫が減っているというのに、残った桃まで盗まれてはたまらない。
沐陽は、人影を追って走り出した。
背中の籠の重みで足元をふらつかせながら、彼が果樹園の中心部にたどり着くと、案の定、そこには見知らぬ人物が立っていた。
淡い桃色の上等な服を着た、沐陽と同じくらいの年頃の女の子だった。
子どもだからといって、油断してはいけない。大人に命じられ、数人の子どもが果実を盗みに来たこともあった。沐陽は、少し離れたところから、女の子の様子を観察することにした。
女の子は、小さな鼻を空に向けて目を閉じ、一心に香りをかいでいた。
そして、うっとりとした顔でつぶやいた。
「ああっ! なんて甘い香り! 桃の実の中に閉じ込められたみたい!」
まるで桃そのもののような丸い頬を緩ませ、にっこりと微笑みながら、女の子は桃の香りに酔いしれていた。あまりにも愛らしいその姿に見とれ、沐陽は声をかけることも忘れていた。
やがて、数名の大人たちが、「若渓さま―っ!」と叫びながら、こちらに近づいて来た。彼らは、女の子の従者と思われる格好をしていた。
面倒事に巻き込まれるのはいやなので、沐陽は、刈った下草を積み上げた山の陰に隠れた。大人たちは、女の子に気づくといっせいに彼女に駆け寄った。
「若渓さま! 勝手に行ってはなりません!」
「何が起こるかわからぬ場所です! われらの注意を聞いてくださらないと!」
「もう、十分に桃畑をご覧になりましたでしょう! 早く馬車にお戻りください! 急いで神殿に向かわねばなりません!」
大人たちは、息を切らしながら、もうどこへも行かせないぞというように女の子を取り囲んだ。女の子は、そんな大人たちにちょっと怒った顔で言い放った。
「嫌よ! 香りだけじゃ満足できないわ! わたし、桃を食べたい!」
両手を握りしめその場に座り込んだ女の子は、上目遣いに大人たちを見回しながら、こっそり舌なめずりをしていた。それがまた、沐陽には、妙に可愛らしく思えた。
大人たちは、困り顔になり、こそこそと話し合いを始めた。
だれも見ていないと思えば、いくら良家の従僕たちでも、桃を勝手にとってしまうかもしれなかった。ただでさえ、収穫が減って困っているというのに――。
沐陽は、背中の籠を背負い直すと、わざとガサガサと音を立てて立ち上がった。
大人たちは話をやめ、同時に彼に目を向けた。
「な、何ものだ!」
剣の柄に手を掛け、護衛役と思われる若い男が、女の子を隠すように前に出た。
沐陽は、服についた枯れ草を払いながら、わざとおっとりとした口調で答えた。
「おれは、この果樹園の持ち主である暁東の孫の沐陽です。桃が欲しかったら、爺ちゃんのところへ行って、きちんと値段の交渉をして買い取ってください!」
「な、なにを言う! こ、こちらのお方をどなたと心得る、このお方こそ――」
「それ以上言ってはなりません、宇軒!」
大人たちの中で、最も年嵩に見える女が、護衛役を黙らせた。
そして、沐陽に笑顔を向けて交渉役を引き継いだ。
「われらは、急いでいるのです。できれば、今すぐ桃を手に入れたい。そなたの言い値で買い取りますゆえ、値を申してみなさい。桃は一ついくらですか?」
「一つじゃダメ、三つ、いえ四つよ!」
女の子が、大きな声で横槍を入れた。
女は、女の子を一瞬睨んだが、すぐに言い直した。
「あらためて申します。桃は四つで、いくらになりますか?」
沐陽は、大人たちに平然と命令を下す女の子を面白そうに見つめていた。
桃を食べさせてやりたいなと思ったが、彼には桃の値を決める資格はなかった。
「おれが、勝手に桃の値を決めることはできません。そんなことをしたら、爺ちゃんに叱られます。でも、背中の籠の傷ついた桃なら、おれに任されているものだから大丈夫です。村の市場に出している値で売りますよ。風に落とされて皮に傷がついていますが、味は変わりません」
大人たちは、また相談を始めた。
傷ついた桃だが、味は悪くない。五個で銅貨一枚が村の市場の相場だが、どう見ても銅貨など持っていなさそうな連中だった。
銀貨や金貨を出されても、沐陽には手持ちがない。つりは渡せない。
大人たちの話がなかなかまとまらないことに腹を立てたのか、女の子が咳払いをした。
「コホン! わかったわ! 籠の桃を全部買うわ! 金貨一枚でどうかしら?」
「お嬢さま!」
金貨一枚では、上等な桃がかごに五杯は買えてしまう。
桃の相場を知っているのか、大人たちは慌てていた。
さすがに、そんなあくどい真似はできないので、沐陽は言った。
「そんなには、いりません。銀貨一枚で十分です。籠ごと持って行ってかまいません」
女は、従僕風の男に命じ、銭袋から銀貨を二枚取り出させた。
男は、沐陽にそれを渡すと、桃の入った籠を彼の背中から引き取った。
一枚は代金、もう一枚は口止め料ということだ。
「お嬢さま」と呼ばれるだけあって、女の子はそれなりの地位にある一族の者らしい。
沐陽の口から、女の子がこんな場所にいることが広められては、何か差し障りがあるのだろう。
「ありがとうございます」
沐陽はそう言って頭を下げると、ぴかぴかに磨かれた二枚の銀貨を懐にしまった。二枚とももらったということは、「このことは、誰にも言いません」という意味だ。
大人たちが安堵し、来た道を戻ろうとしたとき、女の子が言った。
「待ちなさい! この子を信用しないわけではないけれど、ここで一つ食べてみるわ! もしおいしくなかったら、木になっている桃を四つ、ただで寄越しなさいね!」
沐陽の返事も待たず、女の子は従僕の抱える籠から、桃を一つ取り出し、皮も剥かずにかぶりついた。とろりとした果汁が甘い香りと共にあふれ出し、女の子の手を濡らした。
女の子は、パッと顔を上げると、桃を手にしたまま叫んだ!
「こんなにおいしい桃を初めて食べたわ! 素晴らしいわ、えっと、ムー……」
「沐陽です!」
「沐陽! おまえには、果物作りの才能があるわ! これからも、人々が喜ぶような美味しい果物作りに励みなさい! さあみんな、馬車に戻るわよ!」
再び走り出した女の子を追いかけるように、大人たちもばたばたと走り去って行った。
瑞々しい桃の香りが漂う静かな果樹園には、沐陽だけが残された。
今日まで、桃をほめられることはあっても、沐陽自身が認められたことはなかった。
沐陽は、女の子に感謝した。
そして、彼女が喜ぶような果実が採れるよう、これからも果樹の世話を一生懸命続けていこうと心に誓ったのだった――。