3日目
朝日が差し込む宿屋の部屋。ゲラはベッドで寝返りを打ち、まだ寝ぼけたままの声でつぶやいた。
「うーん、まだ眠い……あとちょっとだけ寝かせて……」
その時、ドアをノックする音とともに、エリスの落ち着いた声が響いた。
「ゲラさん、朝食ができていますよ。今日は旅の準備を始めましょう」
「んー、準備かぁ……でも、もうちょっとだけ寝たいなぁ」
ゲラは毛布にくるまりながらも、エリスの言葉に起こされる。エリスはそんな彼女を見て、ため息をつきながらも、どこか優しげに微笑んだ。
「まったく、ゲラさんは本当にのんびりしていますね。でも、今日はしっかり動いていただきますからね」
「はーい……わかったよー」
ゲラはしぶしぶベッドから起き上がり、顔を洗ってエリスの待つ食堂へと向かった。朝の光が差し込む中、彼女はまだ少しぼんやりした顔で朝食を食べ始める。
朝食を済ませると、エリスは早速旅の計画を立て始めた。彼女が地図を広げて細かくルートを検討している間、ゲラは隣でリュックをひっくり返して、荷物を適当に詰め込み始める。
「ゲラさん、その荷物はちゃんと整理して入れてくださいね。いざという時に必要なものがすぐに取り出せないと困りますから」
エリスはゲラの様子を見て、きっちりとした指示を出すが、ゲラは気楽に笑って肩をすくめた。
「うーん、でもいちいち考えるの面倒くさいんだもん。どうせ、エリスがちゃんとやってくれるんでしょ?」
「その通りですわ。でも、私がいないときに困ることになっても知りませんよ」
エリスの真剣な返答に、ゲラは「うんうん」と適当な返事を返しながら、何となく荷物を詰め直した。エリスは思わずため息をつきつつも、そのやり取りが少し面白く感じられ、口元に微笑みが浮かんだ。
準備を進める中、エリスはゲラに旅の間のことをあれこれと説明していた。食料の管理方法や、野営の仕方、そして万が一の時に使う応急処置まで、細かく話すエリスに、ゲラは「へー、なるほどねー」と、まるで聞いているのか聞いていないのかわからない反応を返している。
「ゲラさん、私の話をちゃんと聞いていますか?」
「聞いてる聞いてる! だいたい、なんとかなるっしょ?」
「全く、ゲラさんは楽観的すぎますわ。でも、そういうところがあなたの良いところなのかもしれません」
エリスはそう言いながらも、少しだけ心配そうな顔をする。その視線に気づいたゲラは、笑いながらエリスの肩を軽く叩いた。
「まあ、エリスが真面目すぎる分、私がのんびりしてるくらいでちょうどいいんじゃない?」
「……それも、確かに一理ありますね」
エリスはクスッと笑って、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
市場で必要な物資を集めるために、二人は村の賑やかな市場へ向かった。様々な露店が並び、カラフルな果物や野菜が山積みになっている。見たことのない珍しい道具も売られていて、ゲラは興味津々で見回している。
「エリス、このキラキラした石、すごく綺麗じゃない?」
ゲラが目を輝かせて手に取ったのは、虹色に輝く小さな石。エリスはそれを見て、少しだけ困ったように首を振った。
「それはルミアナイトといって、魔力を蓄える性質があります。確かに貴重なものですが、今の私たちには不必要ですわ。旅の資金を無駄に使ってはいけません」
「そっかぁ……まあ、また今度ね」
ゲラは残念そうに石を戻し、エリスはその様子に微笑みながら、必要な物資を手際よく買い揃えていく。
市場での買い物を終えた二人は、宿屋に戻って荷物の整理を始めた。エリスは計画通りに荷物を詰め直し、ゲラに使い方を教えていく。
「この袋には食料と水を、こちらには薬草と応急セットを入れました。急な天候の変化にも対応できるように、上着やマントも忘れずに持っていきます」
「エリスって、ほんとに頼りになるねー。私一人じゃ絶対にこんなにちゃんとできないよ」
ゲラが素直に感心して言うと、エリスは少し照れたように視線をそらした。
「それが私の役目ですから。でも、ゲラさんがいれば、きっと旅も楽しくなると思います」
「えへへ、そう言ってくれるとなんか嬉しいな!」
ゲラは屈託のない笑顔を見せ、エリスもそれに応えるように穏やかに微笑んだ。
午後の陽が傾く頃、エリスとゲラは宿屋の中庭に座り、旅の準備を終えた安堵感に浸っていた。心地よい風が吹き抜け、遠くで村の子供たちの笑い声が聞こえる。
ゲラはごろりと芝生の上に寝転び、青空を見上げた。すぐ隣で、エリスがその様子をじっと見ている。
「ねえ、エリス。こうやって一緒にのんびりできるのも、意外と楽しいね」
ゲラはにやっと笑いながらエリスに話しかける。エリスは少し戸惑った様子で、けれどどこか柔らかい表情を浮かべた。
「そうですね。私にとっても、こうして誰かと穏やかに過ごす時間は……とても新鮮ですわ」
「そっか、じゃあさ、エリスも時々のんびりするのもいいんじゃない? いつもそんなに真面目な顔してると、眉間にシワができちゃうよ?」
ゲラが冗談めかして言うと、エリスは少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「それは困りますね。では、ゲラさんに倣って、少しだけ気を抜いてみることにしますわ」
「お、いいねー! そしたら、もっと旅が楽しくなるかも!」
ゲラが楽しそうに笑うと、エリスも微笑みながら頷く。その瞬間、二人の間にあった距離が、少しだけ縮まったように感じられた。
その夜、宿屋の窓から外を見つめるゲラの姿があった。彼女は村の夜景を見下ろしながら、胸の奥で小さな期待感が膨らむのを感じていた。
「エリスと一緒なら、なんかワクワクするな……私、ここで何を見つけられるんだろう」
そう独り言をつぶやくと、ゲラはクスッと笑った。いつもの自分とは少し違う、何か新しいものが目の前に広がっているように思えたからだ。
一方、隣の部屋でエリスは、そっと目を閉じながら思いを巡らせていた。自分の中にあった重い後悔が、ゲラの無邪気な笑顔によって少しずつ和らいでいくのを感じている。
「ゲラさん……あなたとなら、もう一度、あの時とは違う選択ができるかもしれませんね」
エリスの心に、小さな決意が芽生える。彼女の目の奥に宿るのは、かつて見失った希望と、そして新たな挑戦への思いだった。
夜空に輝く星が、静かに村を見守るように照らしていた。その下で、明日からの新しい旅に思いを馳せる二人。すぐには出発しない。準備した荷物を手に、まずは足元を見つめる時間だ。新しい日々はまだ始まったばかりで、次に何が待ち受けているのかは誰にもわからない。
でも、きっと彼女たちはどこかで――少しずつ前へと進んでいくのだろう。